三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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長篠の戦いでは絶望的な戦力差を悟りながらも中核として突撃し、多くの武将が退却戦で討ち取られる中、昌景は序盤戦で織田軍の銃撃の前に倒れた。
非常に小柄で風采も上がらなかったが、戦場に立てば「信玄の小男が現れた」と恐れられ、その死後に昌景の率いていた赤備えは、井伊直政(いい・なおまさ)、真田幸村らに模倣されるほど、その勇猛さは知れ渡っていた。
1566年、松永久秀(まつなが・ひさひで)と三好三人衆に13代将軍・足利義輝(よしてる)が暗殺されると、のちに松永久秀と敵対した三好三人衆によって、14代将軍に義維の子・足利義栄(よしひで)が擁立された。
義維は義栄の後見人となるが、急速に勢力を拡大していた織田信長が、かつて義維が追放した兄・義晴の子である足利義昭(よしあき)を立て、上洛を開始した。
快進撃を続ける信長に抗すすべはなく、義維らは京を逃れ、もともと患っていた義栄もすぐに亡くなり、復権の夢は途絶えた。阿波に戻った義維も、数年後に死去した。
1590年、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣しようとした政宗は、母の招きを受けた。その席上、義は政宗を毒殺しようとし、激怒した政宗は、母が政宗よりもかわいがり、毒殺未遂にも関与していたとされる弟の伊達小次郎(だて・こじろう)を斬り捨てた。
しかしこの事件には諸説あり、真相はよくわかっておらず、義は毒殺未遂後にも政宗と親しく手紙や贈り物のやりとりをしている。
だが1594年、政宗が朝鮮出兵で留守の折に、義は最上家へ戻った。
1600年、関ヶ原の戦いに連動し、上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)が最上義光を攻めると、義光は伊達政宗に援軍を要請し、義もそれに口添えした。
政宗の腹心・片倉景綱(かたくら・かげつな)らは最上と上杉を戦わせ疲弊してから動くよう進言したが、母の安否を気づかった政宗はすぐに兵を挙げた。
1622年、すでに兄・義光も亡く、改易された最上家を去った義は、政宗を頼った。
晩年の母子は和解しており、義は政宗の妻に手製の縫い物を贈るなどし、義の死後には政宗は自ら位牌を作り、保春院を建立し菩提を弔った。
幼い頃は寺に預けられていたが、父と祖父が謀反の疑いをかけられて誅殺されたため、曾祖父の龍造寺家兼(りゅうぞうじ・いえかね)につれられて国を逃げ出した。
筑後の蒲池鑑盛(かまち・あきもり)の援助を受け仇を討ったが、老齢の家兼は間もなく亡くなり、わずか17歳の隆信は跡を譲られた。
主君である少弐冬尚(しょうに・ふゆひさ)を追放し、龍造寺本家の当主が死ぬとその未亡人をめとり、19歳にして龍造寺本家を継いだ。
だが後ろ盾としていた大内義隆(おおうち・よしたか)が陶晴賢(すえ・はるかた)の反乱で殺されると、家臣の反発を抑えられず、追放されて再び蒲池鑑盛のもとに身を寄せた。
しかし不屈の隆信は、蒲池家の援助で返り咲くと、次々と周囲の敵を降し東肥前の占有に成功した。
急速に勢力を拡大した隆信は、大友宗麟(おおとも・そうりん)ににらまれ、6万もの大軍に攻められたが、軍師・鍋島直茂(なべしま・なおしげ)の策略でそれを撃退し、有利な条件で和睦を結んだ。
強大な大友家には従属していたものの、武力を背景に活動を黙認させ、1578年には肥前の統一を果たした。
さらに大友家が耳川の戦いで島津に大敗すると、大友勢力を一気に切り崩し、龍造寺家の支配は五ヶ国に及んだ。
しかし何度も国を逐われ、また急速な勢力拡大で不穏分子を増やしていた隆信は疑心暗鬼にかられ、恩人・蒲池鑑盛の息子で、自分の娘婿でもある蒲池鎮並(かまち・しげなみ)を暗殺するなど、粛清を多く行い、家臣の反発を招いた。
