三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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稲姫(いな)
三河の人(1573~1620)
本多忠勝の長女(第一子)で、真田信之の正室。
稲姫は幼名で、夫の領地から小松殿(こまつ)の名でも知られる。
1586~1590年頃に信之に嫁いだと思われる。
父の忠勝が信之ら諸将の挨拶を受けた折、稲が平伏する彼らの髪をつかんで無理やり顔を上げさせたところ、信之が手を叩き無礼だと叱責した、という逸話が有名だがこれは創作である。
史実では織田信長亡き後の信濃の領土争いで、真田家と信之が目覚ましい活躍を見せたのに忠勝が惚れ込み、娘を嫁がせ味方陣営に取り込むことを徳川家康に提案した、という経緯だとされる。
1600年、関ヶ原の戦いに際し、真田家は信之が東軍に、信之の父の真田昌幸(さなだ・まさゆき)と弟の真田幸村が西軍につくこととなった。
昌幸は居城に帰る道すがら、稲が留守を預かる沼田城に立ち寄り「孫の顔が見たい」と申し入れた。
あわよくば城を占拠する目論見があったが、稲はそれを見抜くと昌幸の家臣の家族らを歓待と称して城に招き入れ人質にとった。
昌幸は「さすが本多忠勝の娘だ」と感嘆したという。
また昌幸が引き上げると、稲は護衛とともに後を追い、孫の顔だけは見せてやったとも伝わる。
1615年、大坂夏の陣に二人の息子が参戦し無事に帰った。
すると稲は(信之が言ったとする説もある)「実家の本多家では私の弟が戦死した。あなた達のうちどちらかが戦死すれば釣り合いが取れ、面目も保てたのに」と言い放ったという。
しかし一方で息子らを送り出す時には、随行する家臣団に金を渡しくれぐれも息子を頼むと言ったとも伝わる。
二人の男子をはじめ多くの子を産んだが、当初はなかなか子宝に恵まれず、信之に新たに側室を取るよう勧めたとされる。
また書家としても著名な小野お通(おの・おつう)と信之が密通していることも承知していたらしく、没する直前に「そろそろ京の人(お通)を迎えたらどうですか」と言うなど、夫婦仲は生涯にわたり良好だった。
稲の没後、信之は「我が家から光が消えた」と大いに落胆し、新たに正室を立てることはなかったという。
※アイコンは夏侯淵
武田信繁(たけだ・のぶしげ)
甲斐の人(1525~1561)
武田信虎(のぶとら)の子。武田信玄の弟。
1541年、信玄は父の信虎を追放し家督を継いだが、信憑性の薄い「甲陽軍鑑」によると信虎は信玄を差し置いて信繁への相続を考えていたという。
信繁は「武田二十四将」の副大将に挙げられる知勇兼備の名将で、早くから信玄の副将格として軍事・政治・外交に中心的な役割をこなした。
信玄の名代として合戦の指揮を取り、戦後の論功行賞を担当することもたびたびあったという。
しかし1561年、第4次川中島の戦いで武田軍は上杉謙信に敗れ、信繁は討ち死にを遂げた。
信玄は遺体にすがりつき号泣したといい、謙信すらその死を惜しんだと伝わる。
「信玄の懐刀」と呼ばれた重臣・山県昌景(やまがた・まさかげ)は「信繁、内藤昌豊(ないとう・まさとよ)こそは、毎事相整う真の副将なり」と評した。
また真田昌幸(さなだ・まさゆき)は自身の子を信繁と名付けたが、彼こそはかの真田幸村である。
豊臣秀吉は弟でやはり副将格の豊臣秀長(ひでなが)を失った後、随所に判断の衰えを見せたが、信玄は信繁亡き後もさほどの衰退は見せなかった。
