三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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※アイコンは滕胤
ルイス・フロイス
ポルトガルの人(1532~1597)
ポルトガルのカトリック宣教師。
リスボンに生まれ10歳で宮廷に仕え、17歳でイエズス会に入った。
同年、インドのゴアに移され教育を受け、そこで日本への布教に向かう直前だったフランシスコ・ザビエルと日本人宣教師のヤジロウに感化され、日本への深い興味を抱いた。
ゴアで司祭に上り、語学と文才を買われ宣教地での通訳や、イエズス会への報告書を記す仕事に従事した。
1563年、32歳で念願だった日本での布教活動を開始。
2年後に京へ入るも交渉していた将軍・足利義輝(あしかが・よしてる)が三好三人衆らに暗殺されたため、堺へ落ち延びた。
1569年、義輝の弟・足利義昭(あしかが・よしあき)を擁した織田信長が、三好三人衆を撃破し上洛を果たした。
フロイスが布教を願い出ると、長らく一向一揆と戦うなど仏教界に辟易しており、異国文化にも興味を持っていた信長はそれを認めた。
1583年、イエズス会からフロイスは、布教の第一線から離れ日本での布教活動を記録に残すことに専念するよう命じられた。
フロイスは喜び勇んで執筆に勤しみ、自ら日本全国をめぐっては見聞を広め「日本史」を著した。
イエズス会の活動のみならず、当時の日本で起こった大小の事件や出来事、日本各地に残る歴史、面会した人物の事績、印象などを詳細に記し、あまりに微に入り細を穿つ内容に上司は添削するよう苦言を呈したほどだったといい、戦国から安土桃山時代の研究資料としてきわめて重要な書物である。
また表音文字のアルファベットで書かれているため、人物名や地名の正確な発音も読み取れ、言語学上でも貴重であり、戦国時代の人物の読みがわかるのはひとえにフロイスのおかげである。
布教を許可した信長に関する記述は全体的に好意的ながら、戦を好み癇癪を起こしやすく他人の話に耳を貸さない、など負の面も余さず記し、今日における一般的な信長像はフロイスの記述によるところが非常に大きいと言えるだろう。
信長の跡を継ぎ天下人への道を歩む豊臣秀吉も当初はイエズス会を支持していたが、次第に迫害へと傾いていき、1587年にはバテレン追放令を出したが、フロイスはその後も変わりなく活動していた。
1592年に一時マカオに渡ったものの、1595年に長崎へ戻り、同地で1597年に没した。享年66。
「日本史」の他にも日本に関する著作をいくつも残しており「日欧文化比較論」では「欧州では明瞭な言葉を求め、曖昧な言葉を避けるが、日本では曖昧な言葉が最も重んぜられている」と、現代の日本人と変わりない戦国時代の人々の姿を伝えている。
※アイコンは孟節
本阿弥光悦(ほんあみ・こうえつ)
京の人(1558~1637)
刀剣の鑑定や研磨を生業とする家に生まれ、光悦も家業を継いだと見られるが、実際に光悦が手掛けた刀剣はほとんど確認できず、残された多くの書状でも刀剣に関してはめったに触れられていないという。
