三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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尾藤知宣(びとう・とものぶ)
信濃の人?(??~1590)
豊臣秀吉の早くからの重臣で「羽柴四天王」に数えられる。
尾藤家はもともと信濃小笠原家に仕えていたが、武田信玄との戦いで知宣の祖父が戦死し、小笠原家も没落すると尾張に流れた。
父の尾藤重吉(しげよし)はさらに三河へ移り奥平家に仕えたが、知宣と兄の尾藤重房(しげふさ)は織田信長に仕えた。
重房は森可成(もり・よしなり)に仕えたが1570年に主君とともに戦死した。知宣は可成の子の森長可(ながよし)に仕えた後、秀吉の家臣となった。
秀吉のもとで頭角を現し、やがて四天王に数えられ、四人の中で最も軍事に明るかったという。
1584年、小牧・長久手の戦いではかつての主君である森長可とともに戦うも、徳川家康に敗れ長可を討ち取られた。
だが翌年の四国征伐で活躍し、讃岐宇多津に5万石を与えられ大名に列した。
1587年、仙石秀久(せんごく・ひでひさ)が戸次川の戦いで大敗し改易されると、知宣は後任の軍監として九州に出陣した。
しかし日向攻めのさなか、宮部継潤(みやべ・けいじゅん)の守る砦が島津軍に包囲された際、伏兵を警戒して救援を見合わせるも、わずかな手勢で出撃した藤堂高虎の奮戦により逆に大勝利を得た。
敗走する島津軍に諸将は追撃を掛けようとしたが、知宣はまたも慎重論を唱えてそれを取りやめさせ、みすみす逃がしてしまった。
仙石秀久に続き後任の知宣も度重なる失態を演じたことに秀吉は激怒し、改易のうえ追放した。
1589年、聚楽第落書き事件への関与を疑われ一時は捕縛された。難を逃れると伊勢の山に潜伏し、同地で没したとする説もある。
1590年の小田原征伐の後、北条家に仕えていた知宣は剃髪して秀吉の前に現れた。自分と同じく北条家に仕えていたが赦免された佐久間安政(さくま・やすまさ)を例に挙げ帰参を願い出たが、これが藪蛇となり逆に処刑されてしまった。
秀吉の怒りは収まらず、かつて知宣を匿っていたという理由で小笠原貞慶(おがさわら・さだよし)も改易された。なお貞慶は信濃小笠原家の跡継ぎで、尾藤家の主君筋にあたる。
長男の頼次(よりつぐ)は連座を避けるため、叔父(知宣の弟)の尾藤頼忠(よりただ)とともに尾藤姓を捨てると、頼忠の娘婿の石田三成に仕え宇多(うだ)姓を名乗った。
頼次は三成の父・石田正継(いしだ・まさつぐ)の養子となりさらに石田頼次と名乗りを変え、真田幸村の姉妹をめとった。
叔父の頼忠は1600年、関ヶ原の戦いの敗北後に佐和山城で石田正継とともに自害したが、頼次はそれに準じたとも、城ではなく大坂の石田家の屋敷にいたため難を逃れ寺沢家に仕えたともいう。
また知宣のもう一人の弟の青木清兼(あおき・きよかね)も、連座を恐れてか子の代から母方の姓である桑山姓を名乗ったという。