三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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島津歳久(しまづ・としひさ)
薩摩の人(1537~1592)
島津貴久(たかひさ)の三男。四兄弟揃って名将の誉れ高く、祖父の島津忠良(ただよし)は歳久を「始終の利害を察するの智計並びなく」と評した。
17歳で祁答院良重(けどういん・よししげ)と戦い初陣を果たす。兄の島津義久(よしひさ)、島津義弘も初陣だった。
若くして才覚を認められ、1563年に吉田城(松尾城)の城主に任じられると、以降18年にわたり統治した。
1577年、日向の伊東家を滅ぼすと、伊東一族の娘であった梅(うめ)を側室に迎えた。
記録に残る限り歳久の妻は2人いるがいずれも子連れの再婚で身分も低いことから、正室を持たなかったとする説がある。
1580年、祁答院良重の旧領である虎居城に移ると、没するまで12年間を本領として過ごした。
歳久は善政を布いたらしく、祁答院家の旧臣を中心とした家臣は祁答院衆と呼ばれ、後に歳久が憤死すると彼らは3千の兵で謀叛も辞さじと虎居城に立て籠もったといい、現在も同地では歳久をしのぶ行事が執り行われている。
豊臣秀吉の九州征伐が始まると、他の兄弟は徹底抗戦を唱える中、歳久は「農民から体一つで身を興したからには只者ではない」と秀吉を評し、ただ一人和睦を主張した。
しかし主戦派を説き伏せるまでにはいたらず、戦端が開かれると圧倒的な戦力差から島津家は連敗した。
一転して家中が和睦路線に傾くと、今度は逆に「和睦には時勢があり今は降伏すべきではない」と歳久は抗戦を唱え、義久と義弘が相次いで降伏した後も戦いを続けた。
移動中の秀吉のもとへ家臣を道案内につかわせ、伏兵の待ち受ける隘路におびき寄せ駕籠に6本の矢を浴びせたが、襲撃を察した秀吉は別の駕籠に移っていたため難を逃れたということもあった。
歳久の頑強な抵抗の甲斐あってか、島津家の蜂起を恐れた秀吉は取り潰しをやめ、減封処分だけに留めたという。
だが秀吉の歳久に対する個人的な恨みは募り、文禄の役への出兵命令も病を理由に断られ、島津家の家臣・梅北国兼(うめきた・くにかね)が大規模な一揆を起こし、それに歳久の家臣が多く参加していたと知ると、ついに秀吉の怒りは爆発し殺害命令を下した。
島津家から討伐軍が差し向けられたが、彼らも当主の弟に手を出せず、また歳久も重病で自害することすらできなかった。
歳久が「早く首を取れ」と促しようやく斬られると、家臣27名が殉死し、討伐軍も誰もが武器を捨て嘆き悲しんだという。
亡骸をあらためると義久に宛てた遺書と辞世の句が見つかり「病に冒され太閤殿下(秀吉)に釈明に赴けなかっただけで、やましいところはない。しかし謀叛を疑われた以上、島津家の安泰のために切腹する。家臣らは承服していないのでやむなく交戦するが、兄に対して弓を引くつもりはない」といった主旨の文が記されていた。
歳久の首級は京で晒されたが、甥の島津忠長(ただなが)が盗み出し手厚く葬り、秀吉が没すると歳久最期の地に心岳寺が建立された。
男子はなく、娘婿の子が跡を継ぎ、日置領を治めたため日置島津家と呼ばれ、幕末まで続いた。
余談ながら異説として、歳久は最期の時、病から刀を握れずかたわらの石をつかむと腹に突き立てようとした。
しかし苦しいだけで思うように行かず「女は出産の時にこのような苦しみを味わうのだろう。死後はその苦しみから救ってやりたい」と言い遺したとされ、心岳寺に祀られた歳久は安産の神としても知られている。
また西郷隆盛は自害の直前に歳久の故事を語ったといい、薩摩藩士に広く慕われていたことがうかがえる。