三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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吉岡長増(よしおか・ながます)
豊後の人(??~1573?)
大友家三代に仕えた重臣。
吉岡家は豊後の大名・大友家の一族で、長増は前半生や生没年が不詳だが大友宗麟(おおとも・そうりん)の祖父から偏諱(長の字)を受けていることから、少なくとも祖父の存命中(1478~1518)に元服は済ませているものと考えられる。
史料に現れるのは1532年の大内家との戦いの頃からで、長増は加判衆(大友家の重臣団)に名を連ね、後陣の大将を務めるなどすでに重臣の地位にあった。
しかし1534年、宗麟の父である大友義鑑(よしあき)と反目したのか加判衆を解任され、その後は宗麟が家督を継ぐまで事績は途絶えてしまう。
1550年、宗麟の代になると義鑑の遺言により家老に復帰し臼杵鑑速(うすき・あきはや)、吉弘鑑理(よしひろ・あきまさ)とともに「大友家三老」と呼ばれた。
長増は大友家の主要な戦のほとんどに参戦する他、豊前・筑前・肥前3ヶ国の政務を取り仕切り、日向の国人衆の調略も担当する八面六臂の活躍を見せた。
1566年のものと思われる書状では戸次鑑連(べっき・あきつら 後の立花道雪)、臼杵鑑速、吉弘鑑理ら名だたる重臣が連名で長増の意見を求めており、信頼の厚さがうかがえる。
1557年、毛利元就が北九州に侵攻すると、長増は対毛利の総司令官となった。
大内家を滅ぼし勢いに乗る毛利軍に当初から苦しめられ、1569年には筑前の大半を奪われた。
しかし長増は、まず謀叛を疑われ伊予に亡命していた佐伯惟教(さえき・これのり)を帰参させ水軍を立て直し、毛利軍の主力が筑前に集結しているのを見て取ると、かつて毛利家に滅ぼされた尼子家の旧臣・山中鹿之助(やまなか・しかのすけ)を支援し後方で蜂起させた。
さらに毛利家に協力し海上を封鎖する能島村上家に、筑前方面の通行税を取る許可を与え、水軍の通過を黙認させると、大内家の生き残りである大内輝弘(おおうち・てるひろ)を旧領の周防に送り込んだ。
長増は豊前小倉城を攻める情報を毛利軍にわざとつかませ、吉川元春(きっかわ・もとはる)、小早川隆景ら主力を引き付けると、大内軍を周防で蜂起させた。
村上水軍の海上封鎖もあり、襲われるはずもなく手薄になっていた周防の諸城は次々と大内軍に落とされ、泡を食った毛利元就は北九州からの撤退を命じ、大友家は窮地を脱した。
1573年頃、70代なかばから80代前半で没したと推測される。
1578年、耳川の戦いで大友家が島津家に大敗すると、家老の吉弘鎮信(よしひろ・しげのぶ)は「吉岡長増、臼杵鑑速がいた頃は信賞必罰が行われ人の恨みはなかった。今は田原親賢(たわら・ちかかた)のような佞臣がはびこり代々の家臣が遠ざけられている。せめて立花道雪(たちばな・どうせつ)がいれば(道雪は中央を離れ筑前方面の司令官を任されていた)大友家はここまで悪くならなかっただろう」と嘆いた。
またその道雪も「吉岡長増、臼杵鑑速の死後、大友の政治は無道でしかない」と記している。
耳川の戦いで長増の息子も戦死し、吉岡家は大友家の滅亡と運命をともにしたが、子孫は肥後藩主となった細川家に仕え幕末まで存続している。
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新納忠元(にいろ・ただもと)
薩摩の人(1526~1611)
薩摩の大名・島津家の重臣。新納家は島津一族に連なり、忠元の家はその庶流にあたる。
小柄ながら武勇に優れ、家中で武功の多い者を指折り数える時、真っ先に数えられることから「親指武蔵」「鬼武蔵」と呼ばれた。
一騎打ちで兜首を挙げ、負傷しながらも戦場を駆け「武勇は鬼神の如し」と恐れられたが、一方で教養高く和歌や連歌をたしなみ、漢詩や茶の湯の造詣も深かった。
1574年、牛根城の戦いでは敵将を降伏させるため自らを人質として差し出すなど、人情の機微にも通じた。
1581年の水俣城の戦いでは対する犬童頼安(いんどう・よりやす)が連歌を得意とすると聞くと、上の句だけを書いた紙を矢に巻き付けて城中に射かけた。頼安は下の句をくくりつけた矢を射返し、戦いながら何度となく矢文で連歌をやりとりした。
