三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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1614年、徳川家康と豊臣家の間で抗争が始まると、双方から声をかけられたが、半分は再起をかけ、半分は死に場所を求め大坂方につき「豊臣秀頼(とよとみ・ひでより 秀吉の遺児)公には先陣を務めることで、家康公には合戦初日に死ぬことで恩に報いよう」と語った。
そして翌年、大坂夏の陣の緒戦で伊達政宗の大軍と戦い、奮戦の末に銃撃され負傷。自刃して果てた。
~黒田長政との確執~
長政のもとを出奔した際に出された奉公構は、切腹に次ぐ重罰と言われており、長政の又兵衛に対する怒りがすけて見える。
なぜそこまで関係が悪化したかというと、一揆の鎮圧に失敗した際に、長政はいちはやく頭を丸めて父の官兵衛に詫びたが、又兵衛は悪びれず平然としていたため、官兵衛は逆にその態度に感心し不問に付したので、長政は面目を失った、といういかにも名誉を重んじた戦国武将らしい話がひとつ伝わっている。
また、朝鮮出兵の際に敵と一騎打ちをし苦戦する長政を、又兵衛は「ここで討たれるようでは我が主君にふさわしくない」と助太刀しようとせず、辛くも生き延びた長政に恨まれた、という逸話から見ると、黒田官兵衛という傑物に仕えた又兵衛が、決して凡人ではないが、そこまでの人物ではなかった息子の長政に高望みしすぎて幻滅した、というのも出奔の理由のひとつであろうか。
11歳のときに京都で出家したが、のちに還俗し美濃の油商人の婿となる。寺の旧友と再会し、そのつてで長井長弘(ながい・ながひろ)の家臣となった。
武芸と才覚で美濃守護の土岐頼芸(とき・よりあき)の信頼を得ると、頼芸の兄を追放し家督相続に協力した。そして主君の長井長弘を不行跡のかどで殺害し長井家を、ついで守護代の斎藤利良(さいとう・としなが)が病死するとあとを継ぎ斎藤利政を名乗った。土岐頼芸の弟を毒殺したことから頼芸との関係が悪化すると、ついに頼芸を追放し美濃の国主となった。
頼芸はかつて追放した兄の息子や、尾張の織田信秀(おだ・のぶひで)の助勢を得て反攻するが、斎藤利政はそれをさんざんに打ち破り、信秀の息子・信長に娘の濃姫を嫁がせ和睦した。
その際、大うつけとして知られていた信長を引見すると、「わしの息子たちはいずれ信長の馬を引くことになるだろう」とその素質を見抜いたという。
利政は家督を息子の義龍(よしたつ)に譲り隠居し、剃髪して道三と名乗った。だが義龍をうとんじ、下の弟たちをかわいがり、義龍の廃嫡を考えた。
義龍は弟を殺すと道三に対して兵を挙げた。裏切りのくり返しでのし上がった道三に肩入れする家臣は少なく、義龍の大軍の前に戦死した。
道三は義龍を評価していなかったが、その巧みな用兵を見て最後には自分の誤りを認めたという。
なお義龍は道三の実子ではなく土岐頼芸の息子だという通説がよく知られているが、これは後世の創作である。
以上の業績から道三は油商人から戦国大名にまで成り上がったとされていたが、近年の研究では父の長井新左衛門尉(ながい・しんざえもんのじょう)の業績も入り混じっていることが明らかとなり、美濃の国盗りは親子二代によるものであろうと考えられている。
1600年、家康が上杉景勝(うえすぎ・かげかつ 上杉謙信の跡継ぎ)の征伐に赴くと、その隙をつき石田三成ら豊臣方は家康に向けて挙兵した。
元忠はわずかな兵で伏見城に立てこもり、最期は鈴木重朝(すずき・しげとも 雑賀孫市の正体とも言われる)と一騎打ちの末に討ち取られ、玉砕を遂げた。
伏見城の床は血に染まり、のちに京都各所の寺の天井板に使われ、血天井として今も伝えられている。
関ヶ原の戦い後、捕らわれた石田三成は元忠の三男・鳥居成次(とりい・なりつぐ)に預けられた。三成は父の仇として殺されると覚悟したが、成次は「三成の処遇は家康が決めること。むしろ小大名でありながらよく家康と戦った」と賞賛し、三成を手厚くもてなしたという。
~逸話~
堅物に思われる元忠だが、こんな話も伝わっている。
武田家滅亡後、武田の重臣・馬場信春(ばば・のぶはる)の娘を探すよう命じられたが、元忠は発見できなかったと報告した。
後日、信春の娘が実は元忠の本妻になっていたと聞き及んだ家康は、笑ってそれを許したという。
