三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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十河一存(そごう・かずなが)
阿波の人(1532~1561)
三好長慶(みよし・ちょうけい)、三好実休(じっきゅう)、安宅冬康(あたぎ・ふゆやす)の弟。
讃岐の十河家の後継ぎが早逝したため、長慶の命で養子となり家督を継いだ。
非常に勇猛で知られ、ある時、戦場で負傷しても傷口に塩を塗り込んで消毒し、藤のつるを包帯代わりに巻いただけで戦いを続けたという。
敵には「鬼十河」と恐れられ、家臣には一存の髪型を真似する者が続出しその髪型は「十河額」と呼ばれた。
長慶が主君の細川家に反逆すると、それを助け奮戦した。次兄・実休が仕えていた細川持隆(ほそかわ・もちたか)の暗殺にも協力し、さらに河内守護・畠山高政(はたけやま・たかまさ)との戦いにも大勝するなど各地を転戦して回った。
しかし1561年、謎の急死を遂げた。
瘡による病死とも、臨終の際にそばにいた不仲の松永久秀(まつなが・ひさひで)による暗殺ともささやかれ、また有馬温泉に久秀と湯治に出かけた折、久秀に「有馬権現は芦毛の馬を好まないから乗らないほうが良い」と忠告されたのを無視したところ、落馬して負った傷がもとで没したともいう。
嫡子の三好義継(よしつぐ)は長慶に引き取られ三好家を継いでおり、他には庶子しかいなかったため甥(実休の子)の十河存保(ながやす)が養子に入り家を継いだ。
安宅冬康(あたぎ・ふゆやす)
摂津の人(1528~1564)
細川家の重臣・三好元長(みよし・もとなが)の三男として生まれる。
兄に三好長慶(ちょうけい)、三好実休(じっきゅう)、弟に十河一存(そごう・かずなが)がいる。
細川家の命で淡路島にいた三好長慶は、淡路水軍を率いていた安宅家に冬康を養子に出し家督を継がせた。
以降、三好家は長兄の長慶が摂津・河内・和泉の兵を、次兄の三好実休が阿波を、冬康が淡路を、弟の十河一存が讃岐を率い各地を転戦した。
冬康は軍事的才能はもちろんのこと「歌道の達者」と評されるほど和歌に通じ、兄の野卑な行いを和歌を用いて諫めるほどだった。穏やかな性格で兵からも慕われたが、実休、一存、さらに長慶の嫡男・三好義興(みよし・よしおき)らが相次いで急死すると1564年、長慶に突如として自害を命じられた。
長男の安宅信康(あたぎ・のぶやす)が跡を継ぎ、後に織田信長に降り淡路水軍を率いたが、30歳の若さで没した。
その後を弟の安宅清康(きよやす)が継いだものの、間もなく所領を没収され、清康も1581年に若くして亡くなり淡路安宅家は滅亡した。
~謎に包まれた最期~
当時から死の背景は謎に包まれ、一級史料として著名な「言継卿記」を著した山科言継(やましな・ことつぐ)は「冬康に逆心があったそうだ」と伝聞の形で記し、一方で「足利季世記」や「細川両家記」は「何者かに讒言によって殺された」とし、「三好別記」や「続応仁後記」はその何者かを松永久秀(まつなが・ひさひで)だと断定しており、多くの民衆もそれを信じたという。
また三好実休ら一門衆の重鎮が相次いで没したことで冬康の権力が急激に強まったのを、三好長慶が危ぶんだという説も根強い。
長慶は当時、重い病に冒されており、自分の死後に年若い息子の三好義継(みよし・よしつぐ)が冬康の傀儡にされると危惧したとも、単純に病のせいで判断力が衰え、冬康への讒言を信じたともされる。
長慶は冬康の死の翌月に病死しており、しかも鬱病を疑われていることから、冬康を巻き込んでの心中と捉える奇説もある。
三好実休(みよし・じっきゅう)
摂津の人(1527?~1562)
三好長慶(ちょうけい)の弟。義賢(よしかた)の名で著名だがこれは誤伝で、本名は之虎(これとら)。実休は法名である。
兄の長慶は細川晴元(ほそかわ・はるもと)に仕え、実休はその分家で阿波守護の細川持隆(もちたか)に仕えた。
1548年、長慶は反旗を翻し細川晴元を追放。
1553年に実休が弟の十河一存(そごう・かずなが)とともに細川持隆を暗殺し、その息子の細川真之(さねゆき)を傀儡の守護として擁立した。
三好家の支配域は畿内から阿波・讃岐の大部分に及び、1560年には河内守護の畠山高政(はたけやま・たかまさ)を追放し実休が代わりの河内守護となるが、1562年、根来衆の援助を得た畠山高政の反撃により、実休は敗走し首を獲られた。
実休の討ち死にの一報が届いた時、長慶は連歌会を催していた。
