三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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北条氏直(ほうじょう・うじなお)
相模の人(1562~1591)
後北条氏の第5代当主。
北条氏政(うじまさ)の次男で、兄が早逝したため後継者となった。母は武田信玄の娘。
1568年、今川家が事実上の滅亡を遂げると、当主・今川氏真(いまがわ・うじざね)の正室・早川殿の甥に当たる氏直が今川家の家督を継いだ。
1580年に父が隠居し北条家の家督も継ぎ、戦で名目上の総大将を務めることは多々あったが、実権は氏政が握っていた。
また氏直の発給した文書は264通見つかっているが、いずれも北条姓を用いておらず、その傀儡的立場と関係があるやも知れない。
1582年、織田信長が本能寺で横死すると氏直の率いる北条軍は織田領の上野を奪い、さらに信濃・甲斐に攻め込んだ。
甲斐では徳川家康と対峙し兵力では勝っていたが、真田家や木曽家の離反、徳川軍による補給線の切断により五分以上の体勢に持ち込まれると、織田家の調停を受けて和睦し、家康の娘・督姫(とく)を氏直がめとった。
信長の後釜に座った豊臣秀吉は惣無事令(戦闘禁止命令)を全国に発し、領土拡大を狙う北条家は氏政やその弟の北条氏照(うじてる)・氏邦(うじくに)ら主戦派と、さらにその弟の氏規(うじのり)・氏直ら穏健派の二派に分かれた。
氏直は軍備増強に務める一方で1588年には家康と旧知の氏規を秀吉のもとへ送り交渉に務めた。またこの頃から氏政は実務を離れ氏直に実権が渡ったと見られる。
しかし1589年、氏邦が真田家の名胡桃城を攻め落とし、北条家討伐の口実を秀吉に与えてしまう。
翌1590年、秀吉は全国に号令を掛け20万超の大軍で小田原城を囲んだ。
3ヶ月にわたる籠城の末、氏直は降伏し自身の切腹と引き換えに家臣の助命を嘆願したが、家康の娘婿ということもあり氏直は助命、主戦派の氏政・氏照らに切腹を命じられた。
氏直は氏規ら一族や重臣とともに高野山への蟄居を命じられるも、翌年には赦免され1万石を与えられ大名に復帰した。
しかしそのわずか3ヶ月後、急病により30歳で没した。
男子はなく、二人の娘も若くして没したが、北条家は氏規の子が河内狭山で1万石ながら大名に復帰し、幕末まで存続している。
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宇都宮国綱(うつのみや・くにつな)
下野の人(1568~1608)
宇都宮広綱(ひろつな)の子。
長く患っていた父が病死し9歳で家督を継いだ。
当時は居城を家臣の皆川家に奪われ、北条家の侵攻を受け宇都宮家は窮地に立たされていた。
1590年には居城は取り戻していたが周辺の城をほとんど落とされ、国綱は平地にある居城を放棄して山城の多気城に籠もり、間近に迫った豊臣秀吉の小田原征伐を待つことしかできなかった。
全国各地から20万以上の大軍を集めた秀吉が北条家を駆逐すると、国綱は下野18万石を安堵され、生涯で初めての安寧を得た。なお小田原征伐では石田三成のもとで忍城攻めに加わったという。
秀吉の信任を得て豊臣姓を賜り、家中の反乱分子も粛清するなど順風満帆に見えたが1597年、突如として改易された。
理由は諸説あるが有力視されているのは、跡継ぎのいない国綱が秀吉の重臣・浅野長政(あさの・ながまさ)の三男を養子に迎えようとしたところ、国綱の弟である芳賀高武(はが・たかたけ)が猛反発し、交渉を進めていた家臣を暗殺してしまい、これに激怒した浅野長政が秀吉に讒言した、というものである。