しかし1565年、信玄の長男・武田義信(よしのぶ)が父の謀叛を企んだかどで幽閉され、命を落としているが、信繁さえ健在なら、そのような家中の内紛は起きなかっただろうと言われたという。
江戸時代、信繁が息子に遺した99ヶ条にわたる「武田信繁家訓」は武士の心得として読み継がれた。
その内容も「論語」など海外の文献から多数の引用がされており、信繁の教養の高さがしのばれる。
※アイコンは武田信玄
武田信廉(たけだ・のぶかど)
甲斐の人(1532~1582)
武田信虎(のぶとら)の子。武田信玄の弟。
出家後の逍遙軒(しょうようけん)の名でも著名。
1541年、信玄は父の信虎を追放し家督を継ぐと、信濃への侵攻を本格化した。
信廉の名は1548年頃から現れ、1561年に次兄の武田信繁(のぶしげ)が川中島の戦いで討ち死にすると、一門衆の筆頭となった。
1573年、信玄が急死すると、その死を伏せるため生前から影武者を務めていた信廉が代役となった。
信廉の容貌は側近にすら見分けがつかないほど信玄に生き写しと言われ、北条氏政(ほうじょう・うじまさ)は信玄死すの噂を聞き、真相を探ろうと板部岡江雪斎(いたべおか・こうせっさい)を送り込んだが、信廉だと見抜けなかったという。
また当時の武士には珍しく画家としての側面を持ち、多くの作品が現存している。
信玄の死後に父の信虎が帰国を望むと、信廉が引き取って居城に住まわせ、その際に描いた父の肖像画もある。
1575年、長篠の戦いに出陣し「信長公記」によると山県昌景(やまがた・まさかげ)に続く二番手で攻撃を仕掛けたが大敗を喫した。
多くの将がこの戦いで討ち死にを遂げたが信廉は生還した。
1582年、織田信長による甲州征伐が始まると、大した抵抗もせずに居城を捨て撤退した。
武田家の滅亡後、残党狩りによって殺害された。享年51。
※アイコンは文醜
本庄繁長(ほんじょう・しげなが)
越後の人(1540~1614)
上杉謙信、景勝に仕え「上杉家に鬼神あり」とうたわれた猛将。
繁長が生まれる直前、本庄家は叔父にあたる小川長資(おがわ・ながすけ)の謀略によって城を奪われ、父は繁長の生まれる5日前に失意のうちに病死した。
当主に立てられた繁長は1551年、父の13回忌に出席した長資を捕縛し自害へ追い込み、実権を奪い返した。
当初は長資を支援していた上杉謙信と対立したものの、1558年に降伏すると、川中島の戦いや関東侵攻で武功を立てた。
だが1568年、謙信の命で長尾藤景(ながお・ふじかげ)を酒宴と偽りおびき寄せ暗殺したものの、繁長は手傷を負い、恩賞も無かったことに不満を抱き、大宝寺義増(だいほうじ・よします)とともに謀叛を起こした。
勇猛な繁長に手を焼いた謙信は、まず義増を攻めて降伏させ、孤立した繁長を攻撃した。さしもの繁長もたまらず翌年に蘆名家の仲介を受け、嫡子の本庄顕長(あきなが)を人質に出して上杉家に帰参した。
1578年、謙信が没し上杉景勝と上杉景虎(かげとら)の間で後継者争い(御館の乱)が持ち上がると、繁長は景勝方につく一方で、顕長を景虎方に送り込み、景勝の勝利に終わると顕長を廃嫡した。
これは顕長を助命するための方策でもあり、戦後も顕長は上杉家に変わらず仕えている。
1583年、最上義光(もがみ・よしあき)が庄内に侵攻すると、繁長は大宝寺義増の子・大宝寺義興(よしおき)とともにそれを迎え撃った。
義興は本庄家との関係を密にするため繁長の次男、後の大宝寺義勝(よしかつ)を養子として迎え入れた。
しかしこれが庄内の他の国人衆の反発を招き、1587年に義興は城を落とされ自害した。
