三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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遠藤直経(えんどう・なおつね)
近江の人(1531~1570)
浅井家に仕えた猛将。
代々浅井家に仕えてきた家柄で、直経も浅井長政の傅役を務めており、長政が臣従していた六角家からの独立を企んだ時、真っ先に相談したのも直経だった。
また伊賀忍者と親交があり、浅井家の諜報活動を担ったともされる。
同盟関係にあった織田信長の才能を高く評価し、1568年に信長が長政のもとを訪れた際には暗殺を進言したが、容れられなかった。
その後、旧来から関係の深い朝倉家と、織田家のどちらにつくか議論が持ち上がった際に、直経は織田家を支持した。しかし長政の父・浅井久政(あざい・ひさまさ)の意向もあり朝倉家につくことが決まった。
1570年、姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍が織田・徳川連合軍に大敗を喫すると、直経は味方の首を手に、織田家の兵になりすまして信長のもとへ接近した。
しかし本陣を目の前に竹中家の家臣によって正体を見破られ、あえなく討ち取られた。
竹中半兵衛らは斎藤家を出奔した後、浅井家に客将として迎えられていたことがあり、直経の風貌を見知っていたためと言われる。
磯野員昌(いその・かずまさ)
近江の人?(1523~1590)
浅井家に仕えた猛将。
武勇に優れた員昌は常に先鋒を任された。1570年、姉川の戦いでは織田軍の陣を実に11陣まで破り、織田信長の本陣近くまで迫った。
だが稲葉一鉄(いなば・いってつ)ら美濃三人衆の救援が間に合い、徳川家康の奇襲により朝倉軍が敗走すると、浅井軍も総崩れとなり員昌もやむなく撤退した。
しかし浅井家の史料にしかこの「十一段崩し」は記されず信憑性には欠ける。
1571年、守る佐和山城を孤立させられた員昌は織田家に降伏した。
佐和山城は接収されたものの代わりに近江高島郡を与えられた。羽柴秀吉、柴田勝家、明智光秀、丹羽長秀(にわ・ながひで)ら並みいる重臣も同様に琵琶湖周辺に所領を与えられており、また信長の甥・津田信澄(つだ・のぶすみ)を養嗣子にされるなど員昌の待遇は破格の扱いで、いかに員昌の武勇が大きく買われていたかが察せられ、かの「十一段崩し」も多少の誇張はあるにしろ事実に近いことはあったと思われる。
その後は織田家で数々の戦に従軍したが1578年、信長の勘気を蒙り出奔した。
一説には津田信澄への家督相続を拒んだためというが、その先年にすでに信澄が家督を継いでいたと見られる記録も残っており、確かな理由はわからない。
出奔後の足取りは不明だが1582年、本能寺の変で信長が討たれ、信澄もまた明智光秀の婿だったことから暗殺されると、やがて員昌は高島郡に戻った。
すでに老齢のためか武士をやめ帰農し1590年に68歳で没したと伝わる。
子の磯野行信(ゆきのぶ)は石田三成に、三成が没すると藤堂高虎(とうどう・たかとら)に仕えた。高虎はかつての員昌の家臣である。
孫の磯野行尚(ゆきなお)は大坂の陣で敵将・増田盛次(ました・もりつぐ)を討ち取り、また娘は高名な茶人かつ建築家の小堀遠州(こぼり・えんしゅう)を産んでいる。
朝倉義景(あさくら・よしかげ)
越前の人(1533~1573)
越前の大名。名家の嫡子に生まれたが幼少期の記録はほとんどなく、父の死により16歳で家督を継いだ。
一族の名将・朝倉宗滴(そうてき)が年若い義景に代わり、1555年に没するまで軍事・政治を切り回したという。
妻に同じく名家の細川晴元(ほそかわ・はるもと)の娘を迎え、足利将軍家とも緊密に交流し(義景の義は将軍・足利義輝(あしかが・よしてる)からの一字拝領)、若狭守護の武田義統(たけだ・よしむね)を補佐して援軍を送るなど、しばらくは順風満帆に過ごした。
1565年、足利義輝が暗殺されると朝倉家も時代の流れに呑み込まれていく。義輝の弟・足利義昭(よしあき)は朝倉家に庇護を求め、同時に実権回復のため上洛を促したものの、義景は重い腰を上げようとしなかった。
1568年、業を煮やした義昭は、美濃を制圧し「天下布武」を掲げた織田信長のもとへ去ってしまった。