下野を追われた国綱は秀吉の娘婿である宇喜多秀家(うきた・ひでいえ)に預けられた。
慶長の役で活躍すれば再興させると約束され奮戦したが、そのさなかに秀吉が没したため反故となった。
その後は諸国を放浪し失意のうちに病死したと伝わる。
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宇都宮広綱(うつのみや・ひろつな)
下野の人(1545~1576)
鎌倉時代から続く名家に生まれたが、5歳の時に父が戦死し、宿老の壬生綱房(みぶ・つなふさ)に居城を奪われた。
広綱は家臣の芳賀高定(はが・たかさだ)に守られて辛くも城を脱出し、彼に養育された。
高定は謀略を駆使して反撃に乗り出し、壬生方についた家臣を次々と暗殺。広綱に味方する勢力を徐々に集めながら外交戦略で北条家の援助を取り付けると1557年、北条家の命を受けた佐竹軍5千とともについに居城を奪い返した。
高定はさらに佐竹義昭(さたけ・よしあき)の娘を広綱の妻に迎えさせ、侵攻してきた上杉謙信軍を多功長朝(たこう・ながとも)の奮戦で撃退すると、逆に上杉家と同盟し、北条家と対立した。
だが役目を終えた高定が引退し、生まれつき病弱だった広綱の容態も花押すら押せないほどまで悪化すると、1572年、重臣の皆川俊宗(みながわ・としむね)が反乱しまたも居城を乗っ取られてしまう。
1576年、失意のうちに広綱は32歳で没した。晩年は長く病床に伏しており、実際にはそれ以前に亡くなっていた可能性も高い。
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甲斐姫(かいひめ)
上野の人(1572~??)
豊臣秀吉の側室。
半ば伝説的な人物でその事績は信憑性が薄く、史料から確認が取れるのは「秀吉の側室に甲斐姫という人物がいた」という一点だけである。
武蔵国忍城の城主・成田氏長(なりた・うじなが)の娘。
祖母の妙印尼(みょういんに)は1584年、71歳の時に息子を人質に取られ城を北条軍に囲まれるも、降伏勧告も人質の安否も無視して籠城戦を続け、最後は和睦したものの譲歩を引き出し息子も取り戻したという女傑で、甲斐の母とあわせ女三代いずれも武勇に優れた。
両親の実家が関係悪化し2歳で母と別れたものの、継母となった太田資正(おおた・すけまさ)の娘に育てられた甲斐は長じると東国無双の美人と評され、知勇兼備でもあったため「男子であれば成田家を中興させ天下に名を轟かせたろう」と惜しまれた。
1590年、豊臣秀吉による小田原征伐が始まると、北条方に与していた成田家の忍城も2万3千の豊臣軍に囲まれた。
総大将に石田三成、麾下に大谷吉継、真田昌幸(まさゆき)・幸村父子、直江兼続、雑賀孫市、長束正家(なつか・まさいえ)、浅野長政(あさの・ながまさ)、佐竹義宣(さたけ・よしのぶ)とそうそうたる面子が並び、対する成田軍はわずか5百。しかも城主の成田氏長は出征中で、留守を務める城代は籠城戦のさなかに病死と、逆境に立たされていた。
三成は水攻めを仕掛け、城内は水で満たされた。さらに浅野軍が攻め寄せると、新たに大将となった城代の息子・成田長親(ながちか)は自ら迎え撃とうとしたが、甲斐はそれを押しとどめると甲冑をまとい、成田家の伝家の宝刀「浪切」を手に打って出て浅野軍を撃退した。
翌日、三成は三方からの一斉攻撃を命じたが、これも甲斐が迎撃し「我が妻にしてやろう」と挑発した敵将を射殺したという。
その翌日、北条家は秀吉に降り戦は終わった。忍城はなおも籠城を続けたが、氏長が秀吉の使者として戻り開城を指示したため、ようやく城を明け渡した。