だが長慶は動じることなく連歌に事寄せて実休へ手向けの句を贈り、参加者を感嘆させたという。
実休自身も千利休らと交流した高名な茶人であり、山上宗二(やまのうえ・そうじ)には武士の中でただ一人「数奇者」と評された。
また旧主の細川持隆の暗殺後に出家したことから、内心では暗殺に悔悟の念を抱いていたと思われる。
三好長慶(みよし・ちょうけい)
摂津の人(1522~1564)
摂津の守護代。名は「ながよし」とも読む。
管領・細川京兆家と足利将軍家を京から追放し実権を握ったため、織田信長に先駆ける戦国時代初の天下人ともされる。
父は細川家に仕えた重臣だが、その権力を恐れた主君の細川晴元(ほそかわ・はるもと)に扇動された一向一揆によって暗殺され、当時10歳の長慶は母とともに阿波へ逃亡した。
だが晴元は一向一揆を抑えられずに大乱となったため、元服前わずか12歳の長慶が間に入って和睦を斡旋し、翌1534年には父の暗殺にも加担した木沢長政(きざわ・ながまさ)の仲介により長慶は細川家に帰参した。
1539年、長慶はもともと父が務めていた代官職を晴元に要求した。
だが代官職には父の仇の一人である三好政長(まさなが)が就いており晴元は難色を示したため、長慶は兵を引き連れて幕府に直談判した。
これに驚いた晴元は付近の大名に呼びかけて兵を集め、一触即発の空気が流れたが、長慶も諸大名を敵に回すのを恐れて和睦し、代官職は得られなかったものの摂津守護代に任じられた。
1541年、長慶は晴元の命で塩川家を攻めたが、木沢長政らが反逆したため敗走した。
しかし河内守護代の遊佐長教(ゆさ・ながのり)が味方し、太平寺の戦いで勝利した長慶は木沢長政の首を上げ、父の仇の一人を葬った。
1546年、反乱した細川氏綱(うじつな)の勢力に遊佐長教と河内守護・畠山政国(はたけやま・まさくに)、さらに将軍・足利義晴(あしかが・よしはる)が加わり晴元の排除に動いた。
大軍を相手に長慶も連敗したが、四国で勢力を築いていた弟の三好実休(じっきゅう)、安宅冬康(あたぎ・ふゆやす)、十河一存(そごう・かずなが)に、実休が仕えていた細川持隆(もちたか)らの援軍が駆けつけると戦況は逆転し、敗北した足利義晴は嫡子の足利義輝(よしてる)に将軍職を譲り隠居し、将軍という後ろ盾を失った細川氏綱らも晴元らと和睦した。
1548年、長慶は晴元に三好政長の追討を願い出たが(この頃に和睦した遊佐長教の娘を側室に迎え入れ、その際に長教から三好政長が父の仇と教えられたともいう)拒絶されると、細川氏綱、遊佐長教とともに謀叛を起こした。
晴元は六角家の援軍を頼みに防衛線を引いたが、長慶は補給路を断つと弟らとともに猛攻を仕掛け三好政長を討ち取った。
晴元は足利義晴・義輝をつれて近江に逃げ、これにより細川政権は事実上崩壊し、長慶は細川氏綱を主君に仰ぎつつも実権を握った。
間もなく足利義晴は没したものの晴元と足利義輝、三好政長の子・三好政勝(みよし・まさかつ ※真田十勇士の一人・三好伊三(いさ)のモデルとされる)は抵抗を続け、長慶の義父・遊佐長教も暗殺された。(暗殺したのはなんと長教が帰依していた僧侶である)
何度か長慶と晴元・義輝の間で和睦が結ばれることはあったが、両者の衝突は続き、ようやく和議を見て義輝が京に戻ったのは1558年のことである。
長慶の勢力圏は摂津を中心に山城・丹波・和泉・阿波・淡路・讃岐・播磨の広範囲に及び、それに匹敵する大名は関東の北条家くらいのものだった。(面積での比較だけで経済・文化的には三好家に圧倒的に軍配が上がる)
1560年にはさらに大和・河内にも版図を広げ、伊予・山城へも食指を伸ばし三好家は最盛期を迎えた。
しかし翌年から三好家には凶事が相次ぐ。まず軍事の中心にいた弟の十河一存が急死。
さらに元の河内守護・畠山高政(はたけやま・たかまさ)が晴元の次男・細川晴之(はるゆき)を擁して挙兵し、次弟の三好実休を討ち取ってしまった。
一時は六角家によって京も奪われたものの、重臣の松永久秀(まつなが・ひさひで)や嫡子の三好義興(よしおき)、弟の安宅冬康らの働きで反抗勢力は一掃された。なおこの間、長慶は出陣した記録がなく、重病に冒されていたと推測される。
長慶が倒れた隙に野心深き松永久秀が台頭したところに三好義興、細川氏綱の訃報が続き、そして1564年、長慶は安宅冬康に突如として自害を命じた。
その理由は諸説あるが、松永久秀の謀略の他、長慶が錯乱したか、あるいは鬱病による心中説まで有力視されるほどで、いずれにしろ長慶が正気を失っていたことは疑いない。