一方で茶人、書家、陶芸家など多彩な才能を持ち、無数の作品を残しており、特に書は「寛永の三筆」に数えられ、光悦流を開いている。
また1615年に徳川家康から土地を拝領し、いわゆる芸術村とでも呼ぶべき「光悦村」を築き、一族や芸術の才に恵まれた人々を各地から集めた。
その中にはかの俵屋宗達(たわらや・そうたつ)や、尾形光琳(おがた・こうりん)の祖父がおり、諸国を放浪中の宮本武蔵も寄宿したという。
もっともこれは朝廷と深いつながりを持ち、多大な影響力を持つ光悦を一ヶ所に押し込め監視するのが目的だったとも言われているが、真相は定かでない。
いずれにしろ我が城を得た光悦は意気揚々と芸術に人生を捧げ、後世の芸術家に計り知れない影響を与えたことは疑いない。
京で公儀の呉服屋を営む豪商。
当主は代々「茶屋四郎次郎」の名を襲名し戦国期には3世代にわたって四郎次郎が存在するため、創作はもちろん歴史書などでもしばしば事績が混同しがちである。
信濃守護の小笠原長時(おがさわら・ながとき)に仕えた中島明延(なかじま・あきのぶ)が、武士を辞め京に上り呉服屋を始めたのが成り立ちとされる。
時の将軍・足利義輝(あしかが・よしてる)がたびたび明延の屋敷を訪れ一服したことから「茶屋」の屋号を用いだした。
以下、三世代の四郎次郎を簡単に紹介する。
茶屋清延(きよのぶ)
京の人(1545~1596)
初代茶屋四郎次郎。明延の子で、若い頃は徳川家康に仕え三方ヶ原の戦いにも出陣し、家康から家紋を褒美に得るほどの活躍をした。
1582年、本能寺の変が起こると堺に滞在していた家康に危急を告げ、本拠地の三河への逃避行、俗にいう「伊賀越え」に同行した。
清延は物資の調達を務め、また野盗・山賊や付近の民衆に惜しげもなく金をばらまくことで、危機を未然に防いだという。
その功績から徳川家の御用商人に取り立てられ、茶屋家の後の発展の布石となった。
茶屋清忠(きよただ)
京の人(??~1603)
二代茶屋四郎次郎。清延の長男で、家康からも続けて信任を受けた。
豊臣秀吉が没し、徳川家の権力が増すにつれてさらなる発展を遂げ、京・大坂の物流を一手に担った。
また1600年、関ヶ原の戦いに際し、混乱する京の情勢をつぶさに家康に報せ、廃止されていた京都所司代の復活のきっかけとなったという。
茶屋清次(きよつぐ)
京の人(1584~1622)
三代茶屋四郎次郎。清延の次男で、長谷川藤広(はせがわ・ふじひろ)の養子になっていたが、兄が急逝したため幕府の命令により20歳の若さで当主の座を継いだ。
1612年、朱印船貿易の許諾を得て茶屋家の最盛期を築いた。莫大な富に恵まれ、本阿弥光悦(ほんあみ・こうえつ)ら芸術家の後援にも勤しんだが、彼も兄と同じく39歳の若さで没した。
また家康の死因として有名な鯛の天ぷらを勧めたのは彼である。
その他、清延の三男の茶屋長吉(ながよし)は尾張に居を構え、やはり公儀の呉服屋として一家を築いた。
しかしその後の茶屋家は、鎖国を機に貿易特権も失うと、次第に衰退し始め、明治維新後には間もなく廃業したという。
※アイコンは卞氏
出雲阿国(いずもの・おくに)
出雲の人?(1572?~??)
