三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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島津忠良(しまづ・ただよし)
薩摩の人(1492~1568)
島津家の分家である伊作家の当主。そのため伊作(いざく)忠良とも呼ばれ、また出家後の日新斎(じっしんさい)の号でも著名。
父は忠良が3歳の時に馬丁と諍いを起こして撲殺され、祖父も内紛の末に戦死したため、母の常磐(ときわ)が当主となった。
一気に衰退した伊作家は周囲の諸勢力から猛攻を受けたが、常磐は未亡人となって以来、求婚されていた相州島津家の島津運久(ゆきひさ)と、忠良が成長したら伊作・相州両家の家督を継ぐことを条件に再婚し急場をしのいだ。
1506年、元服した忠良はまず伊作家を継ぎ、1512年に運久は約束通り相州家の家督を譲り、忠良は両家を統一した。
忠良は常磐の指示により元服するまで禅寺で厳しい修行を積んだこともあり、思慮深く穏やかな性格に育ち、両家を上手くまとめて見せた。
当時の島津宗家は当主の早逝が相次ぎ、他家に養子に入っていた島津勝久(かつひさ)が薩摩守護と家督を継いだが、支配基盤は著しく低下していた。
勝久ははじめ有力分家の薩州家の当主・島津実久(さねひさ)の姉をめとり、実久に国政を委ねていたが、自身を養嗣子にし家督を譲るよう迫られたため、妻を離縁し実久を遠ざけた。
すると実久は兵を挙げ勝久を追放し、薩摩守護を自称するまでに至った。
1526年、勝久は名君の誉れ高くなっていた忠良に救援を求めた。
忠良は長子の島津貴久(たかひさ)を勝久の養嗣子とし、守護職を譲ることを条件にそれを受諾。勝久はすぐに貴久に守護の座を譲ると出家し隠居した。
忠良もまた33歳にして出家・隠居し日新斎と号すと、貴久を表に立て鎌倉時代に島津家が領していた三州(薩摩・大隅・日向)統一に乗り出した。
翌年、薩摩守護と島津宗家の当主を自称する実久はこれに猛反発し、忠良の姉婿・島津昌久(まさひさ)らとともに攻撃を仕掛けた。
一方で貴久への譲位を後悔していた勝久に和解を持ちかけ、守護職の返上を迫らせると、内外から猛攻にさらされた忠良・貴久は敗北して城を捨て撤退し、勝久は還俗し薩摩守護に復帰した。
1533年、虎視眈々と6年にわたり力を蓄えた忠良・貴久は反撃に転じ、日置・南郷の二城を落とした。
その頃、島津宗家は当主に復帰した勝久が忠臣を遠ざけ遊興に耽っていたため、重臣は謀議の末に実久の兵を招き入れ、勝久を追放し守護の座を実久に継がせた。
忠良・貴久は混乱に乗じて勢力を拡大し、1539年にはついに実久を破り島津宗家の家督と薩摩守護の座を奪い返した。
(ただし幕府から正式に守護と認められるのは1552年のことである)
忠良は1550年に正式に隠居した。しかし実戦からは離れたものの琉球を通じた対明貿易や交易、城下町の整備や後進の育成などにその後も携わり「島津家中興の祖」とうたわれた。
1568年、77歳で没した。忠良・貴久の存命中に叶わなかった三州統一の夢は、貴久の嫡子・島津義久(よしひさ)の手によって1576年に実現した。
また貴久の4人の息子はいずれも文武両道の名将として知られるが、忠良が彼らを評した「義久は三州の総大将たるの材徳自ら備わり、義弘は雄武英略を以て他に傑出し、歳久(としひさ)は始終の利害を察するの智計並びなく、家久(いえひさ)は軍法戦術に妙を得たり」という言葉はとみに著名である。