三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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宮田光次(みやた・みつつぐ)
出身地不明(??~1578)
羽柴秀吉が近江長浜に城を与えられた頃からの重臣で「羽柴四天王」に数えられる。通称の喜八(きはち)でも著名。
四天王の筆頭格で、家臣団でも武勇第一と讃えられたが、1578年の播磨攻めで戦死した。
戦死の地は三木城、上月城、高倉城と諸説ある。
光次の死の翌年、秀吉は酒宴を開き家臣をねぎらい「我が家の家臣団も昔に比べ随分と盛んになったと思わぬか」と聞いた。
家臣らもそれに同調し「三倍になりました」「いや五倍です」と言い、秀吉も「それどころではない、十倍だ」と大笑いした。
すると竹中半兵衛が静かに「昔に劣ります」と述べた。秀吉が驚いて理由を尋ねると「宮田喜八が死にました」と答えた。
秀吉も在りし日の光次の勇姿を思い出し「半兵衛の申す通りだ」と嘆息したという。
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神子田正治(みこだ・まさはる)
尾張の人(??~1587)
豊臣秀吉の早くからの重臣で「羽柴四天王」に数えられる。姓は御子田と書かれることも多い。
はじめは父とともに織田信長に仕え、桶狭間の戦いや美濃斎藤家との戦いで活躍し、秀吉に請われて家臣となった。
その後は秀吉が関わった重要な戦のほとんどに従軍し、1583年の賤ヶ岳の戦いでは一軍を任され、戦後には播磨広瀬に1万2千石を与えられた。
しかし一説に軍学に優れたものの、それを鼻にかけ傲慢で皮肉屋な性格を秀吉に疎まれていたといい、1584年の小牧・長久手の戦いで殿軍を務めるも、他部隊が交戦中にも関わらず無断で戦線離脱したため改易となり、高野山へ追放された。
翌年には高野山も追われて諸国を放浪。豊後に流れ着き、1587年に秀吉の九州征伐が始まると帰参を願い出たが、これが藪蛇となりついに自害を命じられた。
同じく羽柴四天王で草創期からの重臣である尾藤知宣(びとう・とものぶ)もこの3年後に死を賜っており、正治の死は秀吉政権の転換期を象徴する事件であった。
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増田長盛(ました・ながもり)
尾張または近江の人(1545~1615)
豊臣政権の五奉行の一人。
1573年、羽柴秀吉に仕えるまでの経歴は不明で、一説に一向宗徒として織田信長と戦ったという。
秀吉のもとで内政・外交に手腕を発揮し、また小牧・長久手の戦いや紀州征伐では大将首を挙げるなど武勇にも優れた。
次第に頭角を現し諸大名との交渉や連絡、太閤検地の実施を担い、文禄の役では兵站や占領地の統治はもちろん実戦にも投入された。
1595年、豊臣秀長(ひでなが)に続き豊臣秀保(ひでやす)が没すると大和郡山20万石を与えられ、秀長・秀保の旧臣を多く召し抱えた。
秀吉の晩年には五奉行に列し、慶長の役では福島正則、石田三成とともに大将として大規模な援軍を率いることが決まっていたが、秀吉の死により沙汰止みとなった。
1600年、関ヶ原の戦いでは同じく五奉行を務めた三成に従い、やはり五奉行の長束正家(なつか・まさいえ)とともに作戦立案に貢献。
伏見城攻めには長盛自ら加わり、近江大津城の戦いでは長盛は参戦しなかったものの、増田軍が先陣を切って戦った。
だが一方で裏では三成の挙兵を徳川家康に報せ、管理していた豊臣家の直轄領から三成へ資金援助を行わずと、東西両軍に通じていた。直轄領の石高は100万石(約3万の兵力に相当)にも及び、もし長盛が全面的に三成を援助していれば、関ヶ原の趨勢は変わっていたという指摘もある。