翌1588年、最上軍が伊達政宗と対峙し動けない隙をつき、繁長・義勝は一気に大宝寺家の旧領を奪い返し、1589年には豊臣秀吉に拝謁し大宝寺家を上杉家の与力大名として認めさせた。
1590年、伊達政宗が扇動したと思われる大規模な一揆が奥州で巻き起こった。
繁長・義勝父子も扇動の嫌疑を掛けられ改易され、大和に配流された。
その後、文禄の役に参戦して武功を立てたため帰参を許された。
1600年、関ヶ原の戦いが東軍の勝利に終わると、西軍についた上杉家は伊達政宗の猛攻にさらされた。
繁長・義勝は福島城を守り、大軍に包囲されたものの防衛に成功した。この戦いは後世で軍記物に描かれ、上杉家はそれを通説として広く喧伝したため、繁長の名は庶民の間にも広まっていったという。
家中では徳川家康に降伏すべきか否か激論が交わされ、直江兼続は抗戦を、繁長は降伏を主張した。
上杉景勝は降伏を容れ、繁長を使者として上洛させた。上杉家は改易こそ免れたが会津120万石から米沢30万石への大減封を命じられた。
繁長は引き続き福島城代として上杉家に貢献し1614年、74歳で没した。
景勝は繁長の武勇を讃え「武人八幡」の称号を与え、大宝寺義勝を本庄家に戻し本庄充長(みつなが)と改名させ家督を継がせた。
その後も本庄家はさらなる減封で福島を失った後も上杉家に仕え続けた。
※アイコンは雍闓
新発田重家(しばた・しげいえ)
越後の人(1547~1587)
新発田家の次男に生まれたが、五十公野家を継ぎ五十公野治長(いじみの・はるなが)を名乗った。
上杉謙信に仕え川中島の戦いや関東出兵で活躍し、謙信死後の御館の乱では上杉景勝を支持し、家督相続に大いに貢献した。
1580年、兄の死により新発田家に戻り新発田重家に改名し家督を継いだ。
だが新発田家の相続を認めた他に景勝からの恩賞は無く、重家を景勝陣営に引き込んだ安田顕元(やすだ・あきもと)は景勝と重家の間で板挟みになった末、責任を取って自害した。
重家は大いに不満を募らせ、それにつけ込んだ伊達輝宗(だて・てるむね)の支援を受けて反乱を起こした。
反乱には新発田家はもちろんのこと同族の加地家、景勝と家督を争った上杉景虎(かげとら)の旧臣や支持勢力も加わり大規模な物となった。
さらに伊達家と同盟を結ぶ織田家からは柴田勝家、森長可(もり・ながよし)がこの機に乗じて西・南の二方面から侵攻を再開し、上杉家は窮地に陥った。
1582年、討伐軍も撃退されると景勝は蘆名盛隆(あしな・もりたか)に援軍を要請したが、盛隆は裏で伊達輝宗と通じており、要請に応じると見せかけ上杉領に攻め入った。
景勝は本庄繁長(ほんじょう・しげなが)に重家の相手を任せ、織田軍との戦いに専念したが6月に本能寺の変で織田信長が討たれると、織田軍は全軍撤退した。
景勝は織田軍が去り空白地となった信濃に攻め込み徳川家・北条家と対峙したため、重家との間に戦端は開かれなかった。
翌1583年、信濃を徳川家康が抑えると、景勝は重家への攻勢を強めたが、自ら出陣した放生橋の戦いで惨敗を喫し、危うく自身も討ち取られそうになった。
1584年、重家は景勝に誘い出され、その隙に水原城を落とされたが、重家はすぐさま転進し直江兼続の率いる別働隊を撃破し、城を奪回した。
新発田軍の士気は上がり、越中を治める佐々成政(さっさ・なりまさ)と連携し上杉軍の挟撃を目論んだが、同年に蘆名盛隆が痴話喧嘩から家臣に殺害されると、戦況は暗転した。
1585年、輝宗から家督を継いだ伊達政宗は同盟を破棄し蘆名領に攻め込み、対上杉を担当していた輝宗も亡くなると、重家の後ろ盾は無くなった。
さらに藤田信吉(ふじた・のぶよし)の調略によって新潟港が上杉家の手に落ちてしまい、新発田家は交易と兵糧輸送の道を断たれた。