冬康に死を命じてから2ヶ月も経たずに長慶は病没した。
家督は十河一存の子・三好義継(よしつぐ)を養子に迎え継がせたが、年若い義継を後見する三好三人衆に実権を奪われ、松永久秀の反乱、足利義輝の暗殺、義輝の弟・足利義昭(よしあき)を擁立した織田信長の上洛、傀儡の立場に憤った義継が信長へ降伏、と事態は一気に動き、1568年には三好勢力は畿内から姿を消した。
その後も重臣・篠原長房(しのはら・ながふさ)や義継の弟・三好長治(ながはる)らが内紛で命を落とし、急激に衰退した三好家は1573年、信長に反逆した義継の死をもって事実上の滅亡を遂げた。
晩年の乱心や細川晴元、足利義輝らを追い詰めながら命までは奪わなかった優柔不断さ、死後10年もたずに滅亡したことから長慶への評価は時代を問わず辛いが、織田信長に先駆けて堺に目をつけ経済を回すことで力を蓄え、一時は日本最大の勢力を誇ったことは率直に称賛すべきだろう。
また旧主や将軍を殺さず、しかも人質にとっていた晴元の子を下克上後も保護し、兄弟と再会させ「旧主に恩返しができた」と涙したという逸話は、優柔不断さよりもむしろ彼の並外れた穏和さを物語っていると思える。
鍋島直茂(なべしま・なおしげ)
肥前の人(1538~1618)
肥前の大名・龍造寺家の重臣から下克上せずに大名へと上り詰めた異色の戦国大名。
龍造寺家の当主・龍造寺隆信(りゅうぞうじ・たかのぶ)の従弟にあたり、また隆信の母・慶誾尼(けいぎんに)が直茂の父に再嫁し義弟にもなり、大友家との戦いでは多くの献策をして貢献したため隆信からは絶大な信頼を受けた。
1578年、隆信が隠居し嫡子の龍造寺政家(まさいえ)に家督を譲ると、直茂は後見役を任された。
だが1581年に筑後を制圧すると、直茂は筑後の統治に専念するようになり、これは増長した隆信に疎まれたとも、生涯で何度となく裏切りにあってきた隆信が疑心暗鬼にかられたためともされる。
1584年、沖田畷の戦いで島津軍に圧倒的な兵力差を覆され、隆信が戦死すると、直茂は政家を補佐し龍造寺家の家名存続に努めた。
やむなく島津家には降伏したものの、その前に隆信の首級を返還しようという申し出を拒絶し、いまだ意気盛んなところを見せたため、龍造寺家の面目を保ったという。
表面上は島津家に恭順しつつも、裏では大勢力を築く豊臣秀吉とよしみを通じ、九州征伐を成功させたため、秀吉は影の立役者として直茂を激賞し、病弱かつ惰弱な政家に代わり国政を担うように命じた。
文禄の役で龍造寺軍を率いて活躍すると、家臣団も直茂を支持するようになり、政家との間には不仲が噂された。
1600年、関ヶ原の戦いでは嫡子の鍋島勝茂(かつしげ)は西軍についたものの、東軍の勝利を予測した直茂はまず尾張方面の穀物を買い占めて徳川家康に献上し、さらに本戦が始まる前に勝茂の率いる本隊を西軍から離脱させた。
そして九州では自ら兵を率いて西軍に味方した諸大名を攻撃して回ったため、戦後に本領安堵された。
政家は早くに隠居し、わずか5歳の龍造寺高房(たかふさ)が家督を継いでいたが、秀吉の命により直茂が実質的に龍造寺家を率いていた。
高房は長じるとこれに不満を抱き、徳川幕府に実権の回復を求めたが、幕府は直茂・勝茂父子の働きと忠誠を重視し、また隆信の弟らも直茂を支持したため認められなかった。
1607年、高房は妻(直茂の養女である)を殺し無理心中を図った。直茂は「龍造寺家に最大限の敬意を払ってきたのになんの当てつけか」と政家を糾弾し、高房が傷がもとで亡くなると、心痛からか後を追うように政家も没してしまった。
直茂は以来、龍造寺家の反発を恐れて影響力を弱め、結局、自ら藩主の座につくことはなかった。
1618年、直茂は81歳で没した。
耳にできた腫瘍からの激痛に苦しんだ末の悶死とされ、さらに勝茂の子も幼くして死ぬとこれは高房の呪いであると噂を呼び、世に言う「鍋島家化け猫騒動」が創造されるに及んだという。
高橋紹運(たかはし・じょううん)
豊後の人(1548~1586)
大友家の重臣・吉弘鑑理(よしひろ・あきまさ)の次男。初名は吉弘鎮理(しげまさ)。
13歳で初陣を飾り、1567年には反乱を起こした高橋鑑種(たかはし・あきたね)を父や兄とともに討伐した。
1569年、反乱の罪で家督を剥奪された高橋鑑種に代わり、主君の大友宗麟(おおとも・そうりん)の命で高橋家を継ぎ、高橋鎮種(しげたね)と改名し岩屋城・宝満城を与えられた。
その後は筑前・筑後方面の指揮を執る立花道雪(たちばな・どうせつ)のもとで数々の戦に参陣した。