同年、義景は内紛の続く若狭に介入し、当主の武田元明(もとあき)を庇護する名目で拉致し、若狭を支配下に置いた。この頃から義景は政務を一族の者に任せ、自身は遊興にふけり出したという。
同年9月、織田信長は足利義昭を旗印に早くも上洛戦を開始した。
義景も再三、協力を要請されたが黙殺したため、1570年、朝倉家は反逆者の汚名を着せられ織田・徳川連合軍の攻撃を受けた。
若狭武田家の旧臣が織田家に寝返り劣勢に立たされたが、朝倉家と古くから親交を結ぶ浅井家が織田家を裏切り(当主・浅井長政の妻は信長の妹・お市)背後を急襲したため、織田軍は撤退した。
朝倉軍は追撃をかけたが、殿軍の木下秀吉や明智光秀らに阻まれ、目立った戦果は挙げられなかった。
同年6月、織田・徳川連合軍は朝倉・浅井連合軍と姉川で激突した。
開戦当初は優勢だったが、朝倉軍は義景が出陣せず朝倉景健(かげたけ)が総大将を務めるなど士気で劣り、徳川軍の榊原康政(さかきばら・やすまさ)に側面を突かれると崩れたち、敗走し多くの支城を奪われた。
同年8月、信長が摂津に出陣した隙をつき、義景は自ら指揮を取り近江坂本へ侵攻し、信長の弟・織田信治(おだ・のぶはる)と重臣の森可成(もり・よしなり)を討ち取った。
信長がすぐさま引き返すと義景は比叡山に立てこもり、信長が朝廷や足利義昭を動かし和睦が結ばれるまで戦おうとしなかった。
翌年、信長は義景に味方した比叡山を焼き討ちし後顧の憂いを断つと、浅井家の居城・小谷城へ迫った。
浅井長政は「長島一向一揆が織田軍の退路を断った」と偽って朝倉家の救援を請い、それに騙された義景は出撃したものの、重臣の前波吉継(まえなみ・よしつぐ)や富田長繁(とみた・ながしげ)が相次いで織田家に寝返ってしまった。
だが武田信玄が西上を開始し、三方ヶ原で徳川軍を打ち破ると、戦況は逆転し織田軍は撤退した。
ところが義景はろくに追撃もせず、兵の疲労と積雪を理由に越前へと帰ってしまう。武田信玄は激しく非難をしたが義景は意に介さなかった。
1573年、信玄が急死し武田軍が撤退すると、信長は朝倉家の征伐に乗り出した。
数々の失態を重ねてきた義景は家臣の信望を失っており、朝倉景鏡(かげあきら)や魚住景固(うおずみ・かげかた)らに出陣を拒否され、総兵力を集められなかった。
信長は暴風雨に乗じて自ら砦を攻め落とし、義景が撤退するとやはり自ら追撃軍を率いさんざんに打ち破った。
義景は命からがら居城の一乗谷まで逃げ込んだものの、斎藤龍興(さいとう・たつおき)ら重臣は討ち取られ、一乗谷の守備兵すらすでに逃げ去っていた。
義景は切腹を決意したものの朝倉景鏡に止められ、付近の寺を転々とした。信長は柴田勝家に命じて神社仏閣や居館を手当たり次第に焼き払ったため、京の都にも劣らぬ栄華を誇っていた朝倉家の威容は灰燼に帰した。
そして8月20日、朝倉景鏡にも裏切られ、潜伏中の寺を包囲されると自害を遂げた。
浅井久政(あざい・ひさまさ)
近江の人(1526~1573)
北近江の大名。浅井長政の父。
1542年、17歳で家督を継いだが勇名を馳せた父とは対照的に武勇に優れず、また父も生前は久政よりも姉婿の浅井明政(あきまさ)に家督を譲ろうと考えていたとされ、実際に明政は家督相続に反対し一時反乱を起こした。(すぐに和解し姓を変えたとも、そもそも反乱しなかったともいう)
そのため求心力を失った浅井家は急速に衰え、やがて六角家の支配下に入った。
久政は息子(後の長政)の妻に六角家の家臣の娘を迎えさせ、さらに六角家当主・六角義賢(ろっかく・よしかた)から一字もらい受け浅井賢政(かたまさ)と名乗らせるなど、徹底して六角家に従属した。
しかし久政の弱腰に浅井家の家臣は大いに不満を抱き1559年、久政を幽閉し強制的に隠居させると賢政に家督を継がせた。
賢政は妻を離縁し、長政と改名すると六角家に対し独立を宣言、この日に備え水面下で準備を進めていた浅井軍は調略工作等で戦を有利に進め、長政の巧みな指揮もあり2倍の六角軍を打ち破った。
六角家はその後、家中の混乱から衰退し、一方で長政はその機に乗じ版図を拡大し、また織田信長の妹・お市を妻に迎えるなど勢力を強めていった。
だが1570年、父の代から同盟関係にある朝倉家を信長が攻めると、織田・朝倉どちらにつくか家中は二分された。