1586年、景勝は自ら上洛し豊臣秀吉に臣従し、翌1587年に豊臣軍の援兵を受けて新発田城を大軍で囲んだ。
景勝・秀吉は再三にわたり降伏勧告を出したが、重家は頑としてこれを撥ねつけた。
補給線を断たれ兵糧もなく、支城も失った重家は城内で酒宴を催すと、それが終わるやいなや門を開き打って出た。
重家は一族でもある色部長真(いろべ・ながざね)の陣に斬り込み「親戚のよしみだ。我が首を与えよう」と言うと甲冑を脱ぎ捨て切腹して果てた。享年41。
新発田家の反乱は戦国時代でも稀な7年もの長きに及んだ。
景勝の家督相続から間もなくに起こり家中の混乱に乗じたこと、伊達・蘆名両家の支援を受けたこと、織田・最上ら周囲の勢力が上杉領に攻め込み対新発田に専念できなかったことなど理由は多々あるが、重家の武勇や地の利を活かした巧みな指揮もまた長期化に拍車を掛け、同時に上杉家衰退の引き金となったことは間違いないだろう。
※アイコンは趙昂
長連龍(ちょう・つらたつ)
能登の人(1546~1619)
能登畠山家に仕えた長続連(つぐつら)の三男。
若くして出家し孝恩寺の住職となったため、通称も孝恩寺(こうおんじ)を用いた。
畠山家は続連ら「畠山七人衆」と呼ばれる重臣によって長らく傀儡政権を布かれ、当主の追放や暗殺が相次いでいた。
しかし次第に結束は衰え、七人衆の間で争いが起こると、1577年に上杉謙信の侵攻を招き七尾城を包囲された。
続連は連龍に命じて織田信長に援軍を求めさせたが、七人衆の温井景隆(ぬくい・かげたか)・三宅長盛(みやけ・ながもり)兄弟と遊佐続光(ゆさ・つぐみつ)の裏切りによって援軍の到着を前に城は陥落し、長一族は連龍を残し死に絶えてしまった。
連龍は織田家に仕え復讐を志し、北陸方面軍を率いる柴田勝家、前田利家のもとで戦った。
上杉謙信が没すると形勢は織田方に傾き、織田軍は能登を攻略し、降伏した遊佐続光は処刑された。なお長家の家譜では続光は逃亡したものの連龍が追撃し首を取ったとされる。
能登は前田利家に与えられ、連龍は以降、前田家に仕えた。
1582年、信長が本能寺の変で討たれると、温井景隆・三宅長盛が上杉景勝の支援を受けて攻め寄せたが、前田軍はこれを撃退し二人の首を挙げ、連龍は一族の仇を全員討ち果たした。
1583年、賤ヶ岳の戦いでは戦線離脱する前田軍の殿軍を務め、連龍の家臣30数名が戦死した。
1584年、越中の佐々成政(さっさ・なりまさ)が能登の末森城を囲んだ。倹約に努めていた前田家の兵は少なく、利家の妻・まつが「銭に槍を持たせればいいでしょう」と皮肉を浴びせたほどだったが、連龍の家臣が救援に駆けつけ、無事に守り切った。
戦後、単身で危険を顧みずやってきた連龍を利家は「抜群の活躍比類なし、真実頼もしく候」と激賞したという。
小田原征伐、文禄・慶長の役でも活躍し、1599年に利家が没して後はますます重きを置かれた。
利家は遺言で頼るべき人材として連龍と高山右近(たかやま・うこん)の名を挙げており、また連龍はもともと織田信長から所領安堵を受けていたため、前田家に仕えながらも与力大名にも等しい身分と見なされた。
1606年、家督を長男に譲ったが早逝してしまったため1611年に当主の座に復帰し、70歳にして大坂の陣にも出陣した。
最終的に一家臣としては破格の3万3千石もの大身に上り、1619年に連龍は74歳で没した。生涯で41度の戦に参加したと伝わる。
長家は以後も代々、前田家の家老として仕えた。
※アイコンは凌統
猿飛佐助(さるとび・さすけ)
信濃の人(??~??)