余談ながらこの時、祖母の妙印尼は息子らが北条方についたため家名存続(成田家ではなく嫁いだ由良家)のために自ら兵を率いて前田利家の傘下に入り、秀吉から息子の助命を許されており、その際の朱印状は息子ではなく妙院尼に宛てられたという。
成田家の身柄は蒲生氏郷(がもう・うじさと)に預けられ、蒲生家が会津に転封になるとそれに従った。
葛西大崎一揆の折、氏長は出陣し甲斐らは福井城を守った。すると家臣の浜田十左衛門(はまだ・じゅうざえもん)・浜田将監(しょうげん)兄弟が謀叛を起こし、氏長の妻らを殺した。浜田勢は2百、甲斐に味方するのは十数人だったが「逆賊の非人め。忠義のためなら命を惜しまぬ関東武士の手並みを見よ」とひるまず斬り付けると浜田勢の動揺を呼び、馬で逃げる十左衛門を追撃し首を獲った。
さらに謀叛を知って引き返してきた氏長と合流すると城を包囲した。浜田将監は逃走を図ったが甲斐に見つかり、右腕を斬り落とされた上に捕らえられ、磔となった。
甲斐の武勇と美貌を伝え聞いた秀吉は側室として招いた。
その後の事績は不明だが1598年、醍醐の花見の際に甲斐が詠んだと思われる歌が残っており、同年に没した秀吉の側にいたと思われる。
一説にはその後の豊臣家を牛耳る淀殿(よど)の信頼を得て隠密を務めたとも、豊臣秀頼(ひでより)の娘・天秀尼(てんしゅうに)の養育係を務めたともされる。
特に天秀尼は1615年、大坂城の落城の際に何者かに助けられ脱出しており、没後に葬られた墓の隣には女性の従者の墓があるのだが、形状や戒名から高貴な身分の人物と思われ、その従者こそが甲斐だとも推測されている。
北条幻庵(ほうじょう・げんあん)
相模の人(1493~1589)
北条家の最長老。北条早雲の三男で本名は北条長綱(ながつな)。
幼い頃に出家し宗哲(そうてつ)と名乗り、後に箱根権現社の別当となる。箱根権現は東国の武士に崇められる軍神で、それを抑えるため早雲は息子を送り込んだと見られる。
長じると北条家の政治・外交にも関わり、家中で二位の松田憲秀(まつだ・のりひで)の倍近い最大の所領を得た。
僧侶ながら馬術・弓術にも優れ、若い頃には戦で一軍を率いることもあり、一門衆の長老格として絶大な影響力を持った。
小机城主だったが家督や城主を譲った息子や甥が次々と亡くなったため、1569年、北条氏康の七男・北条三郎(後の上杉景虎(うえすぎ・かげとら)を養子に迎えた。またこの頃に幻庵と号した。
文化的素養も高く、和歌、茶道、連歌、造園などを良くし、また手先が器用で尺八や鞍、あぶみを自ら作製した。
史料の信憑性に疑問は残るが長寿で、記録上は北条家五代に仕えた唯一の家臣で、彼の死からわずか9ヶ月後に豊臣秀吉によって北条家は滅亡した。
里見義堯(さとみ・よしたか)
安房の人(1507?~1574)
安房から房総にかけて一大勢力を築いた大名。
軍事・政治手腕に優れ、故事に明るく義堯の「堯」は古代中国の皇帝から採られたもので、嫡子の里見義弘(さとみ・よしひろ)の初名である義舜(よしたか)は堯の跡を継いだ舜にちなんでおり、故事を用いて良政を布き民にも慕われた。宿敵の北条家からも「仁者必ず勇あり」と称えられていたという。
1507年、または1512年に生まれる。
1533年、父の里見実堯(さとみ・さねたか)は本家を脅かす権力を握り、また北条家と内通していたため義堯の従兄で本家当主である里見義豊(さとみ・よしとよ)によって暗殺された。
翌年、義堯は北条家の援助を得て義豊を破り自害に追い込んだ。
長らく父の実堯は無実で、後見人をしていた義豊に裏切られたとされていたが、近年の研究では義堯の下克上を正当化するための創作だと考えられている。