歌舞伎の創始者として知られる女性。半ば伝説的な人物で大半の事績は信憑性が疑われる。
夫は細川家に仕えた名古屋山三郎(なごや・さんさぶろう)とされるがこれも伝承の域を出ない。
1572年、出雲の鍛冶・中村家に生まれ、出雲大社の巫女となった。
出雲大社の勧進のため諸国を巡業し「ややこ踊り」を改良し「かぶき踊り」を考案し各地で評判を呼んだ。
かぶき踊りは遊女を描いたもので、自然と遊女の間で流行し、瞬く間に全国へと広まった。
後に公序良俗の面から幕府によって禁止されたが、歌舞伎として形を変え、現代へと伝わった。
阿国は1607年、江戸城での上演を最後に消息が途絶える。
出雲に帰り巫女に戻ったとも、京で没したともされ、没年は1613年説から1658年説まで幅広く、阿国の名が世襲され複数人いたとも考えられる。
また生年が1572年とされるのは、1582年に春日大社で「加賀国八歳十一歳の童」が、ややこ踊りをしたという記録があり、これを「8歳の加賀と11歳の国という少女」と解釈し、そこから国の年齢を逆算したためである。
なお「加賀国八歳十一歳の童」を「加賀出身の8歳と11歳の少女」と読めば阿国とは関係ない人物となる。
余談だが漫画「へうげもの」では彼女と歌舞伎の成り立ちについて大胆な解釈がされており一読を勧めたい。
フランシスコ・ザビエル
ナバラ王国の人(1506~1552)
日本に初めてキリスト教を伝えた宣教師。
地方貴族に生まれ、父はナバラ国王の信頼厚い宰相だった。しかし1515年、ナバラは強大なスペインに併呑され、そのさなかに父も命を落とした。
ザビエルは19歳でパリ大学に進学し哲学を学んだが、母と姉の死や友人からの影響で聖職者を志し、1534年に「イエズス会」を創設した。
全世界への布教を掲げたイエズス会はローマ教皇やポルトガル国王の援助を取り付け1541年、当時ポルトガル領だったインド西部のゴアへ出発した。
翌年にゴアに到着するとそこを拠点にインド各地で布教活動を行い、1547年、マラッカで薩摩出身のヤジロウに出会った。
ヤジロウは確かな事績はわからないものの元海賊で、殺人の罪を逃れてマラッカまで来たものの、ザビエルらの噂を聞き懺悔に赴いたという。
ザビエルはヤジロウの人柄に共感し、日本でも布教は進むだろうという彼の観測を信じ、1549年、ヤジロウら日本人3人を含む8人で日本へ向かった。
ヤジロウの故郷・薩摩に到着したザビエルは大名・島津貴久(しまづ・たかひさ)に謁見し布教の許しを得た。
友人で仏僧の忍室(にんじつ)と宗教論争を交わし、後に日本人初のヨーロッパ留学生となる鹿児島のベルナルドにも出会ったが、仏教徒の反発を受け次第に風当たりが厳しくなったため、薩摩を去った。
1550年、肥前に拠点を築くと、ザビエルはベルナルドとともに京へ向かった。
途中で周防の大名・大内義隆(おおうち・よしたか)に謁見したものの、キリスト教で重罪とされた衆道(男色)を好む義隆の怒りを買い、すぐに同地を去った。
ザビエルは日本全国での布教の許可を「日本国王」から得るため天皇や将軍・足利義輝(あしかが・よしてる)への拝謁を望んだが、献上品が無いためすげなく断られた。比叡山延暦寺との論戦も断られ、目的を失ったザビエルらは失意のうちに肥前に戻った。
キリスト教への理解が乏しかった他、当時は天皇・将軍家ともに権威を失墜しており、京の町も荒廃していたという。
ザビエルは肥前に残していたポルトガル国王から託された献上品を携え、再び周防へ向かった。
前回は質素な衣装で謁見に臨み、侮られた苦い経験を活かし、華美な服装に身を包み、天皇に渡す予定だったインド総督の親書や献上品を惜しみなく差し出すと、大内義隆はおおいに喜び布教を許した。
与えられた廃寺を改装し日本初の教会を築き、2ヶ月で500人の信徒を集め、その中には後にイエズス会の中心人物となるロレンソ了斎(りょうさい)もいた。
1551年、豊後にポルトガル船が着いたと聞くと、ザビエルは当地に飛び、大名の大友宗麟(おおとも・そうりん)に布教の許しを得た。