真田十勇士の筆頭に挙げられる忍者。本名は井辺武助(いべ・ぶすけ)。
架空の人物だがモデルになった人物は実在するという説もある。
父の鷲尾佐太夫(わしお・さだゆう)は森長可(もり・ながよし)に仕えたが、小牧・長久手の戦いで討ち死にしてしまい、佐太夫は信濃に隠棲し、小夜(さよ)と武助の姉弟をもうけた。
武助は山中で猿と遊んでいたところ、甲賀忍者の戸沢白雲斎(とざわ・はくうんさい)に素質を見込まれ、3年の修行で甲賀忍術を会得した。
武助は後に真田幸村に仕え、猿飛佐助幸吉(ゆきよし)と名付けられ真田十勇士の筆頭格として活躍。
1615年、大坂夏の陣では徳川家康を苦しめるも衆寡敵せず敗北し、幸村とともに薩摩へ逃れた。
江戸時代には早くも伝記を描かれ庶民の間で愛され、現在もなお数々の創作に登場し人気を博している。
~~二人の佐助~~
モデルとされる人物が二人いる。
一人は1570年、金ヶ崎の戦いで木下藤吉郎が殿軍を務めたおり、3千の配下を率いて襲撃した盗賊の猿飛仁助(さるとび・にすけ)である。
再三にわたり浅井・朝倉軍の追撃を受け疲労困憊だった木下軍に抵抗する気力はなかったが、藤吉郎の腹心・蜂須賀小六(はちすか・ころく)の家臣に仁助と旧知の者がおり、彼の説得によって仁助は逆に藤吉郎に降り、天下取りに裏で協力したという。
ただし見ればわかる通り仁助の存在自体が甚だ怪しい。
もう一人が伊賀忍者の下柘植木猿(しもつげ・きざる)で彼の本名が上月佐助(こうづき・さすけ)であり、あわせて猿飛佐助と3文字かぶっている。
また大坂夏の陣の後、服部半蔵(時期から見て5代目の服部正吉(はっとり・まさよし)か)が伊賀の柘植野に侵攻し残党狩りを行っており、下柘植木猿が猿飛佐助である傍証ともされる。
※アイコンは呂範
真田幸隆(さなだ ゆきたか)
信濃の人(1513~1574)
武田二十四将に数えられ、武田信玄の参謀を務めた。真田幸村の祖父。
幸隆は晩年の名乗りで、真田幸綱(ゆきつな)の名を長年にわたり用いたとの説もある。
北信濃の国人衆・海野家か、その娘婿の真田家の生まれとされる。
関東管領・上杉憲政(うえすぎ・のりまさ)に従属していたが1541年、武田信虎(たけだ・のぶとら)に敗れて国を追われ、上野の長野業正(ながの・なりまさ)を頼った。
同年に信虎は嫡子の武田信玄らによって追放され、1545年前後に幸隆は武田家に従ったと見られる。
またその際に身命を賭して戦う覚悟で、三途の川の渡し賃である「六文銭」を旗印に用いだしたという。
信濃の国人衆を調略し、1553年に村上義清(むらかみ・よしきよ)を破り旧領に復すと、以後は関東の調略に回る他、上杉謙信との戦いの最前線にさらされた。
武田家には遅く加わった外様ながら信玄には信頼され、譜代の家臣と同様の扱いを受け、官位から「戦国三弾正」の一人として「攻め弾正」の異名で呼ばれたというが、19世紀に編まれた真田家の記録に依るところが大きく、真偽の程はいささか怪しまれる。
1567年、嫡子の真田信綱(のぶつな)に家督を譲るが、隠居後も防衛戦や策謀には加わったとされる。
1574年、62歳で没した。
翌年、長篠の戦いで信綱と次男の真田昌輝(まさてる)が戦死し、三男の真田昌幸(まさゆき)が跡を継いだ。
孫の真田幸村を含め父子三代にわたるいずれもが名将として知られている。
※アイコンは関羽
斎藤朝信(さいとう・とものぶ)
越後の人(1527?~1592?)