義堯は北条家と正面から戦えば勝機はないと考え、下総や上総へ勢力を伸ばし里見家の最盛期を築いた。
北条氏康は武田家・今川家と三国同盟を結び、さらに上総の国人衆に調略を仕掛けたが、義堯は遠くは上杉家、近くは佐竹家・宇都宮家と結び対抗した。1556年には水軍を率いて北条水軍に大勝したが、これは暴風雨による被害が勝因だったと伝わる。
1562年、嫡子の里見義弘に家督を譲り隠居したが実権は握り続けた。
1564年、北条方の太田康資(おおた・やすすけ)の内通に応じ下総に攻め込んだ。
遠山綱景(とおやま・つなかげ)、富永直勝(とみなが・なおかつ)の重臣二名を討ち取ったが、戦勝に油断した隙をつかれ、翌朝に氏康と北条綱成(ほうじょう・つなしげ)の挟撃を受け大敗した。
重臣の正木信茂(まさき・のぶしげ)が戦死し、上総の大半を失った義堯は安房に撤退したが、1567年には北条綱成、北条氏照(ほうじょう・うじてる)らに大勝し上総の奪回に成功した。
1574年、義堯は没した。
武田信玄、上杉謙信も没し里見家への援軍も滞ると、北条家は攻勢を強め、1577年に里見家と和睦を結ぶに至った。
佐竹義宣(さたけ・よしのぶ)
常陸の人(1570~1633)
佐竹義重(よししげ)の嫡子。
20歳前後で家督を継いだが、隠居後も父は表舞台から退かず、二頭体制をとった。
この頃の佐竹家は、南の北条家とは和睦を結んでいたが、北は台頭する伊達家に南奥州の基盤を奪われており、豊臣家や上杉家と同盟しそれに対抗していた。
1589年、豊臣秀吉が小田原征伐の兵を起こし、全国の大名へ参戦を呼びかけたが、義宣はちょうど伊達政宗と対峙しておりすぐには動けなかった。
だが秀吉も京を発ったという一報を聞くと、参陣しなければ改易されると危ぶみ、義兄弟の宇都宮国綱(うつのみや・くにつな)とともに小田原へ進軍した。
豊臣軍に加わると石田三成の指揮のもと、忍城を攻めたが甲斐姫らの抵抗にあい落とすことはできなかったものの、所領安堵と伊達家と争う南奥羽の統治を認められた。
当時の佐竹家は直轄領の石高と、従属大名らの石高が拮抗しており、立場が弱かったため、義宣は豊臣家に積極的に貢献することで力を蓄えていき、やがて徳川・前田・島津・毛利・上杉ら百万石クラスの大名と並び「六大将」と呼ばれるまでになった。
秀吉の後ろ盾を得た義宣は父とともに常陸統一に乗り出し、1591年には支配権を確立した。
1592年、文禄の役では出征を命じられ名護屋まで進駐したが、先陣の佐竹義久(よしひさ)が1500人あまりを率いて渡海しただけで、義宣は前線に出なかった。
1597年、宇都宮国綱が改易されると、佐竹家も危ぶまれたが義宣と親交深い石田三成のとりなしで事なきを得た。
1599年、前田利家が没すると三成ら文治派と加藤清正、福島正則ら武断派の対立は深刻化し、ついに三成の屋敷が襲撃された。
急報を受けた義宣は三成のもとに駆けつけると、女性用の輿に乗せて三成を密かに脱出させた。
その際に「三成のいない世はつまらない」と語ったり、茶の湯の師匠である古田織部(ふるた・おりべ)に釈明するよう勧められたが「三成は命令に背いたわけでもないのに殺されかけた。私は三成に恩返しをしただけだ。釈明せよと言うならあなたがよきにはからってください」と答え、織部が弟子で襲撃グループの一員だった細川忠興(ほそかわ・ただおき)にとりなしを依頼し、忠興から伝え聞いた徳川家康も「義宣が命を賭して旧恩に報いたのは、まさに義と言うべきだ」と咎めなかったとされるが、義宣が三成を救ったという確かな史料は存在しない。
1600年、会津の上杉家が公然と家康に反旗を翻すと、会津征伐のため東国の諸大名が召集された。
