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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります

戦国列伝―相良義陽  戦国一のお人好し

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戦国列伝―相良義陽  戦国一のお人好し


※アイコンは張楊

相良義陽(さがら・よしひ)
肥後の人(1544~1581)

肥後の大名。はじめは相良頼房(よりふさ)と名乗った。
12歳の時に父が没し家督を継いだが、まだ幼少のため祖父の上村頼興(うえむら・よりおき)が家中を取り仕切った。
1556年、姻戚の菱刈重任(ひしかり・しげとう)と共謀し、薩摩大口城主の西原家に重任の妹を嫁がせ、側近とともに城内へ送り込んだ。
そして西原某が病に倒れたのを見計らい、相良・菱刈軍を招き入れ、西原某を焼殺し城を奪った。
これも頼房が13歳の出来事なので、祖父・頼興の計略であろう。

1557年、頼興が没するとかねてより頼房の家督相続に不満を抱いていた叔父の上村頼孝(よりたか)が、菱刈重任を誘い謀叛を起こした。
頼房と家臣団はそれを速やかに鎮圧し、頼孝らはいったんは帰参を許したものの、結局は首謀者の全員を抹殺した。
だが重任を殺された菱刈家との関係は悪化し、家中でも内紛が続き、さらに同盟していた島津家とも決裂すると相良家の勢力は衰退した。

1564年から島津家に侵攻されるが、そのさなかに将軍・足利義輝(あしかが・よしてる)から従四位下の高位と偏諱を与えられ、相良義頼(よしより 義陽にさらに改名したのは1574年)と改名した。
地方の小大名としては異例の高位と待遇に、島津家や大友宗麟(おおとも・そうりん)は猛抗議したと伝わる。
一方、島津軍の攻勢に対しては相良家の猛将・赤池長任(あかいけ・ながとう)が奮闘するも、後にタイ捨流を興す剣豪・丸目長恵(まるめ・ながよし)が命令を無視して島津家久(しまづ・いえひさ)に大敗し、同盟する伊東家も当主が急死し撤退したため、やむなく大口城を捨て薩摩から撤退した。

1572年、伊東家とともに島津軍を挟撃する策を立てるも、それを察知した島津義弘の先制攻撃により伊東軍が壊滅したため撤退した。
1575年、織田信長の意向を受け前関白・近衛前久(このえ・さきひさ)が九州の諸大名に和睦と毛利家の討伐を命じたが、島津家が拒絶し失敗に終わった。
一方で義陽は近衛前久の来訪に感激し、臣下の礼を取って歓待した。前久もいまだ朝廷に崇敬の念を抱く義陽に心動かされ、半ば強引に島津家に停戦を命じたという。
しかし1578年、耳川の戦いで島津家が大友家に大勝すると、その勢いのまま再び相良領へ侵攻し1581年、ついに義陽は島津家に降伏した。

同年、島津義久(よしひさ)は義陽に阿蘇家への攻撃を命じた。
阿蘇家の軍師・甲斐宗運(かい・そううん)は義陽と昵懇の間柄で、相互不可侵の誓いを交わしていた。
だが再三にわたる命令に逆らえず、義陽は宗運と交わした誓紙を焼き捨てると、自らの死を祈願して出陣した。
義陽の覚悟を聞いた島津義久は人質に取っていた義陽の息子を送り返した。人質を解放しても義陽は裏切らないと宿敵の島津家でさえその誠実さを信じており、死を前に息子に後事を託させるためであろうか。
義陽はあえて守備に向かない平原に陣取ると、甲斐軍の猛攻を受けても一人退却せず、床机に腰掛けたまま首を取られたという。

島津義弘は義陽の討ち死にを聞くと悲嘆に暮れ、宗運も落涙し「これで島津家を妨げる者はいなくなった。阿蘇家もあと数年の命だろう」と語った。
また旧臣の犬童頼安(いんどう・よりやす)は義陽が討たれた平原が人々に踏み荒らされるのは忍びないと考え、土手を築かせ供養塔を建立し、現在も「相良堂」として祀られている。

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