本戦には参加せず、西軍総大将の毛利輝元(もうり・てるもと)とともに大坂城にいたが、西軍が敗れると出家して家康のもとへ謝罪に赴き、助命されたが改易のうえ高野山へ預けられた。
1614年、家康から大坂冬の陣に先立ち豊臣家との和睦の仲介を依頼されたがこれを拒絶した。
徳川義直(よしなお)に仕えていた嫡子の増田盛次(もりつぐ)は徳川方として参戦したが、豊臣家への忠誠心厚く、徳川軍が敗れると喜び、豊臣軍が敗れると嘆き、家康を「さすが増田の子よ」と感心させた。
1615年、大坂夏の陣で盛次は父と相談の上で徳川義直の了承を得て、豊臣軍に加わった。
藤堂高虎軍と戦い華々しく討ち死にを遂げ、戦後に長盛は息子の責任を取り切腹した。享年71。
最期こそ潔かったが、関ヶ原での保身目的の姑息な立ち回りから、豊臣家を滅亡させた元凶と見られることも多い。
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前田玄以(まえだ・げんい)
美濃の人(1539~1602)
豊臣政権の五奉行の一人。尾張前田家の前田利家らは遠縁に当たる。
若い頃は比叡山延暦寺に入っていたとも、尾張で住職を務めたとも言われる。
やがて織田信長に仕えると、思慮深く無私無欲の性格を気に入られ嫡子の織田信忠(のぶただ)の家臣に付けられた。
1582年、本能寺の変では信忠とともに二条御所におり、信忠の命で3歳の嫡子・織田秀信(ひでのぶ)を連れて尾張まで逃亡したが、信忠は攻め寄せる明智光秀軍と戦い討ち死にした。
その後は信長の次男・織田信雄(のぶかつ)に仕え京都所司代に任じられたが、豊臣秀吉が京を勢力圏に収めると鞍替えし、同じく京都所司代として朝廷との交渉役や、後に五奉行を務めた。
僧侶ながらキリスト教に理解があり、バテレン追放令が出された後も京で秘密裏にキリシタンを保護したという。また息子のうち2人はキリシタンになっている。
一方で同じ僧侶の不行跡を目にすることが多かったようで、他の僧侶を厳しく非難したという。
1598年、秀吉が没すると石田三成ら文治派と加藤清正ら武断派が争い、玄以は折衝に努めた。
1600年、関ヶ原では三成の率いる西軍に加担したが、一方で東軍を率いる徳川家康に三成の挙兵を報せるなど東西両軍に通じ、豊臣秀頼(ひでより)の後見役を志願して大坂城に残ると、病気を理由に出陣を拒んだ。
戦後、家康は内通を評価し丹波亀山5万石を安堵した。五奉行で玄以と同じく内通しながらも増田長盛(ました・ながもり)は改易されたが、長盛は前哨戦で兵を出していたこと、玄以のように朝廷との太いパイプが無かったことが原因と見られる。
1602年、63歳で没した。
前年に嫡子が亡くなっていたため(玄以が切腹を命じた、または暗殺したともいう)次男の前田茂勝(しげかつ)が跡を継いだが、禁止されていたキリスト教を熱心に信仰していたため幕府に睨まれ、また藩政を顧みず放蕩にふけり、それを咎めた家臣を殺したためついに改易された。
美濃前田家は三男の前田正勝(まさかつ)の系統が旗本として存続した。
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堀尾吉晴(ほりお・よしはる)
尾張の人(1544~1611)
豊臣秀吉の重臣。温厚で通称から「仏の茂助(もすけ)」と呼ばれた。
堀尾家は尾張の国人衆で、尾張上四郡の守護代・織田信安(おだ・のぶやす)に仕えていた。
しかし1559年、織田信長によって滅亡に追い込まれたため鞍替えし、木下秀吉の下に付けられた。
以降は秀吉に従い各地を転戦し、1567年の稲葉山城の戦いでは城に通ずる裏道を案内したという。
順調に出世を重ね1583年、若狭高浜に1万7千石を与えられ大名に列し、かつて織田信安に仕えた山内家の山内一豊(やまのうち・かずとよ)らとともに豊臣秀次(ひでつぐ)の家老となった。