1584年、有馬晴信(ありま・はるのぶ)の独立を機に島原半島の諸城が一斉に反旗を翻した。有馬は島津家の援助を得て沖田畷で隆信と戦い、龍造寺軍は6万もの数を擁しながら、島津家久(しまづ・いえひさ)の策謀に屈し、隆信も討ち取られた。
肥満のため馬に乗れなかった隆信の輿は、信望を失っていた家臣に放り出され、隆信は一人とり残されての最期だったという。
「真田十勇士」でも知られる屈指の忍者集団であった真田忍者の中でも筆頭格の実力者のはずだが、経歴を見ると
1583年 中山城に忍びこみ馬を盗む
1585年 白井城に忍びこみ馬を盗む
1618年 盗みを働いて農民に殺される
と、とても大忍者には思えない、というかただの馬泥棒なんじゃね? と思いたくなる生涯を送った謎の人物である。
お市に懸想する秀吉の尽力もあり、お市と三人の娘らは小谷城を脱出し、以降は兄の織田信包(おだ・のぶかね)の庇護を受け、信長にも目をかけられた。
1582年に信長が本能寺の変で没すると、秀吉の仲介でお市は織田家の筆頭家老・柴田勝家に嫁いだ。
しかし間もなく、信長の後継者争いで秀吉と勝家は対立し、賤ヶ岳の戦いで勝家は大敗した。
秀吉はお市を助けようと奔走したが、秀吉を毛嫌いしていたお市はそれを拒絶し、勝家とともに自刃した。
お市の三人の娘はそれぞれ、長女の茶々(ちゃちゃ 後の淀君)はお市に生き写しだったことから秀吉に。次女の初(はつ)は名門・京極家に。三女の江(ごう)は徳川秀忠(とくがわ・ひでただ 第二代将軍)に嫁ぎ、浅井の血を残した。
政務にもたずさわり、城を空けた秀吉の代わりに城主代行を務めたり、秀吉が関白に任じられると、朝廷との交渉や、人質として集められた諸大名の妻子を監督する役割を担った。
1593年からの朝鮮征伐へ向けて全国の交通整備を行なったときには、名護屋(現在の佐賀)から京への通行には秀吉の、京から名護屋へは豊臣秀次(ひでつぐ 秀吉の養子)の、そして大坂から名護屋へはねねの朱印状がそれぞれ必要となる体制が取られた。
そのため諸大名から一目置かれ、ルイス・フロイスら宣教師には「王妃は非常に寛大で、彼女に頼めば叶わぬことはない」と讃えられた。
豊臣家の滅亡後にも、ねねは徳川家に領地を与えられ、関白の未亡人として丁重に扱われたという。
~秀吉との仲~
ねねが秀吉の女好きに不満を抱いたため、織田信長がねねに送った仲裁の手紙が残されている。
要約すると「この前久しぶりにお会いしたが、あなたは変わらず美しかった。あなたほどの女性をないがしろにするとはハゲネズミ(秀吉)は身の程知らずだ。しかしあなたは奥方なのだから堂々として嫉妬するのはよしなさい。秀吉にもこの手紙を見せてやるといい…」といった内容で、魔王と恐れられた信長の意外に細やかな心配りが見られる。
なお秀吉の浮気性には苦しめられたが、夫婦仲はむつまじく、秀吉が関白となってからも諸大名の面前で、夫婦で尾張弁丸出しで怒鳴り合ったという逸話が伝わっている。
意外に遅めの20歳で初陣を飾ると、自ら前線で槍を振るうためたびたび重傷を負ったが、大隅・日向・肥後の攻略に貢献し、島津家は一気に勢力を拡大した。
九州三強の一角・龍造寺家を破り、残すは大友家だけとなったが、織田信長のあとを受け天下統一を目指す豊臣秀吉の遠征軍が、大友の援軍として現れた。
豊臣軍の圧倒的な兵力を前に抗す術はなく、1587年に島津家は降伏した。
文禄・慶長の役では朝鮮に出兵したが、国元で梅北国兼(うめきた・くにかね)が一揆を起こしたため参陣が遅れ、また義弘の嫡子・島津久保(ひさやす)が陣中で没するなど不運がつづく。
しかし1598年、泗川の戦いでは7000の兵で明・朝鮮の連合軍を打ち破り4万もの首級をあげ、退却戦では朝鮮水軍の大将・李舜臣(り・しゅんしん)を討ち取り「鬼島津」と恐れられた。
