三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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島津義久(しまづ・よしひさ)
薩摩の人(1533~1611)
島津家15代当主・島津貴久(たかひさ)の嫡子。
弟の島津義弘、歳久(としひさ)、家久(いえひさ)と揃って将来を嘱望され、祖父の島津忠良(ただよし)は「義久は三州(薩摩・大隅・日向)の総大将たる器、義弘は雄武英略に傑出、歳久は始終の利害を察するの智計並びなく、家久は軍法戦術に妙を得たり」と評した。
1554年に22歳で遅めの初陣を果たすと、1566年には父の隠居により家督を継ぎ、1570年までに薩摩を統一した。
1572年、3千の兵で押し寄せた伊東家を島津義弘は3百の兵で迎え撃ち大勝し、5百もの首級を挙げた。十倍の敵を破ったこの木原崎の戦いは「九州の桶狭間」と呼ばれる。
1574年には大隈を統一、1576年には伊東家を滅亡させ日向も落とし、悲願の三州統一を成し遂げた。
1578年、伊東家の当主・伊東義祐(いとう・よしすけ)を保護した大友宗麟(おおとも・そうりん)は、周囲の反対を押し切り日向へ兵を進めた。
大友軍4万3千は島津家久ら3千の籠る高城を包囲。義久が2万の援軍を率いて対陣すると、宗麟不在で足並みの揃わない大友軍はめいめい勝手に動き始め、田北鎮周(たきた・しげかね)が独断で戦端を開くと、それにつられて後続の部隊も進撃を始めた。
無秩序な大友軍は島津家の代表的な戦術「釣り野伏せ」に面白いように掛かり、各個撃破され田北鎮周をはじめ名だたる将が首を取られた。
この耳川の戦いの快勝を機に大友家は衰退し、島津家は九州随一の勢力へと躍進を遂げた。
1580年には織田信長の意向を受けた近衛前久(このえ・さきひさ)の仲介で大友家と和睦し、織田軍とともに毛利家を攻める密約を結んだが、信長が本能寺の変で討たれると破談となった。
1582年、龍造寺家に従属していた有馬晴信(ありま・はるのぶ)が島津家に寝返ると、大友・島津と並ぶ三大勢力の龍造寺家との戦端が開かれた。
1584年、沖田畷の戦いで龍造寺軍2万5千(一説に6万)を、島津・有馬連合軍わずか5千はさんざんに打ち破り、当主の龍造寺隆信(りゅうぞうじ・たかのぶ)の首を挙げた。
同年には龍造寺家も降伏し、翌年に肥後も制圧すると、追い込まれた大友宗麟は織田信長に代わって中央で台頭する豊臣秀吉に援軍を求めた。
秀吉は九州の諸大名にこれ以上の戦を禁じたが、義久はそれを無視して筑前・筑後に侵攻。各地の国人衆は次々と降伏し、大友家の重臣・高橋紹運(たかはし・じょううん)と立花宗茂を残すのみとなった。
島津軍はまず高橋紹運の籠る岩屋城を3万(一説に5万)の大軍で包囲。降伏を呼びかけたが紹運は拒絶し、8百足らずの高橋軍は一人の寝返りも出さずに玉砕を遂げたものの島津軍に死傷者5千近い大損害を与えた。
これにより島津家の侵攻は遅れたのみならず、立花城の攻略を諦め撤退中に宗茂の追撃も受け、岩屋城をはじめ3城を奪回された。
義久は筑前・筑後の攻略を後回しにし、大友家の本拠地・豊後へ4万の大軍を送った。
だがそのうち3万を率いた島津義弘は志賀親次(しが・ちかつぐ)の抵抗に手間取り、島津家久の1万だけが先行した。
秀吉は九州征伐軍を催し、仙石秀久(せんごく・ひでひさ)を軍監とし、四国勢を中心とした編成の先鋒部隊6千が九州に上陸した。
