三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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佐竹義宣(さたけ・よしのぶ)
常陸の人(1570~1633)
佐竹義重(よししげ)の嫡子。
20歳前後で家督を継いだが、隠居後も父は表舞台から退かず、二頭体制をとった。
この頃の佐竹家は、南の北条家とは和睦を結んでいたが、北は台頭する伊達家に南奥州の基盤を奪われており、豊臣家や上杉家と同盟しそれに対抗していた。
1589年、豊臣秀吉が小田原征伐の兵を起こし、全国の大名へ参戦を呼びかけたが、義宣はちょうど伊達政宗と対峙しておりすぐには動けなかった。
だが秀吉も京を発ったという一報を聞くと、参陣しなければ改易されると危ぶみ、義兄弟の宇都宮国綱(うつのみや・くにつな)とともに小田原へ進軍した。
豊臣軍に加わると石田三成の指揮のもと、忍城を攻めたが甲斐姫らの抵抗にあい落とすことはできなかったものの、所領安堵と伊達家と争う南奥羽の統治を認められた。
当時の佐竹家は直轄領の石高と、従属大名らの石高が拮抗しており、立場が弱かったため、義宣は豊臣家に積極的に貢献することで力を蓄えていき、やがて徳川・前田・島津・毛利・上杉ら百万石クラスの大名と並び「六大将」と呼ばれるまでになった。
秀吉の後ろ盾を得た義宣は父とともに常陸統一に乗り出し、1591年には支配権を確立した。
1592年、文禄の役では出征を命じられ名護屋まで進駐したが、先陣の佐竹義久(よしひさ)が1500人あまりを率いて渡海しただけで、義宣は前線に出なかった。
1597年、宇都宮国綱が改易されると、佐竹家も危ぶまれたが義宣と親交深い石田三成のとりなしで事なきを得た。
1599年、前田利家が没すると三成ら文治派と加藤清正、福島正則ら武断派の対立は深刻化し、ついに三成の屋敷が襲撃された。
急報を受けた義宣は三成のもとに駆けつけると、女性用の輿に乗せて三成を密かに脱出させた。
その際に「三成のいない世はつまらない」と語ったり、茶の湯の師匠である古田織部(ふるた・おりべ)に釈明するよう勧められたが「三成は命令に背いたわけでもないのに殺されかけた。私は三成に恩返しをしただけだ。釈明せよと言うならあなたがよきにはからってください」と答え、織部が弟子で襲撃グループの一員だった細川忠興(ほそかわ・ただおき)にとりなしを依頼し、忠興から伝え聞いた徳川家康も「義宣が命を賭して旧恩に報いたのは、まさに義と言うべきだ」と咎めなかったとされるが、義宣が三成を救ったという確かな史料は存在しない。
1600年、会津の上杉家が公然と家康に反旗を翻すと、会津征伐のため東国の諸大名が召集された。
義宣は他の諸大名と同様に人質を出すよう求められたが、自分は豊臣家に逆らうつもりはないと拒み、裏ではかつての同盟相手である上杉家と通じていた。
そして上杉家に呼応した石田三成が豊臣方の大名を糾合し決起すると、父の義重は徳川方優勢と読み東軍につくよう勧めたため義宣は、父・家康と三成・上杉の間で板挟みとなり、身動きがとれなくなった。
8月、義宣は兵を引き上げて居城へ帰った。
一方で家康には釈明の使者を、西軍についた真田家と戦う徳川秀忠にはわずか300の援軍を送り、関ヶ原の戦いが東軍の勝利に終わると、自ら家康のもとに出向き家名存続を懇願した。
家康は全国の大名が東西両軍に真っ二つに割れた中で、義宣だけが義を重んじ中立を保ったことを「今の世に稀な困ったほどの律義者」と評したという。
1602年、佐竹家は54万石から20万石へ減転封となった。
他の大名の処分からは大幅に遅れての決定で、佐竹義久が奔走し一時は減封無しの約束を取り付けたが、義久の急死により反故にされたとも、上杉家との密約がこの頃に発覚したとも、島津家への対処を優先したため後回しにされた、とも伝わる。
秋田に移った義宣ははじめ僻地に飛ばされ不満気だったが、未開墾で石高は低いものの広大な領地を坂の上から見るや機嫌を直したとする「御機嫌坂」という地名が今も伝わる。
また父の義重が常陸の美女を選りすぐって連れて行ったため、現在の秋田美人の礎になったとの説もある。
転封後の義宣は家柄にとらわれず能力主義で人材を登用した。浪人上がりの渋江政光(しぶえ・まさみつ)を抜擢し、それを妬んだ家臣らが暗殺未遂を起こすなどあつれきは生じたが、広大な土地を切り開いていき石高を倍増させた。
1614年、大坂冬の陣では自ら軍を率い、上杉軍とともに西軍主力の木村重成(きむら・しげなり)や後藤又兵衛(ごとう・またべえ)と激戦を繰り広げた。
この戦により渋江政光は戦死したものの佐竹軍の働きはめざましく、幕府が発した感状12通のうち5通を佐竹家の家臣が得たという。
1633年、64歳で没した。
男子が2人いたがいずれも夭折したため末弟の佐竹義直(よしなお)を嗣子にしていたが1625年、江戸城で行われた猿楽のさなかに居眠りし、義宣が伊達政宗に注意される失態を演じたため廃嫡し、代わりに甥の岩城吉隆(いわき・よしたか)を嫡子とした。
すでに亀田藩の藩主だった吉隆を継嗣にするのは異例の事態だが、義宣が将軍・徳川秀忠から全幅の信頼を得ていたため、特別に許されたという。