義宣は他の諸大名と同様に人質を出すよう求められたが、自分は豊臣家に逆らうつもりはないと拒み、裏ではかつての同盟相手である上杉家と通じていた。
そして上杉家に呼応した石田三成が豊臣方の大名を糾合し決起すると、父の義重は徳川方優勢と読み東軍につくよう勧めたため義宣は、父・家康と三成・上杉の間で板挟みとなり、身動きがとれなくなった。
8月、義宣は兵を引き上げて居城へ帰った。
一方で家康には釈明の使者を、西軍についた真田家と戦う徳川秀忠にはわずか300の援軍を送り、関ヶ原の戦いが東軍の勝利に終わると、自ら家康のもとに出向き家名存続を懇願した。
家康は全国の大名が東西両軍に真っ二つに割れた中で、義宣だけが義を重んじ中立を保ったことを「今の世に稀な困ったほどの律義者」と評したという。
1602年、佐竹家は54万石から20万石へ減転封となった。
他の大名の処分からは大幅に遅れての決定で、佐竹義久が奔走し一時は減封無しの約束を取り付けたが、義久の急死により反故にされたとも、上杉家との密約がこの頃に発覚したとも、島津家への対処を優先したため後回しにされた、とも伝わる。
秋田に移った義宣ははじめ僻地に飛ばされ不満気だったが、未開墾で石高は低いものの広大な領地を坂の上から見るや機嫌を直したとする「御機嫌坂」という地名が今も伝わる。
また父の義重が常陸の美女を選りすぐって連れて行ったため、現在の秋田美人の礎になったとの説もある。
転封後の義宣は家柄にとらわれず能力主義で人材を登用した。浪人上がりの渋江政光(しぶえ・まさみつ)を抜擢し、それを妬んだ家臣らが暗殺未遂を起こすなどあつれきは生じたが、広大な土地を切り開いていき石高を倍増させた。
1614年、大坂冬の陣では自ら軍を率い、上杉軍とともに西軍主力の木村重成(きむら・しげなり)や後藤又兵衛(ごとう・またべえ)と激戦を繰り広げた。
この戦により渋江政光は戦死したものの佐竹軍の働きはめざましく、幕府が発した感状12通のうち5通を佐竹家の家臣が得たという。
1633年、64歳で没した。
男子が2人いたがいずれも夭折したため末弟の佐竹義直(よしなお)を嗣子にしていたが1625年、江戸城で行われた猿楽のさなかに居眠りし、義宣が伊達政宗に注意される失態を演じたため廃嫡し、代わりに甥の岩城吉隆(いわき・よしたか)を嫡子とした。
すでに亀田藩の藩主だった吉隆を継嗣にするのは異例の事態だが、義宣が将軍・徳川秀忠から全幅の信頼を得ていたため、特別に許されたという。
主導権を握った氏康は、1554年に今川・武田家と三国同盟を締結し、関東での戦いに専念することとなった。
山内上杉家の当主で関東管領の上杉憲政(うえすぎ・のりまさ)を上野(こうずけ)から追い出すと、憲政は同族の上杉謙信に援助を乞うた。
上杉軍は関東に攻め寄せ、周辺の大名もそれに呼応し10万もの大軍にふくれ上がったため、氏康は小田原城に立てこもった。さすがの大軍も戦国一の名城とうたわれた小田原城の防備を破れず、また氏康も各地の補給線を絶つ作戦をとったため、長期の遠征を嫌った佐竹義重(さたけ・よししげ)ら連合軍の大名は撤退し、さらに武田の同盟軍が上杉領に侵攻したため、包囲は長くは続かなかった。
武田と上杉はそのまま川中島の戦いになだれ込み、北条軍は隙をついて上杉軍に奪われた領土を奪還した。
その後も一進一退の攻防が続いたが、1568年、今川家の衰退を受け、武田家は三国同盟を破棄し、今川家の本拠地・駿河に侵攻した。
北条家は三河の徳川家康と同盟して対抗したが、西に武田、北に上杉、東に里見と三方を敵に囲まれた窮地に陥った。