やがて頼安が開城降伏すると、感銘を受けた忠元の家臣が数人、頼安に仕えてしまった。忠元は家臣を返すよう抗議したが頼安は「家臣になったからには返すわけにはいかない。どうしてもというなら一戦つかまつろう」と言ったためやむなく諦めた。
その後、頼安が没すると彼らは後を追って殉死するほどに心服していたという。
1586年、戸次川の戦いで島津軍は敵方の長宗我部信親(ちょうそかべ・のぶちか)を討ち取った。
長宗我部家の谷忠澄(たに・ただすみ)が遺体の受け取りに来ると、忠元は「自分がその場にいれば決して討ち取らせはしなかった」と将来有望な跡取りを殺したことを涙ながらに陳謝し、旧知の僧侶を信親の故郷の土佐まで同行させた。
1587年、豊臣秀吉の九州征伐に屈し、島津家は降伏した。
主君の島津義久(しまづ・よしひさ)が降伏後も弟の島津義弘や忠元は抵抗を続けたが、ついに義弘も降ると忠元も諦め、剃髪して秀吉のもとへ挨拶に出向いた。
秀吉がまだ戦う気があるかと尋ねると「私は武士ですから主君が戦うと言えばいつでも決起します。しかし主君の義久は一度でも主従の約束を交わしたら絶対に裏切らないから安心してください」と忠元は応じ、秀吉を感心させた。
その後、酒宴の席で豊臣方の細川幽斎(ほそかわ・ゆうさい)は忠元が白髭を持ち上げながら酒を飲む様子を面白がり「鼻の下にて鈴虫ぞなく」と詠んだ。忠元は即座に「上髭をちんちろりんとひねりあげ」と上の句を付けて返し、居並ぶ面々を驚かせた。
1600年、関ヶ原の戦いでは留守を預かった。
加藤清正が攻め寄せてくると聞くと、陣中に忍び込んでいる加藤家の間者にわざと聞こえるように数え歌を作り、領内の者に歌わせ兵を鼓舞したと伝わる。
1611年、86歳で没した。
殉死を禁じられたが2人の家臣が殉死し、殉死の代わりに指を詰める者が50余人いたという。
嫡子とその子がすでに没していたため、次男の子の新納忠清(ただきよ)が家督を継いだ。彼が没した時も禁止令が出されたにも関わらず殉死者が2名いたという。
新納家はその後も代々、島津家に重用された。
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田原親賢(たわら・ちかかた)
豊後の人(??~1600)
大友家の重臣。出家後の田原常忍(じょうにん)の名でも著名。
妹の奈多(なた)が主君の大友宗麟(おおとも・そうりん)に嫁ぎ、また長らく大友家と敵対する田原家の分家を継ぎ、牽制役を担ったため、宗麟から重用された。
1565年には加判衆(大友家の重臣団)となり、臼杵鑑速(うすき・あきはや)が1575年に没すると筆頭家老の地位に上った。
典型的な佞臣として政治をほしいままにし、家老の吉弘鎮信(よしひろ・しげのぶ)は「吉岡長増(よしおか・ながます)、臼杵鑑速がいた頃は信賞必罰が行われ人の恨みはなかった。今は田原親賢のような佞臣がはびこり代々の家臣が遠ざけられている。せめて立花道雪(たちばな・どうせつ)がいれば(道雪は中央を離れ筑前方面の司令官を任されていた)大友家はここまで悪くならなかっただろう」と嘆いた。
宗麟にも絶大な信頼を受けたが、宗麟の傾倒するキリスト教には妹の奈多とともに嫌悪感を表し、養嗣子が洗礼を受けキリシタンになったと知るや廃嫡したほどだった。
1578年、島津家との耳川の戦いでは総大将を任されるも、戦の経験の浅さと人望の薄さから兵をまとめ切れず、持久戦に反対し勝手に進撃した田北鎮周(たきた・しげかね)に引きずられるように軍を進め、背後を島津家久(しまづ・いえひさ)に襲われるや恐慌をきたし全軍撤退を指示したため大友軍は大混乱に陥り、多くの兵と重臣を失う大敗を喫した。
この敗戦をきっかけに大友家は滅亡寸前にまで追いつめられたため親賢は無能の烙印を押されたが、もともと宗麟が重臣の反対を押し切って決定した出陣で士気が低かったこと、筑前・豊前など遠方からかき集められた兵も多く指揮系統が整っていなかったことなど、開戦当初から不安要素は多々あった。
また島津家の史料には「大友方で最も奮戦したのは田原紹忍」と記されており本人が力闘したのは間違いなく、戦の経緯にはいささか誇張もあると見られる。