戸次川を挟んで対峙した家久軍に、仙石秀久は強引に突撃を仕掛けたが釣り野伏せにはまり、長宗我部信親(ちょうそかべ・のぶちか)や十河存保(そごう・ながやす)らが討ち死にする大敗を喫した。
宗麟から家督を継いでいた嫡子の大友義統(よしむね)は居城を蜂起して撤退し、残すは宗麟の籠る臼杵城だけとなった。
大友家の命運も風前の灯かと思われたが、高橋紹運が命に代えて稼いだ時間が間一髪で大友家を救うことになる。
1587年、秀吉の弟・豊臣秀長(ひでなが)率いる九州征伐軍の第二陣10万が豊前に、さらに秀吉自ら率いる本隊10万が小倉に上陸した。
島津軍は臼杵城の包囲を解くと前線を下げたが、各地の諸大名や国人衆は次々と豊臣方に寝返り、義弘、家久らが反撃を試みるも圧倒的な兵力差を覆せず大敗した。
豊臣軍が薩摩にまで迫ると、義久は剃髪し龍伯(りゅうはく)と改名し、先に降伏した交渉役の伊集院忠棟(いじゅういん・ただむね)の仲介により秀吉に降伏した。
義久、家久は膝を屈したものの義弘、歳久、新納忠元(にいろ・ただもと)ら重臣はしばらく抵抗を続け、歳久が秀吉の駕籠に矢を射かける事件も起こった。
義久に薩摩、義弘に大隅、男子のない義久の後継者に定められていた義弘の次男・島津久保(ひさやす)に日向の一部が与えられ、ようやく抵抗は収まったが、その後も島津家の家臣は新領主の受け入れを拒否したり、刀狩り令を無視したり、軍役に応じなかったりと反発は弱まらなかった。
1592年、文禄の役でも島津家は十分な兵を出さず、さらに重臣の梅北国兼(うめきた・くにかね)が肥後で反乱を起こした。
反乱は加藤清正により数日で鎮圧されたものの、秀吉は島津家の不穏分子の代表格として島津歳久の首を要求し、義久はやむなく自害を命じた。
1593年、島津久保が朝鮮で病死し、代わって義弘の三男・島津忠恒(ただつね)が後継者になり、久保の未亡人で義久の娘・亀寿(かめじゅ)をめとった。しかし夫婦仲は冷え切っており、性格の悪い忠恒が亀寿を冷遇した逸話がいくつも伝わっている。
1594年には隠居同然の義久に代わり義弘が島津家の当主と見なされ、義久は大隅に移り住んだが、実権は義弘との二頭体制で握っていた。
また1598年、島津家の降伏を仲介し、逆臣とも家名存続の功労者とも言われ評価が二分されていた伊集院忠棟が、忠恒に殺される事件が起こっている。
1600年、関ヶ原の戦いに際し、京にいた義弘は西軍への加担を決めた。
だが本国に援軍を要請するも義久・忠恒は動かず、義弘は1千足らずの手勢で参戦を余儀なくされた。
義弘は敵中に孤立するも家久の子・島津豊久らの犠牲により数十騎で戦線離脱に成功し「島津の退き口」と讃えられた。
戦後、義久は西軍への加担は義弘の独断によるものと主張した。義久の反対を押し切って忠恒が釈明に赴いたことも功を奏し、また徳川家康は島津家の戦力が手付かずで残っていることも恐れ、本領安堵を認めた。
1602年、義久は正式に忠恒に家督を譲り隠居したが、以降も江戸幕府との交渉役を務めるなど権力は変わらず、義久・義弘・忠恒による「三殿体制」を布いた。
だが忠恒・亀寿夫妻の不仲などから三者の関係は次第に悪化し、家中も3つの派閥に分かれていったという。
1611年、79歳で没した。
忠恒はすかさず亀寿を別居させ、とうとう子のできなかった彼女へのあてつけのように8人の側室を抱え、33人もの子をもうけたという。