三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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里見義堯(さとみ・よしたか)
安房の人(1507?~1574)
安房から房総にかけて一大勢力を築いた大名。
軍事・政治手腕に優れ、故事に明るく義堯の「堯」は古代中国の皇帝から採られたもので、嫡子の里見義弘(さとみ・よしひろ)の初名である義舜(よしたか)は堯の跡を継いだ舜にちなんでおり、故事を用いて良政を布き民にも慕われた。宿敵の北条家からも「仁者必ず勇あり」と称えられていたという。
1507年、または1512年に生まれる。
1533年、父の里見実堯(さとみ・さねたか)は本家を脅かす権力を握り、また北条家と内通していたため義堯の従兄で本家当主である里見義豊(さとみ・よしとよ)によって暗殺された。
翌年、義堯は北条家の援助を得て義豊を破り自害に追い込んだ。
長らく父の実堯は無実で、後見人をしていた義豊に裏切られたとされていたが、近年の研究では義堯の下克上を正当化するための創作だと考えられている。
義堯は北条家と正面から戦えば勝機はないと考え、下総や上総へ勢力を伸ばし里見家の最盛期を築いた。
北条氏康は武田家・今川家と三国同盟を結び、さらに上総の国人衆に調略を仕掛けたが、義堯は遠くは上杉家、近くは佐竹家・宇都宮家と結び対抗した。1556年には水軍を率いて北条水軍に大勝したが、これは暴風雨による被害が勝因だったと伝わる。
1562年、嫡子の里見義弘に家督を譲り隠居したが実権は握り続けた。
1564年、北条方の太田康資(おおた・やすすけ)の内通に応じ下総に攻め込んだ。
遠山綱景(とおやま・つなかげ)、富永直勝(とみなが・なおかつ)の重臣二名を討ち取ったが、戦勝に油断した隙をつかれ、翌朝に氏康と北条綱成(ほうじょう・つなしげ)の挟撃を受け大敗した。
重臣の正木信茂(まさき・のぶしげ)が戦死し、上総の大半を失った義堯は安房に撤退したが、1567年には北条綱成、北条氏照(ほうじょう・うじてる)らに大勝し上総の奪回に成功した。
1574年、義堯は没した。
武田信玄、上杉謙信も没し里見家への援軍も滞ると、北条家は攻勢を強め、1577年に里見家と和睦を結ぶに至った。