敗走した親賢は、ここぞとばかりに田原本家からの責任追及を受け、所領を没収された。
1581年には宗麟の子で自身の甥にあたる大友親盛(ちかもり)を養嗣子に迎え家督を譲ったが、その後も反乱鎮圧に出陣するなど一線から退くことはなかった。
またキリスト教への憎悪はいや増したようで、耳川の敗戦は仏罰としキリスト教施設の破却を宗麟に訴えている。
1587年、宗麟が没するとその子の大友義統(よしむね)に仕え、1593年に大友家が改易されると豊後岡に入った中川家に仕えた。
1600年、関ヶ原の戦いに際し、西軍の毛利家の支援を受けた義統が豊後で挙兵すると、親賢ら他家に仕えていた旧臣が次々と馳せ参じた。
親賢は中川家の旗印を盗み出して軍旗に用い、中川家を無理やり味方に引きずり込もうと画策したという。
だが九州に留まっていた黒田如水(くろだ・じょすい)、加藤清正らに敗北し、義統はあっさりと降伏。
親賢は中川家に戻り今度は東軍として太田一吉(おおた・かずよし)と戦うも、意趣返しとして先鋒にでも命じられたか、銃弾を浴びて戦死した。
※アイコンは劉巴
島津義久(しまづ・よしひさ)
薩摩の人(1533~1611)
島津家15代当主・島津貴久(たかひさ)の嫡子。
弟の島津義弘、歳久(としひさ)、家久(いえひさ)と揃って将来を嘱望され、祖父の島津忠良(ただよし)は「義久は三州(薩摩・大隅・日向)の総大将たる器、義弘は雄武英略に傑出、歳久は始終の利害を察するの智計並びなく、家久は軍法戦術に妙を得たり」と評した。
1554年に22歳で遅めの初陣を果たすと、1566年には父の隠居により家督を継ぎ、1570年までに薩摩を統一した。
1572年、3千の兵で押し寄せた伊東家を島津義弘は3百の兵で迎え撃ち大勝し、5百もの首級を挙げた。十倍の敵を破ったこの木原崎の戦いは「九州の桶狭間」と呼ばれる。
1574年には大隈を統一、1576年には伊東家を滅亡させ日向も落とし、悲願の三州統一を成し遂げた。
1578年、伊東家の当主・伊東義祐(いとう・よしすけ)を保護した大友宗麟(おおとも・そうりん)は、周囲の反対を押し切り日向へ兵を進めた。
大友軍4万3千は島津家久ら3千の籠る高城を包囲。義久が2万の援軍を率いて対陣すると、宗麟不在で足並みの揃わない大友軍はめいめい勝手に動き始め、田北鎮周(たきた・しげかね)が独断で戦端を開くと、それにつられて後続の部隊も進撃を始めた。
無秩序な大友軍は島津家の代表的な戦術「釣り野伏せ」に面白いように掛かり、各個撃破され田北鎮周をはじめ名だたる将が首を取られた。
この耳川の戦いの快勝を機に大友家は衰退し、島津家は九州随一の勢力へと躍進を遂げた。
1580年には織田信長の意向を受けた近衛前久(このえ・さきひさ)の仲介で大友家と和睦し、織田軍とともに毛利家を攻める密約を結んだが、信長が本能寺の変で討たれると破談となった。
1582年、龍造寺家に従属していた有馬晴信(ありま・はるのぶ)が島津家に寝返ると、大友・島津と並ぶ三大勢力の龍造寺家との戦端が開かれた。
1584年、沖田畷の戦いで龍造寺軍2万5千(一説に6万)を、島津・有馬連合軍わずか5千はさんざんに打ち破り、当主の龍造寺隆信(りゅうぞうじ・たかのぶ)の首を挙げた。
同年には龍造寺家も降伏し、翌年に肥後も制圧すると、追い込まれた大友宗麟は織田信長に代わって中央で台頭する豊臣秀吉に援軍を求めた。
秀吉は九州の諸大名にこれ以上の戦を禁じたが、義久はそれを無視して筑前・筑後に侵攻。各地の国人衆は次々と降伏し、大友家の重臣・高橋紹運(たかはし・じょううん)と立花宗茂を残すのみとなった。
島津軍はまず高橋紹運の籠る岩屋城を3万(一説に5万)の大軍で包囲。降伏を呼びかけたが紹運は拒絶し、8百足らずの高橋軍は一人の寝返りも出さずに玉砕を遂げたものの島津軍に死傷者5千近い大損害を与えた。
これにより島津家の侵攻は遅れたのみならず、立花城の攻略を諦め撤退中に宗茂の追撃も受け、岩屋城をはじめ3城を奪回された。
義久は筑前・筑後の攻略を後回しにし、大友家の本拠地・豊後へ4万の大軍を送った。
だがそのうち3万を率いた島津義弘は志賀親次(しが・ちかつぐ)の抵抗に手間取り、島津家久の1万だけが先行した。