上杉謙信に仕え武神になぞらえ「越後の鍾馗」とうたわれた名将。
上杉家屈指の名将として謙信からの信頼も厚く、謙信の関東管領への就任式では柿崎景家(かきざき・かげいえ)とともに太刀持ちを務めたとされる。
武勇に優れたのはもちろん奉行職も務めるなど内政手腕に長け、卓越した戦術眼も持っていたため、謙信は最も困難と思われる戦場には必ず朝信を差し向けたという。
1578年、謙信の没後に家督争いが起こると、上杉景勝を支持した。
対抗馬の上杉景虎(かげとら)を支持する武田家と交渉し、領土の割譲と引き換えに兵を撤退させたのも朝信である。
家督争いを制した景勝は深く感謝し、景虎の旧領を恩賞として朝信に与えたという。
1582年、本能寺の変後に隠居した。
子の斎藤景信(かげのぶ)は病を得て隠棲した(直江兼続の逆鱗に触れ追放されたとする説もある)が、後にその子は会津米沢に移封となった上杉家から招聘され、子孫は藩士として幕末まで続いた。
~武田信玄との逸話~
明らかに創作だが朝信と信玄との逸話が面白いので紹介する。
朝信は釈迦の十大弟子で才知に長けた富樓那(ふるな)になぞらえ「富樓那の斎藤」と呼ばれていた。
武田家に使いした時、引見した信玄は知行を尋ねると意地悪く「その方は小兵で隻眼なのに600貫ももらっているのか」とからかった。
朝信は「武田家はともかく当家では隻眼になっても禄を減らされません。それどころかやはり隻眼だった先祖になぞらえ武功の印と主は喜んでいます。聞けば御家にも山本勘助(やまもと・かんすけ)殿なる隻眼で片足まで不自由な小兵がいるそうではないですか。それゆえ恥じることなどありません」と堂々と受け答えた。
信玄は「富樓那と聞いていたが晏子(あんし 中国春秋時代の名宰相)のようだ」と感心し褒美を与えたという。
※アイコンは呂布
北条高広(きたじょう・たかひろ)
越後の人(??~??)
長尾家に仕え長尾景虎(後の上杉謙信)の代になった1554年、武田信玄と内通し反乱した。
しかし翌年に鎮圧されると以降は奉行として活躍する。
1563年、上野厩橋城を任され関東方面を統治した。
だが1567年、今度は北条氏康と内通し離反。氏康は字こそ同じだが読みの違う高広がまぎらわしいため「喜多条」と書いて区別し、高広も毛利姓を名乗った。
しかし翌年、上杉家と後北条家が和睦を結ぶと後北条家の仲介により上杉家に出戻った。
1574年に隠居し、嫡子の北条景広(かげひろ)に家督を譲った。
謙信が没すると出家して弔い、上杉家の後継者争い(御館の乱)では上杉景虎(うえすぎ・かげとら)に肩入れしたものの、父と景広を殺され武田家へ亡命した。
1582年、武田家が滅亡するとそのまま織田家に仕えるが、本能寺の変で織田軍が撤退すると後北条家に従う。
同年のうちに上杉家に三度出戻ったものの、後北条軍に囲まれて降伏。
その後は歴史から姿を消し、跡を継いだ一族の「北条高広」なる同姓同名の別人は上杉家に仕えたものの、家名を復興させることはできず没落したという。
非常に勇猛で「器量・骨幹、人に倍して無双の勇士」とうたわれたが一方で「上杉家一の粗忽者」とも呼ばれていた。
ついうっかり離反を繰り返したものの、あっさり出戻りを何度も許されているあたりにその粗忽さが垣間見える。