1578年、大友宗麟は鎮種・道雪の反対を押し切り日向へ侵攻するも、耳川の戦いで島津家に大敗を喫し、鎮種の兄・吉弘鎮信(しげのぶ)ら多くの重臣を失った。
これにより鎮種と対峙していた龍造寺・筑紫・秋月家ら反大友勢力は一気に攻勢に転じ、宗麟の主力も島津家を相手に防戦一方となり、鎮種・道雪は孤立した。
だが同年に剃髪し高橋紹運と号した鎮種らは、少ない兵力でたびたび敵を打ち破った。
1581年、実子のいない道雪は、紹運の長男・高橋統虎(むねとら)を養嗣子にもらいたいと願い出た。
嫡子でしかも大器と見込んでいた統虎を譲れないとはじめは紹運も渋ったが、父にも等しい道雪の再三の願いを断りきれず、やむなく受け入れた。この時、紹運は統虎に脇差しを渡すと「もし道雪殿と私が戦になったら、お前はこれで私を斬れ」と言ったという。
統虎は道雪の一人娘で家督を継いでいた立花誾千代の婿養子となり、後に家督を譲られ立花宗茂と改名した。
1584年、沖田畷の戦いで島津軍に敗れ龍造寺隆信(りゅうぞうじ・たかのぶ)が戦死すると、当主を失った龍造寺家は島津家に降り、島津家はますます勢いづいた。
それでも紹運・道雪は小勢ながらも1日で60キロを踏破する強行軍での奇襲などで、3倍近い敵勢力を破り次々と城を落としていった。
しかし1585年、道雪が陣中で病死すると士気が低下し、筑紫家の反撃により宝満城を落とされた。
筑紫広門(つくし・ひろかど)の娘を次男の正室に迎えて和睦し、岩屋城へ引き上げたものの翌1586年、島津軍5万に城を包囲された。
対する紹運の兵はたった763人。島津軍は「キリスト教に狂い人心を惑わす大友家など見捨てよ」と降伏を呼びかけたが、紹運は「主家が隆盛している時に忠勤に励む者は多いが、衰退した時に一命を賭けて尽くす者は稀だ。貴殿は島津家が衰退したら命を惜しむのか。武家に生まれて恩や仁義を忘れる者は鳥獣にも劣る」と勧告をはねつけ、島津軍からも感嘆の声が上がったという。
高橋軍からの脱走者は一人もなく、半月にわたり籠城を続け、ついに全員が玉砕を遂げた。
最期は紹運自身が敵中へ突撃し、17人もの兵を斬り伏せたと伝わる。
島津軍を率いた島津忠長(しまづ・ただなが)は紹運の首を前にすると地面に正座し「類まれなる名将を殺してしまった。紹運殿は戦神の化身のようで、その戦功と武勲は日本に並ぶ者がない。敵でなければ最高の友になれたであろう」と諸将とともに涙し手を合わせたという。
だが島津軍も死傷者3千もの大損害を出し、軍の再配備などで大友領への侵攻は遅れ、大友家の滅亡前に豊臣秀吉軍が九州に到着してしまった。秀吉は九州制圧後、宗茂を呼び寄せると「この下克上の乱世にこれほどの忠勇の士が九州にいたとは思わなかった。紹運殿こそ乱世に咲いた華である」と激賞した。
紹運の執念は結果として大友家を救ったのである。
立花誾千代(たちばな・ぎんちよ)
豊後の人?(1569~1602)
大友家の重臣・戸次鑑連(べっき・あきつら)こと立花道雪(どうせつ)の一人娘。
1575年、道雪は大友家から甥の子である戸次統連(べっき・むねつら)への家督相続を命じられたが、統連の才を危ぶみそれを拒否すると、重臣の薦野増時(こもの・ますとき)を養子に迎え家督を譲ろうと考えた。だが他ならぬ増時が「安易な相続は立花家を滅ぼす」と諫言したため、道雪は娘に家督を譲ることを決意した。
大友家の許諾を得ると、正式な手続きを踏み、わずか7歳の誾千代が戦国でも稀な女城主となった。
1581年、同じく大友家の重臣・高橋紹運(たかはし・じょううん)の子・宗茂を婿に迎え、翌年に誾千代・宗茂は立花姓を名乗った。
父の道雪も立花姓を望んだが、大友家は過去に二度に渡り離反した立花家を嫌ったのか、それを許さなかった。
1584年に道雪が没し、1586年に義父・紹運も戦死。1587年に大友家が豊臣秀吉に降伏すると、宗茂は柳川城への移転を命じられた。
だが誾千代はそれに同行せず、宮永に居を構えた。その理由は「夫婦不和」と記されている。
1600年、関ヶ原の戦いで宗茂らは近江大津城を1万5千(一説に4万弱とも)の兵で攻めるも、わずか3千で籠城した京極高次(きょうごく・たかつぐ)に足止めされ、本戦に間に合わなかった。
宗茂は敗れた西軍の総大将・毛利輝元(もうり・てるもと)に大坂城での籠城戦を進言するも却下されると、兵をまとめて九州に帰った。
その際には誾千代が出迎えたとされ、夫婦はなおも別居中ながら、和解していたと思われる。
宗茂は東軍についた鍋島・黒田・加藤家を相手に抵抗を続けたが、上方に残した家臣が徳川家康の身上安堵の許諾を持ち帰ったため、ようやく降伏した。