久政や古くからの家臣は朝倉家を重視したため、織田家に肩入れしていた長政も結局は折れ、浅井軍は金ヶ崎で織田軍を急襲した。
このように久政は隠居後も強い発言権を持っていたとも、朝倉家を救うために隠居の久政が担ぎ上げられ、長政抜きで軍議が決したとも、そもそも織田家との同盟自体が無かったともされ、長政の家督相続や金ヶ崎の戦い周辺の動静には疑問点が多い。
ともあれ信長は羽柴秀吉や明智光秀らの奮闘により窮地を脱し、徳川家康との連合軍で反撃に乗り出すと、姉川の戦いで浅井・朝倉軍に大勝。
そして1573年、信長はまずは朝倉家を滅ぼすと、返す刀で浅井家の居城・小谷城へ迫った。
孤立した久政は家臣に切腹するまでの時間を稼ぐよう命じると、一族やお抱えの舞楽師とともに自害を遂げた。
久政は「浅井三代記」や各種の創作で家を滅ぼした元凶として暗愚に描かれがちだが、近年になって六角家への従属を選択した外交手腕や、内政で挙げた業績を再評価されているという。
出浦盛清(いでうら・もりきよ)
信濃の人(1546~1623)
武田家に仕えた忍者。甲州透破を統率した。
敵城へ配下を潜入させる際、先に自分が潜入し探索しておき、配下の報告の正確さを確認するほど優れた手腕を持っていた。
1582年、本能寺の変が起こると信濃の国人衆はそのほとんどが織田家に反旗を翻し、森長可(もり・ながよし)は敵中に孤立した。
だが盛清だけは森長可に協力を申し出、撤退を助けた。長可は深く感謝し、別れ際に自分の脇差しを与えたという。
翌年からは真田家に仕え、横谷幸重(よこたに・ゆきしげ)とともに「吾妻忍び衆」を統率した。
1590年の小田原征伐では忍城攻めにも加わり甲斐姫らと戦った。
吉田重勝(よしだ・しげかつ)
近江の人(1514~1590)
吉田流弓術の二代目である吉田重政(よしだ・しげまさ)の四男。
重政は仕えていた六角義賢(ろっかく・よしかた)と奥義の伝授をめぐり揉め事を起こし出奔すると、吉田流が途絶えることを恐れ重勝に奥義を授け京へ移らせた。
重勝は「雪荷派(せっかは)」を興し(雪荷は重勝の号)吉田流の正統とされる。
弟子の中で最も優秀だった伴道雪(ばん・どうせつ)に跡を継がせようとしたが、道雪は固辞し、代わりに一派を立てることを願い出た。それが後の「道雪派」である。
生涯、誰にも仕官しなかったが豊臣秀長(とよとみ・ひでなが)、蒲生氏郷(がもう・うじさと)、宇喜多秀家(うきた・ひでいえ)ら多くの大名と交流し弓術を教えた。特に細川幽斎(ほそかわ・ゆうさい)と親しく、重勝は弓術を教える代わりに細川家の小笠原少斎(おがさわら・しょうさい)から故実や礼法を学んだ。没したのも細川家の領国である丹後だった。
吉田重政(よしだ・しげまさ)
近江の人(1485~1569)
吉田流弓術の創始者である吉田重賢(よしだ・しげかた)の子。父から吉田流を継いだ。
同族である近江守護・六角義賢(ろっかく・よしかた)に仕えた。だが奥義の伝授を望んだ義賢と「奥義は吉田家にしか伝えられない」と揉め、一時は朝倉家へ亡命した。
重政は吉田流が途絶えることを恐れ、四男の吉田重勝(よしだ・しげかつ)に奥義を授け京へ移らせた。重勝は後に「雪荷派(せっかは)」を興した。
6年後、六角義賢と和解した重政は再仕官し、義賢が重政の嫡子・吉田重高(よしだ・しげたか)の養子となり、後に返伝することを条件に奥義を授けた。重政から印可を受けたのは義賢のみである。
また重政自ら鍛え上げた弓兵部隊は精強を誇り、松永久秀(まつなが・ひさひで)の兵1万をわずか300で撃退した逸話も残る。
1569年、85歳で没した。
六角義賢は約束を守り、後に吉田重高へ奥義を返伝した。重高は「出雲派」を興し、雪荷派と並ぶ名声を博した。
また義賢の嫡子・六角義治(ろっかく・よしはる)も弓術の名手として知られ、豊臣秀次(とよとみ・ひでつぐ)や豊臣秀頼(とよとみ・ひでより)らの師範となっている。
吉田重賢(よしだ・しげかた)
近江の人(1463~1543)
戦国一の弓術家。
幼少時に数々の弓術を学び、さらに日置正次(へき・まさつぐ)が創始した「日置流」を修めた。
日置流は従来の儀礼に傾いていた弓術とは異なり、命中率と貫通力に重点を置く実戦的な弓術で、日置流以前の流派を「古流」、日置流以降を「新流」と呼ぶという。
