三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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1614年、徳川家康と豊臣家の間で抗争が始まると、双方から声をかけられたが、半分は再起をかけ、半分は死に場所を求め大坂方につき「豊臣秀頼(とよとみ・ひでより 秀吉の遺児)公には先陣を務めることで、家康公には合戦初日に死ぬことで恩に報いよう」と語った。
そして翌年、大坂夏の陣の緒戦で伊達政宗の大軍と戦い、奮戦の末に銃撃され負傷。自刃して果てた。
~黒田長政との確執~
長政のもとを出奔した際に出された奉公構は、切腹に次ぐ重罰と言われており、長政の又兵衛に対する怒りがすけて見える。
なぜそこまで関係が悪化したかというと、一揆の鎮圧に失敗した際に、長政はいちはやく頭を丸めて父の官兵衛に詫びたが、又兵衛は悪びれず平然としていたため、官兵衛は逆にその態度に感心し不問に付したので、長政は面目を失った、といういかにも名誉を重んじた戦国武将らしい話がひとつ伝わっている。
また、朝鮮出兵の際に敵と一騎打ちをし苦戦する長政を、又兵衛は「ここで討たれるようでは我が主君にふさわしくない」と助太刀しようとせず、辛くも生き延びた長政に恨まれた、という逸話から見ると、黒田官兵衛という傑物に仕えた又兵衛が、決して凡人ではないが、そこまでの人物ではなかった息子の長政に高望みしすぎて幻滅した、というのも出奔の理由のひとつであろうか。