なおこの際、宗茂の居城に迫ろうとしていた加藤清正が「このまま進むと宮永を通るが、そこは立花道雪の娘が治め、領民もよく従っているから戦になるだろう」と聞かされ、あわてて道を変えたという逸話が伝わっている。
宗茂は改易され浪人となったが、各地を転々とした末、家康に認められ大名に返り咲いた。関ヶ原で西軍につき改易されたものの大名に復した者は数名いるが、もとの領地の大名に戻ったのは宗茂だけである。
誾千代はそれに先立ち、34歳で病没した。宗茂は後に誾千代の菩提を弔う寺を建立したという。
宗茂との間に子はなく、道雪の血統は途絶えた。宗茂も側室は数人抱えたがいずれも子供をもうけられず、やむなく養子に跡を継がせており、不仲だけが子をなせなかった原因ではないのかも知れない。
「雷を斬った」という逸話をも持つ戦国屈指の名将・立花道雪の娘のため、俗説の域を出ないが誾千代の武勇伝は多く伝わっている。
50人の腰元を鉄砲隊として鍛え上げ、戦のはじめは彼女らの一斉射で幕を開けた。
宗茂が文禄・慶長の役で不在の折、誾千代は豊臣秀吉に呼ばれ手込めにされかけたが、腰元たちに鉄砲を構えて護衛させたため秀吉は手出しできなかった。
関ヶ原の戦いでは自ら甲冑を着込んで宗茂の代わりに留守兵の指揮をとった、などがよく知られている。
戸次鑑連(べっき・あきつら)
豊後の人(1513~1585)
大友家の重臣にして戦国屈指の名将。立花道雪(たちばな・どうせつ)の通称で著名であり本人も立花姓を望んだものの、最後まで得られず、戸次道雪が正確な名乗りである。
幼くして母を失い、父も重病のため継母(大友家の重臣・臼杵鑑速(うすき・あきはや)の姉)に育てられた。
元服前の14歳にして病床の父に代わり自ら志願して初陣を飾り、同年に父が没すると家督を継いだ。
1548年、夏の炎天下のおり、夕涼みしていた大木に雷が落ち半身不随(左足麻痺)となった。その際とっさに刀を抜いて雷光を切ったため絶命を免れ、以来、愛刀を「雷切」と名づけたという。
だがその後も多くの史料に自ら騎馬を乗り付け奮戦した記録が残っており、真偽は怪しまれるが、かの上杉謙信も生まれつき左足が不自由ながら騎乗技術に優れたとされ、多少の誇張はあったにしろ、鑑連の足に障害があっても不思議はない。
1550年、大友家の当主・大友義鑑(おおとも・よしあき)が嫡子の大友義鎮(よししげ)の廃嫡を企んだ。それに反発した義鎮派の家臣が先手を打って襲撃し、義鑑を殺す「二階崩れの変」が起こった。
この時、鑑連は義鎮を補佐し、家督相続に貢献したため、以降は義鎮の厚い信頼を受け筆頭格の重臣として活躍する。
大小100数十戦に出陣し、采配を振るった戦はほぼ無敗。その名将ぶりは遠く甲斐の武田信玄にも届き、信玄は屏風に鑑連と勇猛で知られるその家臣・由布惟信(ゆふ・これのぶ)の名を記し、面会を願ったという。
1562年、義鎮が出家し大友宗麟(そうりん)を名乗ると、鑑連もそれにならって出家し戸次道雪と号した。
道雪とは「道に落ちた雪は消えるまで場所を変えない。武士も一度主君を得たならば、死ぬまで尽くし抜くのが本懐である」という意味だとされる。
事実、宗麟との主従関係は良好で、宗麟は道雪を右腕と頼み、道雪もはばからずに諫言を繰り返した。
ある時、宗麟は凶暴な猿を飼いそれを家臣にけしかけては喜んだ。家臣が辟易していると道雪は宗麟の前に出て、すかさず猿を鉄扇で叩き殺し「人を弄べば徳を失い、物を弄べば志を失う」と諌めたため、宗麟は大いに反省した。
宗麟は若い頃、酒色にふけっており、道雪が訪ねても諫言に来たと煙たがって会おうとしなかった。
すると道雪は京から美人の踊り子を呼び寄せ、毎日宴会を催しては遊びふけった。
話を聞いた宗麟が道雪の家を訪ねると、道雪は「たとえ折檻を受けても、主君の過ちを正すのが家臣の勤めである。我が身を恐れて自分さえよければ、他人はどうでもよいというのは卑怯である。自分の命は露ほども惜しくは無い。主君が外聞を失う事が何より惜しい」と諫言した。道雪の機転と誠意に胸を打たれた宗麟は行状を改め、また道雪の呼んだ踊り子により「鶴崎踊り」が現在もなお伝わっている。
1567年、道雪がかつて討った秋月家の残党が、毛利家の援助を得て筑前で蜂起した。
それに呼応し大友家の重臣・高橋鑑種(たかはし・あきたね)と筑後の国人衆・筑紫広門(つくし・ひろかど)が反旗を翻し、筑前・筑後は反大友で一致を見た。
道雪は叔父の臼杵鑑速とともに出陣し、まず筑紫広門を降した。