秀吉は九州征伐軍を催し、仙石秀久(せんごく・ひでひさ)を軍監とし、四国勢を中心とした編成の先鋒部隊6千が九州に上陸した。
戸次川を挟んで対峙した家久軍に、仙石秀久は強引に突撃を仕掛けたが釣り野伏せにはまり、長宗我部信親(ちょうそかべ・のぶちか)や十河存保(そごう・ながやす)らが討ち死にする大敗を喫した。
宗麟から家督を継いでいた嫡子の大友義統(よしむね)は居城を蜂起して撤退し、残すは宗麟の籠る臼杵城だけとなった。
大友家の命運も風前の灯かと思われたが、高橋紹運が命に代えて稼いだ時間が間一髪で大友家を救うことになる。
1587年、秀吉の弟・豊臣秀長(ひでなが)率いる九州征伐軍の第二陣10万が豊前に、さらに秀吉自ら率いる本隊10万が小倉に上陸した。
島津軍は臼杵城の包囲を解くと前線を下げたが、各地の諸大名や国人衆は次々と豊臣方に寝返り、義弘、家久らが反撃を試みるも圧倒的な兵力差を覆せず大敗した。
豊臣軍が薩摩にまで迫ると、義久は剃髪し龍伯(りゅうはく)と改名し、先に降伏した交渉役の伊集院忠棟(いじゅういん・ただむね)の仲介により秀吉に降伏した。
義久、家久は膝を屈したものの義弘、歳久、新納忠元(にいろ・ただもと)ら重臣はしばらく抵抗を続け、歳久が秀吉の駕籠に矢を射かける事件も起こった。
義久に薩摩、義弘に大隅、男子のない義久の後継者に定められていた義弘の次男・島津久保(ひさやす)に日向の一部が与えられ、ようやく抵抗は収まったが、その後も島津家の家臣は新領主の受け入れを拒否したり、刀狩り令を無視したり、軍役に応じなかったりと反発は弱まらなかった。
1592年、文禄の役でも島津家は十分な兵を出さず、さらに重臣の梅北国兼(うめきた・くにかね)が肥後で反乱を起こした。
反乱は加藤清正により数日で鎮圧されたものの、秀吉は島津家の不穏分子の代表格として島津歳久の首を要求し、義久はやむなく自害を命じた。
1593年、島津久保が朝鮮で病死し、代わって義弘の三男・島津忠恒(ただつね)が後継者になり、久保の未亡人で義久の娘・亀寿(かめじゅ)をめとった。しかし夫婦仲は冷え切っており、性格の悪い忠恒が亀寿を冷遇した逸話がいくつも伝わっている。
1594年には隠居同然の義久に代わり義弘が島津家の当主と見なされ、義久は大隅に移り住んだが、実権は義弘との二頭体制で握っていた。
また1598年、島津家の降伏を仲介し、逆臣とも家名存続の功労者とも言われ評価が二分されていた伊集院忠棟が、忠恒に殺される事件が起こっている。
1600年、関ヶ原の戦いに際し、京にいた義弘は西軍への加担を決めた。
だが本国に援軍を要請するも義久・忠恒は動かず、義弘は1千足らずの手勢で参戦を余儀なくされた。
義弘は敵中に孤立するも家久の子・島津豊久らの犠牲により数十騎で戦線離脱に成功し「島津の退き口」と讃えられた。
戦後、義久は西軍への加担は義弘の独断によるものと主張した。義久の反対を押し切って忠恒が釈明に赴いたことも功を奏し、また徳川家康は島津家の戦力が手付かずで残っていることも恐れ、本領安堵を認めた。
1602年、義久は正式に忠恒に家督を譲り隠居したが、以降も江戸幕府との交渉役を務めるなど権力は変わらず、義久・義弘・忠恒による「三殿体制」を布いた。
だが忠恒・亀寿夫妻の不仲などから三者の関係は次第に悪化し、家中も3つの派閥に分かれていったという。
1611年、79歳で没した。
忠恒はすかさず亀寿を別居させ、とうとう子のできなかった彼女へのあてつけのように8人の側室を抱え、33人もの子をもうけたという。
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島津歳久(しまづ・としひさ)
薩摩の人(1537~1592)
島津貴久(たかひさ)の三男。四兄弟揃って名将の誉れ高く、祖父の島津忠良(ただよし)は歳久を「始終の利害を察するの智計並びなく」と評した。
17歳で祁答院良重(けどういん・よししげ)と戦い初陣を果たす。兄の島津義久(よしひさ)、島津義弘も初陣だった。
若くして才覚を認められ、1563年に吉田城(松尾城)の城主に任じられると、以降18年にわたり統治した。
1577年、日向の伊東家を滅ぼすと、伊東一族の娘であった梅(うめ)を側室に迎えた。