その後も九州征伐、小田原征伐にも参戦し、1590年には関東に移封となった徳川家康の旧領である遠江浜松12万石を与えられた。
1595年、秀次は謀叛を企んだとして処刑され、多くの家臣も連座したが、すでに独立を果たしていたのか吉晴は罪に問われなかった。
またこの頃、中村一氏(なかむら・かずうじ)、生駒親正(いこま・ちかまさ)とともに三中老に任じられたとされる。
1598年、秀吉が没すると家康によしみを通じ、前田利家、石田三成ら反家康派との間を取り持った。
翌年、老齢を理由に隠居し、長男が早逝していたため次男の堀尾忠氏(ただうじ)に家督を譲った。
隠居料として家康から越前府中5万石を与えられたが、これは家康が知行を与えた最初の例である。
1600年、関ヶ原の戦いでは東軍につき、それに先立ち会津征伐に赴く家康を浜松城で歓待した。
吉晴は自らの参戦を訴えたが、家康は忠氏だけで許し帰国を命じた。
帰国の途上、三河で水野忠重(みずの・ただしげ)、加賀井重望(かがのい・しげもち)と宴会をしていると、突如として重望が忠重を殺害した。
吉晴も襲われ17ヶ所もの槍傷を負ったが、重望を返り討ちにした。
駆けつけた忠重の家臣らは吉晴が下手人だと勘違いするほど凄惨な現場で、吉晴の菩提寺に残る吉晴木像には左頬に深い傷跡が彫られており、この際に負ったものと思われる。
事件の背景は不明だが、重望が西軍に通じており、東軍の重鎮である吉晴、忠重を狙ったものと考えられている。
忠氏は関ヶ原の本戦で活躍し出雲富田24万石に加増された。また吉晴も北国の情勢を逐一家康に報せたとされる。
1604年、忠氏が急逝し孫の堀尾忠晴(ただはる)が6歳で跡を継いだため、吉晴が復帰し後見役を務めた。
1611年、松江城を築き移り住み、間もなく68歳で没した。
堀尾家は1633年に忠晴が没すると無嗣改易となったが、血縁は他家の家臣となり残っている。
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堀尾忠氏(ほりお・ただうじ)
出身地不明(1578~1604)
豊臣家の三中老・堀尾吉晴(よしはる)の次男。
1599年、父が隠居すると兄が早逝していたため家督を継いだ。
翌年の関ヶ原の戦いでは、父同士がかつて織田信安(おだ・のぶやす)に仕えていた間柄でもある山内一豊(やまのうち・かずとよ)と協議し、いち早く徳川家康に居城の提供を申し出たことで、去就を決めかねていた諸大名を一斉に東軍方に付けることに貢献した。
居城の提供はもともと忠氏の発案だったが、一豊がそれを横取りして自分の案のように家康に話したため、後に「日頃は篤実なあなたにしては珍しい」と忠氏にからかわれた、という逸話も伝わる。
関ヶ原本戦でも忠氏は活躍し、戦後に出雲富田24万石へと加増された。
出雲に入った忠氏ははじめ月山富田城を居城としたが、山に囲まれ交通の便が悪く、城下町も広げられないことに不満を抱き移築を考えた。
父の吉晴は荒隈山に城を築くべきと主張したが、あまりに広大すぎ割に合わないと渋り、忠氏は自ら各地を検分して回った。
1604年、意宇郡の大庭大宮に参拝した時、ついでに付近の池を調査したいと言ったが神主は禁足地(聖域)であるとして断った。
忠氏は権力を振りかざして強引に案内させ、禁足地には一人で入っていった。
そして戻ってくると忠氏の顔色は紫色に変わっており、居城に帰り着くや病床に伏してしまい、禁足地を侵したことを繰り返し後悔し、10日も経ずに急逝した。
享年は27と若く持病も無しと、聖域の祟りでも受けたような都市伝説のテンプレの如き不審死であるが、一説にはマムシに噛まれたことが死因とされる。
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堀秀政(ほり・ひでまさ)
美濃の人(1553~1590)
織田信長、豊臣秀吉に仕え、戦上手ぶりから「名人久太郎」とうたわれた。(久太郎は秀政の名)