毛利家は筑前に毛利軍が上陸したという噂を流し、大友軍が同様した隙を秋月種実(あきづき・たねざね)はついたものの、道雪は奇襲を予期しておりこれを撃退した。さらに同日のうちに夜襲を仕掛けてくると看破し、兵に万全の準備をさせたまま待ち伏せた。
だが臼杵軍が夜襲に動揺し同士討ちを始めたため、道雪は敗軍をまとめ撤退した。この時、多くの一族や重臣を失ったという。
大友軍の敗走を聞きさらに反乱が相次ぎ、立花家は毛利家に寝返り、従属していた龍造寺家も不穏な動きを見せ始めた。
戦線は崩壊するかに見えたが、道雪が奮闘し4ヶ月足らずで立花・高橋・秋月・毛利軍を次々と連破し、鎮圧してみせた。
1569年、大友軍5万は残る龍造寺家の討伐に赴いた。
龍造寺隆信(りゅうぞうじ・たかのぶ)は降伏を申し出たが、道雪はこれを一蹴し次々と城を落とした。
隆信の要請により毛利家の吉川元春(きっかわ・もとはる)、小早川隆景(こばやかわ・たかかげ)が救援に現れると、道雪はすかさず龍造寺家と和睦し、毛利軍と対峙した。
道雪は自ら考案した早合(弾帯)を駆使した「長尾懸かり」戦法で毛利軍を苦しめたが、兵力は拮抗し次第に戦線は膠着した。
そこで大友家の吉岡長増(よしおか・ながます)はかつて毛利家が滅ぼした大内家の残党を旧領の周防に上陸させ、さらに同じく毛利家に滅ぼされた尼子家の残党・山中鹿之助(やまなか・しかのすけ)を援助し蜂起させた。
後方で反乱の相次いだ毛利軍は北九州から撤退し、10年以上に及んだ筑前争奪戦は大友家の勝利に終わった。
翌1570年から道雪は再び龍造寺家の討伐に着手した。この頃から騎馬ではなく家臣に担がせた輿に乗って指揮を取るようになったが、精力はいささかも衰えず、無数の戦に出陣しては軍功を立て続けた。
道雪は筑前守護となり、実質的に統治を任された。さらに立花家の家督を譲られ、立花姓を求めたが、宗麟は過去に何度も反乱した立花家を厭い、許可しなかったという。
1575年、宗麟は戸次家の家督を継いでいた道雪の甥の子・戸次統連(むねつら)に立花家の家督を譲るよう命じた。
だが道雪は統連の才覚を危ぶみ、家臣の薦野増時(こもの・ますとき)を養子に迎え立花家を任せようと考えた。
しかし他ならぬ増時が安易な相続に異を唱えたため、道雪は宗麟の許可を得て一人娘の誾千代に家督を譲った。
立花誾千代は戦国でも稀な女城主となり、1581年には道雪と双璧をなす大友家の重臣・高橋紹運(たかはし・じょううん)の子・高橋統虎(むねとら)を婿養子に迎え、家督を継承した。(統虎は後の立花宗茂である)
1578年、宗麟は道雪の反対を押し切り島津家の討伐を命じたが、道雪を欠いた大友軍は耳川の戦いで大敗を喫し、多くの重臣を失った。
勢いづいた島津家は攻勢に転じ、1584年には龍造寺隆信を討ち取った。
道雪は高橋紹運らとともに筑後の戦線維持に努めたが、龍造寺家も降した島津軍の兵力は圧倒的であり、苦戦を強いられた。
そして1585年、陣中で病を得ると看病の甲斐なく73歳で没した。
道雪は「遺体に甲冑を着け、高良山の好己岳に、柳川の方を向けて埋めよ。さもなくば我が魂魄は必ず祟りをなすだろう」と遺言した。
だが立花宗茂は義父の遺体を戦場に捨て置くのが忍びなく、居城に連れ帰るよう命じた。すると由布惟信は「遺言に背くならばここで切腹し道雪様にお供つかまつる」と言い、他の者も次々と同調した。
これに対し原尻宮内(はらじり・くない)が「切腹するなら宗茂様のために切腹せよ」とたしなめると、由布惟信も考え直し「祟りがあるならば由布一族が受けよう」と言い、立花軍は道雪の遺体を連れ帰ったという。
道雪は家臣思いで、その細かな心配りを物語る逸話が無数に知られている。
かつて家督を譲られかけた薦野増時は、恩賞として道雪の墓の隣に自分の墓を建てる許しを得て、後に立花家が一時取り潰されると黒田家に仕えたものの、死後には道雪と同じ墓所に葬られた。
一方で軍規違反には厳しく、脱走し家に逃げ帰った家臣は、それを迎え入れた親も同罪であるとし、親子ともども処刑させたという。
山中鹿之介(やまなか・しかのすけ)
出雲の人(1545~1578)
尼子家の家臣。実名は山中幸盛(ゆきもり)。
滅亡した尼子家の再興に尽くし「尼子十勇士」など講談に描かれ半ば伝説化した人物で、前半生ははっきりしないが、山中家は尼子家の一門衆で家老を務めたとされる。
三日月に「我に七難八苦を与えたまえ」と祈った逸話は「ドラえもん」などでも触れられ特に著名である。
毛利元就は勢力の衰えた尼子家の本拠地・出雲へ兵を進め、1563年に白鹿城を包囲した。