記録に残る限り歳久の妻は2人いるがいずれも子連れの再婚で身分も低いことから、正室を持たなかったとする説がある。
1580年、祁答院良重の旧領である虎居城に移ると、没するまで12年間を本領として過ごした。
歳久は善政を布いたらしく、祁答院家の旧臣を中心とした家臣は祁答院衆と呼ばれ、後に歳久が憤死すると彼らは3千の兵で謀叛も辞さじと虎居城に立て籠もったといい、現在も同地では歳久をしのぶ行事が執り行われている。
豊臣秀吉の九州征伐が始まると、他の兄弟は徹底抗戦を唱える中、歳久は「農民から体一つで身を興したからには只者ではない」と秀吉を評し、ただ一人和睦を主張した。
しかし主戦派を説き伏せるまでにはいたらず、戦端が開かれると圧倒的な戦力差から島津家は連敗した。
一転して家中が和睦路線に傾くと、今度は逆に「和睦には時勢があり今は降伏すべきではない」と歳久は抗戦を唱え、義久と義弘が相次いで降伏した後も戦いを続けた。
移動中の秀吉のもとへ家臣を道案内につかわせ、伏兵の待ち受ける隘路におびき寄せ駕籠に6本の矢を浴びせたが、襲撃を察した秀吉は別の駕籠に移っていたため難を逃れたということもあった。
歳久の頑強な抵抗の甲斐あってか、島津家の蜂起を恐れた秀吉は取り潰しをやめ、減封処分だけに留めたという。
だが秀吉の歳久に対する個人的な恨みは募り、文禄の役への出兵命令も病を理由に断られ、島津家の家臣・梅北国兼(うめきた・くにかね)が大規模な一揆を起こし、それに歳久の家臣が多く参加していたと知ると、ついに秀吉の怒りは爆発し殺害命令を下した。
島津家から討伐軍が差し向けられたが、彼らも当主の弟に手を出せず、また歳久も重病で自害することすらできなかった。
歳久が「早く首を取れ」と促しようやく斬られると、家臣27名が殉死し、討伐軍も誰もが武器を捨て嘆き悲しんだという。
亡骸をあらためると義久に宛てた遺書と辞世の句が見つかり「病に冒され太閤殿下(秀吉)に釈明に赴けなかっただけで、やましいところはない。しかし謀叛を疑われた以上、島津家の安泰のために切腹する。家臣らは承服していないのでやむなく交戦するが、兄に対して弓を引くつもりはない」といった主旨の文が記されていた。
歳久の首級は京で晒されたが、甥の島津忠長(ただなが)が盗み出し手厚く葬り、秀吉が没すると歳久最期の地に心岳寺が建立された。
男子はなく、娘婿の子が跡を継ぎ、日置領を治めたため日置島津家と呼ばれ、幕末まで続いた。
余談ながら異説として、歳久は最期の時、病から刀を握れずかたわらの石をつかむと腹に突き立てようとした。
しかし苦しいだけで思うように行かず「女は出産の時にこのような苦しみを味わうのだろう。死後はその苦しみから救ってやりたい」と言い遺したとされ、心岳寺に祀られた歳久は安産の神としても知られている。
また西郷隆盛は自害の直前に歳久の故事を語ったといい、薩摩藩士に広く慕われていたことがうかがえる。
※アイコンは劉焉
島津忠良(しまづ・ただよし)
薩摩の人(1492~1568)
島津家の分家である伊作家の当主。そのため伊作(いざく)忠良とも呼ばれ、また出家後の日新斎(じっしんさい)の号でも著名。
父は忠良が3歳の時に馬丁と諍いを起こして撲殺され、祖父も内紛の末に戦死したため、母の常磐(ときわ)が当主となった。
一気に衰退した伊作家は周囲の諸勢力から猛攻を受けたが、常磐は未亡人となって以来、求婚されていた相州島津家の島津運久(ゆきひさ)と、忠良が成長したら伊作・相州両家の家督を継ぐことを条件に再婚し急場をしのいだ。
1506年、元服した忠良はまず伊作家を継ぎ、1512年に運久は約束通り相州家の家督を譲り、忠良は両家を統一した。
忠良は常磐の指示により元服するまで禅寺で厳しい修行を積んだこともあり、思慮深く穏やかな性格に育ち、両家を上手くまとめて見せた。
当時の島津宗家は当主の早逝が相次ぎ、他家に養子に入っていた島津勝久(かつひさ)が薩摩守護と家督を継いだが、支配基盤は著しく低下していた。
勝久ははじめ有力分家の薩州家の当主・島津実久(さねひさ)の姉をめとり、実久に国政を委ねていたが、自身を養嗣子にし家督を譲るよう迫られたため、妻を離縁し実久を遠ざけた。
すると実久は兵を挙げ勝久を追放し、薩摩守護を自称するまでに至った。
1526年、勝久は名君の誉れ高くなっていた忠良に救援を求めた。