日置流は重賢とその子弟によって全国へと広まり、重賢は「吉田流」の開祖とされた。近代の弓術はほぼ全て日置流か吉田流の系統である。
だが日置正次は神仏の化身とされるなど実在が疑問視されており、重賢と同一人物説や、吉田流に箔をつけるため重賢が創作したとも言われる。
吉田家は佐々木一族に属したため、同族の近江の大名・六角家に仕えた。
重賢が没すると子の吉田重政(よしだ・しげまさ)が跡を継いだ。
宇喜多秀家(うきた・ひでいえ)
備前の人(1572~1655)
備前の大名・宇喜多直家(うきた・なおいえ)の次男として生まれる。父が病死すると11歳で家督を継いだ。
織田家に従属していたが本能寺の変が起こるとそのまま羽柴秀吉に仕え、隣国の毛利家へにらみを利かした。
元服すると秀吉に大いに気に入られ「秀」の一字を与えられ、さらに養女の豪姫(ごう 前田利家の娘)を正室に迎え一門衆に列した。
若年ながら指揮能力に優れ、また優秀な家臣団にも支えられ紀州征伐から四国、九州攻めで活躍し、1592年からの文禄の役では総大将を務めた。
秀吉からは豊臣・羽柴姓や参議の官位を与えられ「備前宰相」と呼ばれた。
1597年、慶長の役でも毛利秀元(もうり・ひでもと)とともに監軍として渡海し、帰国すると五大老に列せられた。
しかし秀吉没後の1599年、秀家の側近・中村次郎兵衛(なかむら・じろべえ)の専横に不満を募らせた戸川達安(とがわ・みちやす)らが次郎兵衛の処分を求めるも秀家はこれを拒否したため、重臣らが大坂の屋敷を占拠する、いわゆる「宇喜多騒動」が起こった。
次郎兵衛はもともと仕えていた前田家に逃亡し、激怒した秀家は戸川達安の暗殺を企むが、従兄の宇喜多詮家(うきた・あきいえ)が達安を匿い両者に一触即発の空気が流れた。
徳川家康は大谷吉継(おおたに・よしつぐ)と榊原康政(さかきばら・やすまさ)に調停役を命じたが収拾がつかず、政務が滞るまでに至ったため家康は強引に事を収めたが、これにより達安や詮家ら多くの家臣団が宇喜多家を去り、大きく勢力が削がれた。
同年、前田利家が没すると屋台骨を失った豊臣家は石田三成ら文治派と福島正則ら武断派の対立が深刻化し、正則らの三成襲撃事件が勃発した。秀家は佐竹義宣(さたけ・よしのぶ)とともに三成を救出したが、混乱の隙をつき家康が台頭していき、豊臣家と徳川家の激突は避けられない状況となった。
1600年、ついに関ヶ原の戦いが起こり秀家は西軍の副将に担ぎ上げられた。
本戦でも西軍で最多の1万7千を率い主力として奮闘したが、同じ豊臣一門の小早川秀秋(こばやかわ・ひであき)が東軍に寝返り大敗を喫した。
秀家は「秀秋を叩き斬ってやる」と激怒したが、軍師格の明石全登(あかし・てるずみ)に制止されやむなく落ち延びていったという。
秀家は各地を転々とした末に島津家に流れ着き、豪姫も偽の葬儀を挙げるなど(ちなみに秀家の末子は生まれ年から逆算すると、潜伏中にどこかで豪姫と落ち合った際に身籠ったと思われる)工作したが、生存している噂が流れ、島津家も家康に降伏したため1603年、島津忠恒(しまづ・ただつね)によって身柄を引き渡された。
忠恒と、秀家の義弟・前田利長(まえだ・としなが)の懇願によって死罪は免れたが、長男・次男とともに公式記録では史上初の八丈島への流刑となった。
八丈島では前田家に戻った豪姫や旧臣の花房正成(はなぶさ・まさなり)らの援助により、没するまで50年もの長きを過ごした。
他の流人よりも厚遇されてはいたが、やはり生活は貧しく「嵐を避けて停泊した福島正則の家臣に酒を恵んでもらった」「八丈島の代官におにぎりをもらった」などの逸話が伝わっている。
1655年、84歳で死去。関ヶ原に参戦した大名の中で最も長寿で、すでに江戸幕府は4代将軍の治世であった。
家康の死後、恩赦により帰国を許されたが断ったという説もある。
~泳いで参った~
アイコンと同様にネット上では「泳ぐ人」として定着している。
きっかけは掲示板で大坂の陣について議論された際、豊臣方に全軍を統括できる有能な指揮官がいなかったことから「秀家が総大将なら勝てた」という説が持ち上がり「八丈島から泳いでこいってか」と返されたところ、秀家の妙にイケメンな肖像画に「泳いで参った」と言わせるAAが書き込まれ、人気を博したことからである。