幸盛は尼子倫久(あまご・ともひさ)の下で救援に赴くが、敗北を喫し退却した。幸盛は200の兵で殿軍を務め、吉川元春(きっかわ・もとはる)、小早川隆景(こばやかわ・たかかげ)の追撃を7度にわたり撃退したという。
その後も尼子軍は劣勢を覆せず連敗したが、幸盛は戦のたびに一騎打ちで敵将の首を挙げたと伝わり、ますます記述が怪しい。
そして1567年、ついに尼子義久(よしひさ)は居城を明け渡して毛利軍に降伏した。
義久、倫久ら三兄弟は幽閉されることとなり、幸盛も随行を申し出たが許可されず、出雲大社で主君と別れると、以降は尼子家再興のための戦いを始めた。
2年間、幸盛の足取りは不明となり、巡礼姿で東へ向かい武田家や上杉家の軍法を、朝倉家で文化を学んだともいう。
1568年、幸盛はかつての尼子家の宿敵・山名家から援助を引き出すと、尼子家旧臣の立原久綱(たちはら・ひさつな)らとともに、京の東福寺で僧をしていた尼子勝久(かつひさ)を還俗させ、主君として担ぎ上げた。
(勝久の父・尼子誠久(さねひさ)は尼子家の重臣だったが、義久の父・尼子晴久(はるひさ)に地盤固めのため粛清された人物で、勝久は助命され僧侶となっていた)
1569年、毛利元就が北九州へ出兵した隙をつき、幸盛ら尼子軍は蜂起すると出雲へ進撃した。
丹後・但馬国から数百艘の船で上陸し、まずは近隣の砦を占拠。尼子家再興の檄を飛ばすと、旧臣が次々と呼応し3千あまりの軍勢が集まった。
尼子家の居城・月山富田城を包囲したが、石見方面の別働隊が窮地に陥ったため、幸盛は包囲を解き救援に向かい、毛利軍を蹴散らすとその勢いのまま出雲の諸城を16落とし、兵力は6千に膨れ上がった。
毛利元就は三刀屋久祐(みとや・ひさすけ)ら出雲の国人衆を戻して対処させようとしたが、幸盛は逆に彼らを降伏させ、とうとう出雲の奪還に成功。(しかし三刀屋久祐は間もなく尼子軍を離脱し以降は毛利家に従った)
さらに神西元通(じんざい・もとみち)を寝返らせ伯耆、因幡、備後、備中、美作ら毛利家の東方面全域に勢力を伸ばした。
それに加え大内輝弘(おおうち・てるひろ)がかつて毛利家に奪われた周防の奪回を目指し挙兵すると、毛利元就は反乱を捨て置けず、九州から兵を引き上げることを決断した。
反撃に乗り出した毛利軍は、挙兵から半月足らずで大内輝弘を自害に追い込むと、全軍を率いて東進。対する尼子軍はいまだ月山富田城を落とせずにいたため、布部山に陣を張り迎え撃ったものの大敗を喫した。
毛利の大軍を前に尼子軍は為す術もないまま各個撃破されていったが、1570年9月、毛利元就が重病に陥り主力が撤退すると息を吹き返した。
幸盛は長く争っていた隠岐弾正(おき・だんじょう)を味方につけ日本海側の制海権を得ると、再び出雲に侵攻。しかし病の癒えた元就は児玉就英(こだま・すけひで)に毛利水軍を率いさせ、制海権を奪い返すと、ついに反乱は鎮圧され、尼子勝久は隠岐へ逃亡。幸盛は吉川元春に捕らえられ、幽閉された。
だが幸盛は間もなく幽閉先から脱走し、毛利家に因幡を支配されつつあった山名豊国(やまな・とよくに)の協力を取り付け、1573年に再び蜂起した。
因幡武田軍5千が籠もる鳥取城を1千の兵で攻略し、10日で因幡の15の城を落とす快進撃を見せたが、肝心の山名豊国が毛利家に懐柔され、鳥取城を明け渡してしまった。
幸盛は近くは浦上家、遠くは大友家や織田家とわたりを付け戦線維持に務めたものの、但馬の山名祐豊(すけとよ)までもが宿敵の毛利家と和睦してしまい後ろ盾を失った。
それでも幸盛は5万近い毛利軍を一時は撃退して見せたが、三村家、浦上家、三浦家ら反毛利勢力が次々と敗れ、やむなく因幡から撤退した。
1576年、幸盛は織田信長に降り、織田軍の力を借りて尼子家再興を目指す。
明智光秀の丹波攻略や、反乱した松永久秀(まつなが・ひさひで)討伐戦に幸盛の名が見える。
羽柴秀吉が中国方面へ侵攻すると、尼子軍もそれに加えられた。
しかし1578年、別所長治(べっしょ・ながはる)が反乱すると、それを好機と毛利軍は反撃に出て尼子軍を包囲した。秀吉は救援に向かおうとしたが緒戦で敗北し、また信長から別所家の討伐を優先するよう命じられたため断念。
孤立した尼子軍は、勝久の切腹と引き換えに城兵を解放することを条件に毛利家へ降伏した。
その際、勝久は幸盛らに僧侶で人生を終えるはずだった自分を大将にしてくれた礼を述べたというが、これは創作と思われる。
幸盛は毛利輝元(てるもと)のもとへ送られる途中で暗殺された。
勝久と幸盛の死をもって、尼子家再興の道は閉ざされたが、尼子家残党は旧臣の亀井茲矩(かめい・これのり)にまとめられ、亀井家は1617年に石見に転封となり、幸盛の悲願は間接的に叶えられたとも言えるだろうか。
