三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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宇都宮国綱(うつのみや・くにつな)
下野の人(1568~1608)
宇都宮広綱(ひろつな)の子。
長く患っていた父が病死し9歳で家督を継いだ。
当時は居城を家臣の皆川家に奪われ、北条家の侵攻を受け宇都宮家は窮地に立たされていた。
1590年には居城は取り戻していたが周辺の城をほとんど落とされ、国綱は平地にある居城を放棄して山城の多気城に籠もり、間近に迫った豊臣秀吉の小田原征伐を待つことしかできなかった。
全国各地から20万以上の大軍を集めた秀吉が北条家を駆逐すると、国綱は下野18万石を安堵され、生涯で初めての安寧を得た。なお小田原征伐では石田三成のもとで忍城攻めに加わったという。
秀吉の信任を得て豊臣姓を賜り、家中の反乱分子も粛清するなど順風満帆に見えたが1597年、突如として改易された。
理由は諸説あるが有力視されているのは、跡継ぎのいない国綱が秀吉の重臣・浅野長政(あさの・ながまさ)の三男を養子に迎えようとしたところ、国綱の弟である芳賀高武(はが・たかたけ)が猛反発し、交渉を進めていた家臣を暗殺してしまい、これに激怒した浅野長政が秀吉に讒言した、というものである。
下野を追われた国綱は秀吉の娘婿である宇喜多秀家(うきた・ひでいえ)に預けられた。
慶長の役で活躍すれば再興させると約束され奮戦したが、そのさなかに秀吉が没したため反故となった。
その後は諸国を放浪し失意のうちに病死したと伝わる。