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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります

戦国列伝―城井鎮房  死してなお仇なす

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戦国列伝―城井鎮房  死してなお仇なす


※アイコンは董荼那

城井鎮房(きい・しげふさ)
豊前の人(1536~1588)

城井家は鎮房で15代目となる名家で、父の城井長房(ながふさ)は本家筋の下野宇都宮家の重臣として留守にしていたため、鎮房が若くして豊前の領地を統治していた。
はじめは大友宗麟(おおとも・そうりん)に従属し、宗麟の妹をめとり本名の大友義鎮(よししげ)から一字拝領するなど一門衆に属したものの、1578年に耳川の戦いで島津家に大敗を喫して以来、大友家が衰退するとすぐさま島津家に鞍替えした。

1586年、豊臣秀吉による九州征伐が始まるや、この時もすぐさま豊臣家に寝返ったものの、自身は病気と称して出陣せず、息子にわずかな兵を預けただけでお茶を濁したため秀吉の不興を買った。
そして翌年、伊予への転封と家宝の引き渡しを命じられたがこれを拒絶。
毛利勝信(もうり・かつのぶ)の説得でようやく城井谷城の明け渡しには応じたが、再三にわたる反抗に気を悪くした秀吉は改めて転封を命じたため、激怒した鎮房は手勢で居城を奪回し、反旗を翻した。

豊前に領地を与えられた黒田官兵衛・長政(ながまさ)父子が攻撃するも、天険の要害で地の利に勝る城井谷城に手こずった。
しかし官兵衛が兵糧攻めを仕掛けると、援軍を望めない鎮房に為す術はなく、本領安堵と13歳の娘・鶴姫(つる)を人質に出すことを条件に降伏した。
だが黒田父子は城井一族が大友家から島津家、そして豊臣家へと渡り歩いてきた過去や、旺盛な反骨心を危ぶみ、禍根を断つため粛清を決断。
1588年、鎮房を酒宴と称して城に招き入れると暗殺し、寺に集めておいた家臣団も全員殺した。
鎮房の父・長房は城井谷城に籠るも敗死し、一揆の鎮圧のためと偽り官兵衛が同行させていた鎮房の嫡子・朝房(ともふさ)も殺された。
鶴姫も13人の侍女とともに磔により処刑され、城井一族は一網打尽となった。
なお懐妊中の朝房の妻や、鎮房の弟が逃げ延び、子孫は残っている。

その後、黒田長政の居城にたびたび鎮房の亡霊が現れた。
官兵衛は謀略で幼い娘もろとも殺したことを悔やみ、城内に城井神社を建てその霊を祀ったが、黒田家は6代目の息子2人と孫3人が相次いで夭折し嫡流が途絶え、7~11代も次々と当主やその子らの早逝が続き、城井家の祟りとささやかれた。

また城井家には1500年前から伝えられる「艾蓬の射法」という弓を用いた破邪顕正、吉凶判断、戦勝祈願の儀式を当主が受け継いでいたが、鎮房の死とともに失われてしまい、暗殺後にそれを知った秀吉は大いに後悔したという。

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