また幸盛の長男とされる山中幸元(ゆきもと)は、父の死後に帰農すると摂津の鴻池村で酒造業を始めて財をなし、豪商・鴻池財閥の始祖となったという。
尼子家再興に生涯を捧げた幸盛の忠誠心は後世の人々に称賛され、江戸時代には数々の講談を作られた。
やがて悲運の英雄・山中鹿之助は明治以降の国民教育の題材として採り上げられ、彼の名は広く人口に膾炙することとなった。
ちなみに幸盛らが御家再興に奔走する中、毛利家に幽閉されていた尼子宗家の義久ら三兄弟は何をしていたかというと、反乱には一切関知せず、やがて毛利家の客将となり全員が1600年代まで生きながらえている。
そして倫久の子が尼子家を継ぎ、別の形でも尼子家の再興はなった。彼らの生涯もまた面白いものだが、それと比べれば幸盛らの孤軍奮闘ぶりがさらに際立ち、創作での美化に一層の拍車が掛かったと言えるかもしれない。
小早川秀秋(こばやかわ・ひであき)
近江の人(1582~1602)
豊臣秀吉の正室ねねの兄・木下家定(きのした・いえさだ)の五男。
4歳の時、実子のない秀吉に養子として迎えられた。はじめは秀俊(ひでとし)と名乗る。
秀吉・ねね夫妻には我が子のようにかわいがられ、諸大名からも豊臣秀次(ひでつぐ)に次ぐ後継者候補と見られていた。
だが1593年、秀吉に待望の実子・豊臣秀頼(ひでより)が生まれると状況は一変する。
黒田官兵衛の提案により、実子のない毛利輝元(もうり・てるもと)の養嗣子に出されそうになるが、毛利家の小早川隆景(こばやかわ・たかかげ)は、秀吉によって毛利家が形骸化することを恐れ、急ぎ甥の毛利秀元(ひでもと)を後継者として立てると、代わりにやはり実子のない自分が養子にもらい受けたいと申し出た。
秀吉は隆景を「日本の東は徳川家康、西は隆景に任せれば安泰だ」と評するほど信頼しており、それを認めた。
1595年、豊臣秀次が謀叛の嫌疑を掛けられた末に自害に追い込まれると、秀秋も連座して所領を没収された。
すると隆景はすぐさま隠居して自身の所領を秀秋に相続させ、さらに外様の家臣を仕えさせるなど便宜を図ってやった。
1597年からは慶長の役で一軍を率い活躍した。その際に秀吉の帰国命令を再三にわたり無視したとか、敵兵を虐殺し秀吉に叱責されたともいい、帰国すると越前北ノ庄15万石へと石高をほぼ半分に減封された。慶長の役での軽率な行動への処罰だとされるが、それを裏付ける確かな史料はなく、理由は不明である。
1598年、秀吉が没すると旧領の筑前30万石に復帰した。
1600年、関ヶ原の戦いでは西軍で最大兵力の1万5千を率い松尾山に布陣した。
石田三成は当初、大垣城での籠城戦を企図していたが、大軍を擁する秀秋が勝手に前線に出てしまったため、やむなく関ヶ原での野戦を強いられたとする説もあり、そこから発展して秀秋の進出は籠城戦より野戦を望んだ徳川家康の意向を反映したものであるという説がある。
秀秋は戦前から家康に調略を受けており、戦端が切られても兵を動かさずに傍観した。じれた家康はたびたび内応を促す使者を送り、秀秋の陣を銃撃さえした。
戦いも後半、ようやく重い腰を上げた秀秋は山を下り大谷吉継(おおたに・よしつぐ)軍に襲いかかった。その際には寝返りに不服だった松野重元(まつの・しげもと)ら一部の兵が戦線離脱したという。
1千にも満たない大谷軍はよく健闘したものの、付近にいた脇坂安治(わきさか・やすはる)ら四大名も連鎖反応して一斉に寝返ったため、全滅した。
秀秋の寝返りが決定打となり、劣勢だった東軍は逆転勝利を収めた。
戦後、西軍に与した宇喜多家の所領を受け継ぎ55万石に加増されたが、一方で長年家老を務めた稲葉正成(いなば・まさなり)が出奔するなど家臣団の間で対立があったと思われる。
そして関ヶ原の勝利の立役者となってからわずか2年後の1602年、秀秋は21歳の若さで急死した。
大谷吉継が死の間際に「秀秋は人面獣心なり。三年の間に祟りをなさん」と言い遺したことから祟り殺されたと見る向きもあるが、秀秋は十代の頃から酒色に溺れ、また養母のねねに多額の借金をするなど奢侈な生活を送っており、記録からも重度のアルコール依存症が死因と思われる。
死後、後継者がいなかったため改易となり、明治時代に幕府の許しを得て再興するまで小早川家は断絶した。
なお秀秋の死後に家臣らは関ヶ原の裏切り者として仕官に苦労したという逸話が知られるが、俗説に過ぎず平岡頼勝(ひらおか・よりかつ)などは大名にまで昇進している。