忠良は長子の島津貴久(たかひさ)を勝久の養嗣子とし、守護職を譲ることを条件にそれを受諾。勝久はすぐに貴久に守護の座を譲ると出家し隠居した。
忠良もまた33歳にして出家・隠居し日新斎と号すと、貴久を表に立て鎌倉時代に島津家が領していた三州(薩摩・大隅・日向)統一に乗り出した。
翌年、薩摩守護と島津宗家の当主を自称する実久はこれに猛反発し、忠良の姉婿・島津昌久(まさひさ)らとともに攻撃を仕掛けた。
一方で貴久への譲位を後悔していた勝久に和解を持ちかけ、守護職の返上を迫らせると、内外から猛攻にさらされた忠良・貴久は敗北して城を捨て撤退し、勝久は還俗し薩摩守護に復帰した。
1533年、虎視眈々と6年にわたり力を蓄えた忠良・貴久は反撃に転じ、日置・南郷の二城を落とした。
その頃、島津宗家は当主に復帰した勝久が忠臣を遠ざけ遊興に耽っていたため、重臣は謀議の末に実久の兵を招き入れ、勝久を追放し守護の座を実久に継がせた。
忠良・貴久は混乱に乗じて勢力を拡大し、1539年にはついに実久を破り島津宗家の家督と薩摩守護の座を奪い返した。
(ただし幕府から正式に守護と認められるのは1552年のことである)
忠良は1550年に正式に隠居した。しかし実戦からは離れたものの琉球を通じた対明貿易や交易、城下町の整備や後進の育成などにその後も携わり「島津家中興の祖」とうたわれた。
1568年、77歳で没した。忠良・貴久の存命中に叶わなかった三州統一の夢は、貴久の嫡子・島津義久(よしひさ)の手によって1576年に実現した。
また貴久の4人の息子はいずれも文武両道の名将として知られるが、忠良が彼らを評した「義久は三州の総大将たるの材徳自ら備わり、義弘は雄武英略を以て他に傑出し、歳久(としひさ)は始終の利害を察するの智計並びなく、家久(いえひさ)は軍法戦術に妙を得たり」という言葉はとみに著名である。
※アイコンは呉懿
島津貴久(しまづ・たかひさ)
薩摩の人(1514~1571)
薩摩の大名。父の島津忠良(ただよし)は島津家の中興の祖と讃えられた名将だが、貴久もそれに劣らず「島津の英主」とうたわれる。
貴久が生まれた当時、島津宗家は当主の早逝が相次ぎ、一門衆や国人衆も多くが離反し弱体化していた。
そこで宗家当主の島津勝久(かつひさ)は相州島津家の忠良に助けを求め、忠良の嫡子・貴久を養子に迎え家督を継がせると、自らは隠居し忠良に国政を委ねた。
薩州島津家の当主・島津実久(さねひさ)はそれに不満を持ち、勝久を抱き込むと忠良・貴久に攻撃を仕掛け、勝久は養子縁組を解消すると、守護職の譲渡も無効化した。
ところが勝久と実久は対立してしまい、かつて忠良らを迎え入れた反勝久派は、今度は実久を当主として擁立し、勝久を追放した。
勝久は忠良・貴久に庇護を求め、1539年、激戦の末に貴久らは勝利し、実久は実権を失い、勝久もまた支持を得られず母の実家の大友家へと落ち延びていった。
これら一連の流れは貴久らによる記録の改竄もあり、従来は単に実久による謀叛とされていたが、近年の研究ではもともと勝久の家督譲渡は本人よりも重臣らの意思によるもので、内心では勝久も不満を抱いていたと考えられている。
薩摩の国主となった貴久だが、急激な台頭は他の一族や国人衆の反発を招き、劣勢に追い込まれた。
しかし忠良は巧みな戦術で反対派を撃破するとともに、朝廷を利用した外交戦略や、海外貿易で優位を築き(日本で初めて鉄砲を実戦投入したのも島津家である)名実ともに国主の座を確立していき、1552年にはようやく薩摩統一を見た。
忠良は1550年に隠居したが依然として実権は持ち、1568年に没するまで内外にわたり島津家を援護した。
貴久も1566年、嫡子の島津義久(よしひさ)に家督を譲り隠居したが、大隅の攻略に関わり続け、1571年に57歳で没した。
忠良・貴久と二代にわたり力を蓄えた島津家は義久の代に花開き、貴久の没後わずか1年で旧領の大隅・日向を奪回したのみならず、九州全域へと覇権を広げるのだった。
※アイコンは張楊
相良義陽(さがら・よしひ)
肥後の人(1544~1581)
肥後の大名。はじめは相良頼房(よりふさ)と名乗った。
12歳の時に父が没し家督を継いだが、まだ幼少のため祖父の上村頼興(うえむら・よりおき)が家中を取り仕切った。
