三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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1600年、家康が上杉景勝(うえすぎ・かげかつ 上杉謙信の跡継ぎ)の征伐に赴くと、その隙をつき石田三成ら豊臣方は家康に向けて挙兵した。
元忠はわずかな兵で伏見城に立てこもり、最期は鈴木重朝(すずき・しげとも 雑賀孫市の正体とも言われる)と一騎打ちの末に討ち取られ、玉砕を遂げた。
伏見城の床は血に染まり、のちに京都各所の寺の天井板に使われ、血天井として今も伝えられている。
関ヶ原の戦い後、捕らわれた石田三成は元忠の三男・鳥居成次(とりい・なりつぐ)に預けられた。三成は父の仇として殺されると覚悟したが、成次は「三成の処遇は家康が決めること。むしろ小大名でありながらよく家康と戦った」と賞賛し、三成を手厚くもてなしたという。
~逸話~
堅物に思われる元忠だが、こんな話も伝わっている。
武田家滅亡後、武田の重臣・馬場信春(ばば・のぶはる)の娘を探すよう命じられたが、元忠は発見できなかったと報告した。
後日、信春の娘が実は元忠の本妻になっていたと聞き及んだ家康は、笑ってそれを許したという。