美男子で幼い頃から才気に優れ、13歳で信長の小姓に取り立てられた。
16歳にして将軍・足利義昭(あしかが・よしあき)の屋敷の普請奉行を命じられるなど、多くの奉行職を務め早くから頭角を現す。
政治だけではなく軍事にもその才は発揮され、1577年の紀伊雑賀討伐では一隊を率いた。
1581年、近江坂田に2万5千石を与えられ大名に列し、翌年の本能寺の変の際には秀吉のもとにおり、山崎の戦いで先陣を務めた。
明智光秀の居城・坂本城に迫ると光秀の娘婿・明智秀満(ひでみつ)は、秀政の家老の奥田直政(おくだ・なおまさ)に伝来の家宝を譲った後に自害したという。
光秀を討った秀吉は織田家での地位を確立し、わずか3歳の信長の孫・織田秀信(ひでのぶ)を当主に据え、秀政を傅役に任じた。
秀吉からの信頼は厚く、一族外の者で初めて羽柴姓を許され、賤ヶ岳の戦いでも軍功多く秀吉に讃えられた。
1584年、小牧・長久手の戦いでは池田恒興(いけだ・つねおき)、森長可(もり・ながよし)ら名だたる将が戦死する中、秀政は部隊を3つに分けると徳川軍を撃退してのけた。
紀州征伐、四国征伐でも大功を立て、石高は越前北ノ庄18万石に上った。
しかし1590年、小田原征伐で左翼を任され快進撃を続けるさなか、疫病を患い38歳の若さで急死した。
後に90万石を領する蒲生氏郷(がもう・うじさと)と同等のペースで加増を重ねており、無事ならば百万石の大身になってもおかしくなく、もし人心掌握術に優れ「名人」とまでうたわれた戦上手の秀政が存命で西軍に属していたら、関ヶ原の戦いの趨勢さえ左右したであろう。
※アイコンは張南
平野長泰(ひらの ながやす)
尾張の人(1559~1628)
豊臣秀吉に仕えた猛将。
平野家は鎌倉幕府の執権北条家の庶流にあたり、一説に長泰の父は公卿の清原家の生まれとも言われる。
若くして秀吉に仕え、1583年の賤ヶ岳の戦いでは加藤清正、福島正則らとともに目覚ましい働きを見せ「賤ヶ岳七本槍」に数えられた。
その後も武功を重ね1597年には豊臣姓も許されたが、清正、正則ら他の武断派と同じく1600年、関ヶ原の戦いでは東軍についた。
徳川秀忠の旗本に付けられたものの、中山道を進む秀忠軍は真田昌幸(さなだ・まさゆき)・幸村父子に足止めされるうちに本戦に間に合わなかった。
1614年、大坂の陣では豊臣家に合流しようとしたものの、それを察知した徳川家康に江戸城の留守居役を命じられたため果たせなかった。
1628年、80歳で没した。生涯にわたり親豊臣派に属したためか「七本槍」の中で唯一、大名にはなれなかったが子孫は明治期まで続き、明治新政府によって大和田原本に立藩されたという。
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尾藤知宣(びとう・とものぶ)
信濃の人?(??~1590)
豊臣秀吉の早くからの重臣で「羽柴四天王」に数えられる。
尾藤家はもともと信濃小笠原家に仕えていたが、武田信玄との戦いで知宣の祖父が戦死し、小笠原家も没落すると尾張に流れた。
父の尾藤重吉(しげよし)はさらに三河へ移り奥平家に仕えたが、知宣と兄の尾藤重房(しげふさ)は織田信長に仕えた。
重房は森可成(もり・よしなり)に仕えたが1570年に主君とともに戦死した。知宣は可成の子の森長可(ながよし)に仕えた後、秀吉の家臣となった。
秀吉のもとで頭角を現し、やがて四天王に数えられ、四人の中で最も軍事に明るかったという。
1584年、小牧・長久手の戦いではかつての主君である森長可とともに戦うも、徳川家康に敗れ長可を討ち取られた。
だが翌年の四国征伐で活躍し、讃岐宇多津に5万石を与えられ大名に列した。
1587年、仙石秀久(せんごく・ひでひさ)が戸次川の戦いで大敗し改易されると、知宣は後任の軍監として九州に出陣した。