1556年、姻戚の菱刈重任(ひしかり・しげとう)と共謀し、薩摩大口城主の西原家に重任の妹を嫁がせ、側近とともに城内へ送り込んだ。
そして西原某が病に倒れたのを見計らい、相良・菱刈軍を招き入れ、西原某を焼殺し城を奪った。
これも頼房が13歳の出来事なので、祖父・頼興の計略であろう。
1557年、頼興が没するとかねてより頼房の家督相続に不満を抱いていた叔父の上村頼孝(よりたか)が、菱刈重任を誘い謀叛を起こした。
頼房と家臣団はそれを速やかに鎮圧し、頼孝らはいったんは帰参を許したものの、結局は首謀者の全員を抹殺した。
だが重任を殺された菱刈家との関係は悪化し、家中でも内紛が続き、さらに同盟していた島津家とも決裂すると相良家の勢力は衰退した。
1564年から島津家に侵攻されるが、そのさなかに将軍・足利義輝(あしかが・よしてる)から従四位下の高位と偏諱を与えられ、相良義頼(よしより 義陽にさらに改名したのは1574年)と改名した。
地方の小大名としては異例の高位と待遇に、島津家や大友宗麟(おおとも・そうりん)は猛抗議したと伝わる。
一方、島津軍の攻勢に対しては相良家の猛将・赤池長任(あかいけ・ながとう)が奮闘するも、後にタイ捨流を興す剣豪・丸目長恵(まるめ・ながよし)が命令を無視して島津家久(しまづ・いえひさ)に大敗し、同盟する伊東家も当主が急死し撤退したため、やむなく大口城を捨て薩摩から撤退した。
1572年、伊東家とともに島津軍を挟撃する策を立てるも、それを察知した島津義弘の先制攻撃により伊東軍が壊滅したため撤退した。
1575年、織田信長の意向を受け前関白・近衛前久(このえ・さきひさ)が九州の諸大名に和睦と毛利家の討伐を命じたが、島津家が拒絶し失敗に終わった。
一方で義陽は近衛前久の来訪に感激し、臣下の礼を取って歓待した。前久もいまだ朝廷に崇敬の念を抱く義陽に心動かされ、半ば強引に島津家に停戦を命じたという。
しかし1578年、耳川の戦いで島津家が大友家に大勝すると、その勢いのまま再び相良領へ侵攻し1581年、ついに義陽は島津家に降伏した。
同年、島津義久(よしひさ)は義陽に阿蘇家への攻撃を命じた。
阿蘇家の軍師・甲斐宗運(かい・そううん)は義陽と昵懇の間柄で、相互不可侵の誓いを交わしていた。
だが再三にわたる命令に逆らえず、義陽は宗運と交わした誓紙を焼き捨てると、自らの死を祈願して出陣した。
義陽の覚悟を聞いた島津義久は人質に取っていた義陽の息子を送り返した。人質を解放しても義陽は裏切らないと宿敵の島津家でさえその誠実さを信じており、死を前に息子に後事を託させるためであろうか。
義陽はあえて守備に向かない平原に陣取ると、甲斐軍の猛攻を受けても一人退却せず、床机に腰掛けたまま首を取られたという。
島津義弘は義陽の討ち死にを聞くと悲嘆に暮れ、宗運も落涙し「これで島津家を妨げる者はいなくなった。阿蘇家もあと数年の命だろう」と語った。
また旧臣の犬童頼安(いんどう・よりやす)は義陽が討たれた平原が人々に踏み荒らされるのは忍びないと考え、土手を築かせ供養塔を建立し、現在も「相良堂」として祀られている。
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佐伯惟教(さえき・これのり)
豊後の人(??~1578)
大友宗麟(おおとも・そうりん)に仕えた重臣。
宗麟の家督相続に貢献し、外様家臣の中では筆頭格に目された。
しかし家中では宗麟の父に惟教の祖父が暗殺されるなど、大友一族と外様の間で内紛が深刻化しており、1556年には外様の重臣である小原鑑元(おばら・あきもと)の反乱を招いた。
惟教はそれに与しなかったものの、宗麟は同じ穴のムジナと見なして討伐軍を差し向けた。
惟教は佐伯一族を伴って伊予の西園寺家に亡命し、そこで10余年を過ごした。
その後、大友家は北九州に勢力を伸ばす毛利元就に苦戦を強いられると、水軍の経験豊富な惟教の待望論が巻き起こり、重臣の臼杵鑑速(うすき・あきはや)の仲介により1569年に惟教は帰参した。
惟教の活躍もあり毛利軍は北九州から撤退し、翌年には居城を返還され、立花家を継ぐため加判衆(大友家の重臣団)を辞した戸次鑑連(べっき・あきつら 後の立花道雪)に代わり加判衆の筆頭格に返り咲いた。