1600年、関ヶ原の戦いに際しては親豊臣派の義弘と、反豊臣派の義久との間で対立が起き、義弘はわずか1000の兵力しか動員できなかった。
豊臣家に降伏したおりに、本国の薩摩だけではなく、大隅・日向の領有も認めるよう奔走してくれた石田三成に恩義を感じていた義弘は西軍に身を投じた。
しかしわずかな兵しか持たない義弘を西軍の首脳陣は冷遇し、前哨戦で島津軍を置き去りにしたり、献策を退けたりしたため、義弘は戦意を失った。
いざ戦が始まっても島津軍は動こうとせず、小早川秀秋(こばやかわ・ひであき)の寝返りで勝敗が決すると、小勢の島津軍は逃げ場を失っていた。
義弘は切腹を覚悟したが、甥の島津豊久(とよひさ)の説得で翻意し、前方に突撃し敵中突破での退却を決意した。
死に物狂いの島津軍の勢いを恐れ、目の前にいた福島正則(ふくしま・まさのり)は道を空けた。追撃した井伊直政(いい・なおまさ)は深手を負い、のちにそれがもとで没した。
島津軍は、退却する際に部隊の一部を残し全滅するまで防戦させ、それを繰り返して本隊だけを逃げ延びさせる「捨て奸(すてがまり)」と呼ばれる戦法をとり、島津豊久らの犠牲で退却に成功し「島津の退き口」と讃えられた。
日頃から家臣を大切にしていた義弘だからこそ成せる業であった。
薩摩に戻った義弘は防備を固める一方で、必死に和睦の道を探り、自身を追撃した井伊直政に仲介を求めた。
義弘の手勢しか出さなかった島津家にはまだ大軍が健在であり、島津軍の恐ろしさを身を持って知る井伊直政や福島正則らの口添えもあって、決戦を終えたばかりの徳川家康は不安定な情勢をかんがみ和睦を認めた。
1619年、義弘は生涯を閉じた。晩年は起居もままならなかったが、家臣が法螺貝を吹いたり、鬨の声を上げると、とたんに正気を取り戻したという。
家康は島津家を最後まで恐れ、遺言では自分の遺体を薩摩に向けて葬るよう命じた。その危惧は明治維新のおりに現実のものとなり、薩摩志士が江戸幕府を倒すのであった。
主導権を握った氏康は、1554年に今川・武田家と三国同盟を締結し、関東での戦いに専念することとなった。
山内上杉家の当主で関東管領の上杉憲政(うえすぎ・のりまさ)を上野(こうずけ)から追い出すと、憲政は同族の上杉謙信に援助を乞うた。
上杉軍は関東に攻め寄せ、周辺の大名もそれに呼応し10万もの大軍にふくれ上がったため、氏康は小田原城に立てこもった。さすがの大軍も戦国一の名城とうたわれた小田原城の防備を破れず、また氏康も各地の補給線を絶つ作戦をとったため、長期の遠征を嫌った佐竹義重(さたけ・よししげ)ら連合軍の大名は撤退し、さらに武田の同盟軍が上杉領に侵攻したため、包囲は長くは続かなかった。
武田と上杉はそのまま川中島の戦いになだれ込み、北条軍は隙をついて上杉軍に奪われた領土を奪還した。
その後も一進一退の攻防が続いたが、1568年、今川家の衰退を受け、武田家は三国同盟を破棄し、今川家の本拠地・駿河に侵攻した。
北条家は三河の徳川家康と同盟して対抗したが、西に武田、北に上杉、東に里見と三方を敵に囲まれた窮地に陥った。
そこで氏康は上杉家と同盟する奇策をとった。それにより上杉軍の侵攻は止まったものの、上杉方に与していた佐竹義重らがこぞって武田家に寝返ったため、窮地を脱することはできなかった。
1569年、武田軍は小田原城を包囲した。包囲は4日で解かれたものの、その後も劣勢は続き、駿河は武田家の手に落ちた。
1571年、氏康は中風と見られる病を得て没した。戦国随一と称される民政の手腕に長けた氏康の死を惜しみ、領民たちは慟哭したという。
その後、徳川・織田との戦いに焦点を絞った武田家は北条家と和睦を結び、氏康の子、北条氏政(ほうじょう・うじまさ)の代に北条家の関東支配は最広域に及んだが、豊臣秀吉による天下統一の波に抗するほどの力はなく、1590年に北条家は滅亡し、秀吉の天下統一は果たされた。