甲斐統一を果たした武田信虎(たけだ・のぶとら)の嫡子として生まれる。
1546年、板垣信方(いたがき・のぶかた)、甘利虎泰(あまり・とらやす)、飯富虎昌(おぶ・とらまさ)らと共謀し信虎を追放し跡を継いだ。この父追放の理由には諸説あり、弟の信繁(のぶしげ)を寵愛され不仲だったとも、信虎自身の暴政が原因とも、はては板垣らが晴信を傀儡にして政権を牛耳るためともささやかれている。
信濃の守護・小笠原長時(おがさわら・ながとき)らはその機に乗じ攻め寄せたが、信玄はそれを打ち破り、逆に信濃に侵攻した。上野から援軍に駆けつけた上杉憲政(うえすぎ・のりまさ)をも破り、信濃の南部を一気に制圧したが、北部を領する村上義清(むらかみ・よしきよ)に敗れ板垣・甘利らは戦死した。
その後も一進一退の攻防がつづいたが、真田幸隆(さなだ・ゆきたか 幸村の祖父)の策略で要衝を落とすと武田家が優勢に立ち、1553年には小笠原・村上の両名は越後の長尾家(のちの上杉家)のもとへ落ち延びていった。
長尾景虎(ながお・かげとら 後の上杉謙信)は村上義清らの要請を受け、信濃奪回のため兵を進め川中島で武田軍と激突した。晴信は敵対していた今川・北条家と三国同盟し後顧の憂いを断ち上杉との戦いに専念した。
両雄は外交戦でも争い、景虎は上洛し将軍・足利義輝(あしかが・よしてる)の名をもらい受け輝虎(てるとら)と改名し、晴信は信濃の守護職を得た。またこの頃に出家し信玄の号を使い始めた。
川中島での戦いは5度・10年に及び、その間に武田家は信玄の弟・信繁や軍師の山本勘助(やまもと・かんすけ)ら多くの重臣が戦死したが、ついに決着はつかず痛み分けに終わった。
上杉との戦いを諦めた信玄は上野、ついで今川義元が桶狭間で戦死し今川家が衰退すると同盟を破棄し駿河に侵攻した。義元の娘をめとっていた嫡子の武田義信(よしのぶ)と傅役の飯富虎昌が反対したため、飯富虎昌を切腹させ、義信は廃嫡しのちに自害を命じた。
今川家を裏切ったことで北条家との関係も悪化し、北条は三河で独立した徳川家と同盟し信玄に対抗した。しかし山県昌景(やまがた・まさかげ)の奇襲が成功し北条軍は大破され、一時は小田原城も包囲された。
さらに北条氏康が病を得、東で佐竹・里見らが動き出したため北条軍は駿河の防備を緩め、1570年、武田家はついに駿河を占領した。
1568年、織田信長が上洛を果たし足利義昭(あしかが・よしあき)が15代将軍についたが、二人は対立し義昭は信長包囲網を布いた。それに呼応した信玄は、織田の盟友・徳川家の三河・遠江に侵攻し多くの城を落とした。
北条氏康が死去し、その遺言で武田家との同盟が修復され、背後の不安がなくなった信玄は西上作戦を開始。同盟関係にあった織田信長とは依然よしみを通じていたが、徳川領に多方面から進軍し、大攻勢をかけた。
浅井・朝倉・一向衆と対峙していた信長はわずかな援軍しか送れず、三方ヶ原で徳川家康は大敗した。
しかし信玄の持病が悪化し、武田家の侵攻は止まり、ついには撤退した。その途上に信玄は53歳で死去した。遺言では自分の死を3年の間秘することと、上杉謙信との同盟を命じたという。
江戸城で伊達政宗と行き会った時のこと、兼続は政宗を無視してすれ違った。政宗が「大名相手に無礼だろう」と憤ると、兼続は「戦場では逃げるあなたの背中ばかり見ていましたから、顔を見ても気づきませんでした」と返したという。(政宗は隻眼で有名であり気づかないわけがないのだが)
また兼続の家臣が下人を無礼討ちし、遺族が「無礼討ちされるほどの粗相はしていない」と訴え出たときのこと、兼続は調査を命じ、遺族の言うとおりだとわかると慰謝料を払った。しかし遺族はあくまで「下人を返せ」と言い募ったので、兼続は「お前たちがあの世に行って閻魔に頼んでこい」と遺族を殺すと、その首を川原にさらし、立て札に「この者どもを使いに出すから死人を返せ」と閻魔に向けた嘆願を書いたという。
信玄が死去すると、後を継いだ武田勝頼(たけだ・かつより)に疎まれ、織田信長との長篠の戦いに臨んでも、不利を説いたが聞き入れられなかった。
右翼を任されたが、数で劣る武田軍は中央の部隊が敗走し壊滅した。勝頼が退却したのを見届けると、信春は殿軍を務め戦死した。
その最期の奮戦ぶりは『信長公記』にも「比類なし」と記されるほどであった。