また1572年に伊予の西園寺家と一条家が争うと、宗麟の命で惟教は旧恩ある西園寺家を攻撃し降伏させた。
1577年、薩摩の島津義久(しまづ・よしひさ)によって日向の伊東家が滅ぼされた。
それまで大友家に与していた日向の国人衆は動揺し、惟教の妹婿である土持親成(つちもち・ちかしげ)が島津家に寝返った。
惟教は自ら仲裁に入ったものの宗麟は討伐を命じ、惟教の手によって親成は捕らえられ、助命嘆願も虚しく処刑された。
1578年、宗麟は重臣の反対を押し切り、島津家への攻撃を仕掛けた。
惟教も高城攻めを命じられ、救援に現れた島津家久(いえひさ)軍を撃破したものの、強行軍で士気の低い田原親賢(たわら・ちかかた)ら本隊の動きは緩慢で、結局は家久の入城を許してしまった。
そこに島津義久の大軍が迫っていると急報が入ると、惟教は城の包囲を継続し増援を待つ持久戦を献策し軍議もまとまりかけたが、田北鎮周(たきた・しげかね)は慎重論に猛反対し、かくなる上は手勢を率いて討ち死にすると言い残し、勝手に進撃を始めてしまった。
総大将の田原親賢は戦の経験浅く、人望も薄かったため総意をまとめ切れず、田北軍に引きずられるように大友軍はずるずると進軍した。
惟教は兵力差を活かし中央突破を図ったが、島津家久が高城から出撃し背後を襲うと、焦った親賢は全軍撤退を指示してしまい、大混乱に陥った大友軍は壊滅的な損害を受けた。
惟教と二人の息子、田北鎮周ら多くの重臣も戦死したこの耳川の戦いの大敗により、大友家は一気に衰退への道を突き進むこととなる。
佐伯家は孫の佐伯惟定(これさだ)が継ぎ、大友家の滅亡後は豊臣秀保(とよとみ・ひでやす)に、秀保も間もなく没するとその家臣の藤堂高虎に仕え、幕末まで存続した。
※アイコンは董荼那
城井鎮房(きい・しげふさ)
豊前の人(1536~1588)
城井家は鎮房で15代目となる名家で、父の城井長房(ながふさ)は本家筋の下野宇都宮家の重臣として留守にしていたため、鎮房が若くして豊前の領地を統治していた。
はじめは大友宗麟(おおとも・そうりん)に従属し、宗麟の妹をめとり本名の大友義鎮(よししげ)から一字拝領するなど一門衆に属したものの、1578年に耳川の戦いで島津家に大敗を喫して以来、大友家が衰退するとすぐさま島津家に鞍替えした。
1586年、豊臣秀吉による九州征伐が始まるや、この時もすぐさま豊臣家に寝返ったものの、自身は病気と称して出陣せず、息子にわずかな兵を預けただけでお茶を濁したため秀吉の不興を買った。
そして翌年、伊予への転封と家宝の引き渡しを命じられたがこれを拒絶。
毛利勝信(もうり・かつのぶ)の説得でようやく城井谷城の明け渡しには応じたが、再三にわたる反抗に気を悪くした秀吉は改めて転封を命じたため、激怒した鎮房は手勢で居城を奪回し、反旗を翻した。
豊前に領地を与えられた黒田官兵衛・長政(ながまさ)父子が攻撃するも、天険の要害で地の利に勝る城井谷城に手こずった。
しかし官兵衛が兵糧攻めを仕掛けると、援軍を望めない鎮房に為す術はなく、本領安堵と13歳の娘・鶴姫(つる)を人質に出すことを条件に降伏した。
だが黒田父子は城井一族が大友家から島津家、そして豊臣家へと渡り歩いてきた過去や、旺盛な反骨心を危ぶみ、禍根を断つため粛清を決断。
1588年、鎮房を酒宴と称して城に招き入れると暗殺し、寺に集めておいた家臣団も全員殺した。
鎮房の父・長房は城井谷城に籠るも敗死し、一揆の鎮圧のためと偽り官兵衛が同行させていた鎮房の嫡子・朝房(ともふさ)も殺された。
鶴姫も13人の侍女とともに磔により処刑され、城井一族は一網打尽となった。
なお懐妊中の朝房の妻や、鎮房の弟が逃げ延び、子孫は残っている。
その後、黒田長政の居城にたびたび鎮房の亡霊が現れた。
官兵衛は謀略で幼い娘もろとも殺したことを悔やみ、城内に城井神社を建てその霊を祀ったが、黒田家は6代目の息子2人と孫3人が相次いで夭折し嫡流が途絶え、7~11代も次々と当主やその子らの早逝が続き、城井家の祟りとささやかれた。
また城井家には1500年前から伝えられる「艾蓬の射法」という弓を用いた破邪顕正、吉凶判断、戦勝祈願の儀式を当主が受け継いでいたが、鎮房の死とともに失われてしまい、暗殺後にそれを知った秀吉は大いに後悔したという。