しかし日向攻めのさなか、宮部継潤(みやべ・けいじゅん)の守る砦が島津軍に包囲された際、伏兵を警戒して救援を見合わせるも、わずかな手勢で出撃した藤堂高虎の奮戦により逆に大勝利を得た。
敗走する島津軍に諸将は追撃を掛けようとしたが、知宣はまたも慎重論を唱えてそれを取りやめさせ、みすみす逃がしてしまった。
仙石秀久に続き後任の知宣も度重なる失態を演じたことに秀吉は激怒し、改易のうえ追放した。
1589年、聚楽第落書き事件への関与を疑われ一時は捕縛された。難を逃れると伊勢の山に潜伏し、同地で没したとする説もある。
1590年の小田原征伐の後、北条家に仕えていた知宣は剃髪して秀吉の前に現れた。自分と同じく北条家に仕えていたが赦免された佐久間安政(さくま・やすまさ)を例に挙げ帰参を願い出たが、これが藪蛇となり逆に処刑されてしまった。
秀吉の怒りは収まらず、かつて知宣を匿っていたという理由で小笠原貞慶(おがさわら・さだよし)も改易された。なお貞慶は信濃小笠原家の跡継ぎで、尾藤家の主君筋にあたる。
長男の頼次(よりつぐ)は連座を避けるため、叔父(知宣の弟)の尾藤頼忠(よりただ)とともに尾藤姓を捨てると、頼忠の娘婿の石田三成に仕え宇多(うだ)姓を名乗った。
頼次は三成の父・石田正継(いしだ・まさつぐ)の養子となりさらに石田頼次と名乗りを変え、真田幸村の姉妹をめとった。
叔父の頼忠は1600年、関ヶ原の戦いの敗北後に佐和山城で石田正継とともに自害したが、頼次はそれに準じたとも、城ではなく大坂の石田家の屋敷にいたため難を逃れ寺沢家に仕えたともいう。
また知宣のもう一人の弟の青木清兼(あおき・きよかね)も、連座を恐れてか子の代から母方の姓である桑山姓を名乗ったという。
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蜂須賀家政(はちすか・いえまさ)
尾張の人(1558~1639)
豊臣秀吉の腹心で蜂須賀小六(ころく)の通称で知られる蜂須賀正勝(まさかつ)の嫡子。
父とともに若い頃から秀吉の下で戦った。
1585年、四国攻めで正勝は大功を挙げ、秀吉は阿波一国を与えようとしたが、正勝は秀吉の側近のままでいたいと辞退した。
しかし褒美なしともいかず、息子の家政に阿波18万石が与えられ、28歳で大名に列した。
一説に阿波踊りは後に徳島城を築いた家政が「城の完成祝いに好きに踊れ」とお触れを出したのが発祥ともいう。
その後は翌年に没した父に代わり数々の戦で武功を立てた。
しかし1597年、慶長の役では孤立した浅野幸長(あさの・よしなが)を救出したものの反撃に転じず、また戦線縮小を提案したことが秀吉の逆鱗に触れ、本土に呼び戻された挙句に蟄居と蔵入地の没収を命じられた。
その恨みもあってか秀吉の死後には徳川家康に接近し、息子の蜂須賀至鎮(よししげ)と家康の養女を縁組させ、また石田三成の襲撃事件に加わるなど親徳川派、武断派の典型例となった。
1600年、関ヶ原の戦いでは開戦を前に西軍により高野山へ追放されたが、至鎮が東軍に加わり活躍したため所領を安堵され、間もなく家督も譲り隠居した。
1614年からの大坂の陣では豊臣家から密書で参戦を促されるも「自分は無二の関東方」と拒絶し、自ら駿府にまで出向き家康を訪ねて密書を届けさえした。
至鎮も無論のこと東軍に加わり、戦後には淡路一国を加えられ25万石に加増された。
1620年、至鎮が35歳で没すると、10歳で跡を継いだ孫の蜂須賀忠英(ただひで)の後見を幕府から命じられ、1629年に忠英が成人するまで政務をとった。
晩年は戦国を知る長老格として徳川家光に招かれ御伽衆も務めた。家光に父同然に慕われた伊達政宗は家政を「阿波の古狸」と評したという。
1638年、81歳で没した。
蜂須賀家は後に幕府から養嗣子を迎え嫡流こそ途絶えたものの、最終的には将軍家の直系が当主となるなど、かえって徳川家からは一族同然に見なされ、明治期まで続いた。