そこで氏康は上杉家と同盟する奇策をとった。それにより上杉軍の侵攻は止まったものの、上杉方に与していた佐竹義重らがこぞって武田家に寝返ったため、窮地を脱することはできなかった。
1569年、武田軍は小田原城を包囲した。包囲は4日で解かれたものの、その後も劣勢は続き、駿河は武田家の手に落ちた。
1571年、氏康は中風と見られる病を得て没した。戦国随一と称される民政の手腕に長けた氏康の死を惜しみ、領民たちは慟哭したという。
その後、徳川・織田との戦いに焦点を絞った武田家は北条家と和睦を結び、氏康の子、北条氏政(ほうじょう・うじまさ)の代に北条家の関東支配は最広域に及んだが、豊臣秀吉による天下統一の波に抗するほどの力はなく、1590年に北条家は滅亡し、秀吉の天下統一は果たされた。
氏康が没すると、上杉家との同盟を破棄し、武田家と手を結んだ。三方ヶ原の戦いにも兵を派遣し、徳川・織田連合軍への勝利に貢献している。
1578年、上杉謙信が没すると、謙信の甥の上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)と、北条氏政の弟で、謙信の養子となっていた上杉景虎(うえすぎ・かげとら)の間で家督争いが起こった。
氏政は叔父の北条氏照(ほうじょう・うじてる)らを援護に派遣したが、武田家は領土の割譲を条件に上杉景勝に味方し、景虎は敗れて自害した。武田家の裏切りに激怒した氏政は同盟を破棄し徳川家と結び、さらに中日本の全域を支配し、武田家の攻略に乗り出していた織田信長に臣従を申し出、武田家を挟撃した。
1582年、織田軍の猛攻により武田家は滅亡し、ほどなくして信長も本能寺の変で命を落とした。
氏政はその隙を逃さず、関東の支配を任されていた織田家の滝川一益(たきがわ・かずます)を追放し、上野と南信濃の大半、甲斐の一部を徳川家との争奪戦の末に切り取り、さらに勢いをかって上総、下総、常陸にまで支配権を拡げた。その石高は250万石にも及び、後北条氏にとって最大、織田(豊臣)家に継ぐ一大勢力を築き上げた。
しかし北信濃で真田昌幸(さなだ・まさゆき 幸村の父)が反抗したのがケチの付き始め。豊臣秀吉からの再三の上洛命令を、氏政を人質にとる謀略と読んで断り続け、家臣の猪俣邦憲(いのまた・くにのり)が秀吉の命令を無視して真田方の城を占拠するに及んで、秀吉の堪忍袋の緒は切れた。
秀吉は全国の大名に号令をかけ、22万もの大軍を催して小田原城を包囲した。いかな戦国一の名城と言えども、地を埋め尽くす大軍には抗す術もなく開城した。
第五代当主となっていた氏政の子・北条氏直(ほうじょう・うじなお)だけは許されたものの、氏政や主だった家臣はのきなみ切腹を命じられた。
病弱な氏直もほどなく急死し、後北条家は滅亡した。
~暗君・氏政~
関東の支配者・後北条家を滅亡させたため氏政の評価は極端に低く、北条家の伝記でも五代の当主の中で唯一「君」を付けられず呼び捨てにされ、「父の威徳のおかげでどうにか無事だっただけの愚か者」とこき下ろされている始末である。
他にも畑に実った麦を見て「あの麦を刈ってきて昼飯にしよう」と言ったとか、ご飯に味噌汁を二度掛けし、父の氏康に「汁かけご飯の加減もわからない者に、家臣や領地の掌握ができるものか」と呆れられたとか、暗愚さを物語る逸話が後世にいくつも作られている。
しかし上杉・武田・織田・徳川と時に応じて手を結び、いち早く織田に臣従したその眼力や、信長の死に乗じて一気に勢力を拡大した手並み、氏康のあとを継ぎ過不足なく領地を治めた内政手腕と、唯一、豊臣家に対する外交戦略は失策だったものの、北条家の当主として申し分ない力量を備えていたと思われ、再評価が待たれる。