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夢想大蛇

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戦国列伝―山中鹿之介  我に七難八苦を与えたまえ

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戦国列伝―山中鹿之介  我に七難八苦を与えたまえ



山中鹿之介(やまなか・しかのすけ)
出雲の人(1545~1578)

尼子家の家臣。実名は山中幸盛(ゆきもり)。
滅亡した尼子家の再興に尽くし「尼子十勇士」など講談に描かれ半ば伝説化した人物で、前半生ははっきりしないが、山中家は尼子家の一門衆で家老を務めたとされる。
三日月に「我に七難八苦を与えたまえ」と祈った逸話は「ドラえもん」などでも触れられ特に著名である。

毛利元就は勢力の衰えた尼子家の本拠地・出雲へ兵を進め、1563年に白鹿城を包囲した。
幸盛は尼子倫久(あまご・ともひさ)の下で救援に赴くが、敗北を喫し退却した。幸盛は200の兵で殿軍を務め、吉川元春(きっかわ・もとはる)、小早川隆景(こばやかわ・たかかげ)の追撃を7度にわたり撃退したという。
その後も尼子軍は劣勢を覆せず連敗したが、幸盛は戦のたびに一騎打ちで敵将の首を挙げたと伝わり、ますます記述が怪しい。

そして1567年、ついに尼子義久(よしひさ)は居城を明け渡して毛利軍に降伏した。
義久、倫久ら三兄弟は幽閉されることとなり、幸盛も随行を申し出たが許可されず、出雲大社で主君と別れると、以降は尼子家再興のための戦いを始めた。
2年間、幸盛の足取りは不明となり、巡礼姿で東へ向かい武田家や上杉家の軍法を、朝倉家で文化を学んだともいう。

1568年、幸盛はかつての尼子家の宿敵・山名家から援助を引き出すと、尼子家旧臣の立原久綱(たちはら・ひさつな)らとともに、京の東福寺で僧をしていた尼子勝久(かつひさ)を還俗させ、主君として担ぎ上げた。
(勝久の父・尼子誠久(さねひさ)は尼子家の重臣だったが、義久の父・尼子晴久(はるひさ)に地盤固めのため粛清された人物で、勝久は助命され僧侶となっていた)

1569年、毛利元就が北九州へ出兵した隙をつき、幸盛ら尼子軍は蜂起すると出雲へ進撃した。
丹後・但馬国から数百艘の船で上陸し、まずは近隣の砦を占拠。尼子家再興の檄を飛ばすと、旧臣が次々と呼応し3千あまりの軍勢が集まった。
尼子家の居城・月山富田城を包囲したが、石見方面の別働隊が窮地に陥ったため、幸盛は包囲を解き救援に向かい、毛利軍を蹴散らすとその勢いのまま出雲の諸城を16落とし、兵力は6千に膨れ上がった。
毛利元就は三刀屋久祐(みとや・ひさすけ)ら出雲の国人衆を戻して対処させようとしたが、幸盛は逆に彼らを降伏させ、とうとう出雲の奪還に成功。(しかし三刀屋久祐は間もなく尼子軍を離脱し以降は毛利家に従った)
さらに神西元通(じんざい・もとみち)を寝返らせ伯耆、因幡、備後、備中、美作ら毛利家の東方面全域に勢力を伸ばした。

それに加え大内輝弘(おおうち・てるひろ)がかつて毛利家に奪われた周防の奪回を目指し挙兵すると、毛利元就は反乱を捨て置けず、九州から兵を引き上げることを決断した。
反撃に乗り出した毛利軍は、挙兵から半月足らずで大内輝弘を自害に追い込むと、全軍を率いて東進。対する尼子軍はいまだ月山富田城を落とせずにいたため、布部山に陣を張り迎え撃ったものの大敗を喫した。
毛利の大軍を前に尼子軍は為す術もないまま各個撃破されていったが、1570年9月、毛利元就が重病に陥り主力が撤退すると息を吹き返した。
幸盛は長く争っていた隠岐弾正(おき・だんじょう)を味方につけ日本海側の制海権を得ると、再び出雲に侵攻。しかし病の癒えた元就は児玉就英(こだま・すけひで)に毛利水軍を率いさせ、制海権を奪い返すと、ついに反乱は鎮圧され、尼子勝久は隠岐へ逃亡。幸盛は吉川元春に捕らえられ、幽閉された。

だが幸盛は間もなく幽閉先から脱走し、毛利家に因幡を支配されつつあった山名豊国(やまな・とよくに)の協力を取り付け、1573年に再び蜂起した。
因幡武田軍5千が籠もる鳥取城を1千の兵で攻略し、10日で因幡の15の城を落とす快進撃を見せたが、肝心の山名豊国が毛利家に懐柔され、鳥取城を明け渡してしまった。
幸盛は近くは浦上家、遠くは大友家や織田家とわたりを付け戦線維持に務めたものの、但馬の山名祐豊(すけとよ)までもが宿敵の毛利家と和睦してしまい後ろ盾を失った。
それでも幸盛は5万近い毛利軍を一時は撃退して見せたが、三村家、浦上家、三浦家ら反毛利勢力が次々と敗れ、やむなく因幡から撤退した。

1576年、幸盛は織田信長に降り、織田軍の力を借りて尼子家再興を目指す。
明智光秀の丹波攻略や、反乱した松永久秀(まつなが・ひさひで)討伐戦に幸盛の名が見える。
羽柴秀吉が中国方面へ侵攻すると、尼子軍もそれに加えられた。
しかし1578年、別所長治(べっしょ・ながはる)が反乱すると、それを好機と毛利軍は反撃に出て尼子軍を包囲した。秀吉は救援に向かおうとしたが緒戦で敗北し、また信長から別所家の討伐を優先するよう命じられたため断念。
孤立した尼子軍は、勝久の切腹と引き換えに城兵を解放することを条件に毛利家へ降伏した。
その際、勝久は幸盛らに僧侶で人生を終えるはずだった自分を大将にしてくれた礼を述べたというが、これは創作と思われる。

幸盛は毛利輝元(てるもと)のもとへ送られる途中で暗殺された。
勝久と幸盛の死をもって、尼子家再興の道は閉ざされたが、尼子家残党は旧臣の亀井茲矩(かめい・これのり)にまとめられ、亀井家は1617年に石見に転封となり、幸盛の悲願は間接的に叶えられたとも言えるだろうか。
また幸盛の長男とされる山中幸元(ゆきもと)は、父の死後に帰農すると摂津の鴻池村で酒造業を始めて財をなし、豪商・鴻池財閥の始祖となったという。

尼子家再興に生涯を捧げた幸盛の忠誠心は後世の人々に称賛され、江戸時代には数々の講談を作られた。
やがて悲運の英雄・山中鹿之助は明治以降の国民教育の題材として採り上げられ、彼の名は広く人口に膾炙することとなった。

ちなみに幸盛らが御家再興に奔走する中、毛利家に幽閉されていた尼子宗家の義久ら三兄弟は何をしていたかというと、反乱には一切関知せず、やがて毛利家の客将となり全員が1600年代まで生きながらえている。
そして倫久の子が尼子家を継ぎ、別の形でも尼子家の再興はなった。彼らの生涯もまた面白いものだが、それと比べれば幸盛らの孤軍奮闘ぶりがさらに際立ち、創作での美化に一層の拍車が掛かったと言えるかもしれない。

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