宗麟は自身の洗礼名にザビエルにちなみフランシスコを選び、キリスト教に傾倒し熱心に布教に務めたものの、それが仏教の迫害へとエスカレートし家臣の反発を招くなど大友家の滅亡の遠因となった。
日本滞在も2年に及び、インドからの情報が途絶えたことを気に病んだザビエルは、日本での布教に区切りをつけ、他の宣教師に後を任せると1551年11月、日本を発った。
翌1552年、ゴアに無事戻ったザビエルは、日本全土へ布教するためには日本文化に大きな影響を与えた中国での布教が必要だと考え、上川島に渡った。
だが入国を拒まれ足止めされるうちに病を得て、同年12月に46歳で神に召された。
ザビエルの遺体はいったんは海岸に埋葬されたものの、翌年にゴアへ移された。
1614年、聖遺物として右腕が切り落とされると、死後50年を経ながら鮮血がほとばしり奇跡と認定され、後にザビエルは聖人に列した。
ザビエルは遺した書簡で日本人について「今までに発見された人々の中で最高であり、彼らより優れた人々は異教徒の中にいない。彼らは親しみやすく善良で悪意を持たず、一方で他の何よりも驚くほど名誉を重んじる」と述べている。
杉谷善住坊(すぎたに・ぜんじゅぼう)
出身地不明(??~1573)
鉄砲の名手で織田信長を狙撃したことでとみに有名。
しかし素性は不明で甲賀忍者、伊勢の国人衆、雑賀衆、根来衆からはては賞金稼ぎやただの猟師ともいう。
信長を狙った理由も六角家の依頼、個人的な恨み、腕試しと諸説ある。
1570年、朝倉家を攻めるも、裏切った浅井家に背後を襲われた信長は京に逃れ、そこから岐阜城へと帰途についていた。
そして近江に差し掛かった時、善住坊に狙撃された。20数メートルの距離から2発撃たれたものの、名人のはずの善住坊の弾丸は逸れ、信長はかすり傷を負っただけだった。
これを信長は天の守護と感じ、人々も信長の運の強さを恐れ敬ったという。
ともあれ激怒した信長は徹底的に犯人探しをし3年後、善住坊は磯野員昌(いその・かずまさ)によって捕らえられた。
信長は善住坊を首から上だけを出させて地面に埋めると、竹のノコギリでじわじわと首を切断させたという。
ルイス・フロイスの記録に「反乱を扇動しようとした仏僧が生き埋めにされノコギリで首を斬られた」と残されており、それが善住坊の可能性がある。
また関ヶ原の戦い後に、家臣の早合点で父を失った九鬼守隆(くき・もりたか)が、同様の方法で家臣を処刑しているが、あるいは善住坊の一件にならったか、恨み深い相手への処刑法としてノコギリ曳きは有名だったのかもしれない。
千利休(せんの・りきゅう)
和泉の人(1522~1591)
わび茶を完成させた茶人。茶聖とも呼ばれる。
利休の名は禁中茶会にあたり、町人の身分では参内できないため天皇から与えられた居士としての号である。晩年に用いただけで、茶人としての大半は千宗易(そうえき)と名乗っている。
堺の商家(倉庫業)に生まれる。若い頃から茶の湯に親しみ、師匠について学んだ。
織田信長が堺を直轄地とすると茶頭として仕えた。
信長が没すると次いで豊臣秀吉に仕え、1587年の北野茶会を主管するなど重用された。
秀吉の命を受け黄金の茶室を手がける一方で、草庵茶室、楽茶碗、竹の花入などを新たに創案し、独自の「わび茶」を磨き上げていった。
政にもたずさわり、大友宗麟(おおとも・そうりん)が大坂城を訪れたとき、秀吉の弟・豊臣秀長(とよとみ・ひでなが)は「公儀のことは私に、内々のことは利休に」尋ねるよう告げたという。
だが1591年、突如として秀吉の逆鱗に触れ、蟄居を命じられた。
前田利家や、弟子である古田織部(ふるた・おりべ)、細川忠興(ほそかわ・ただおき)ら多くの大名が奔走したが許されず、ついに切腹を命じられた。
その際には、大名たちに絶大な影響力を誇る利休の奪還を恐れ、秀吉は上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)の軍勢に屋敷を警護させたとされる。
死後、古田織部や織田有楽斎(おだ・うらくさい)らによってわび茶の精神は受け継がれ、現在に至る。
~死罪の理由~
利休が切腹させられた原因としてよく知られているのは、「大徳寺三門の改修の際、自身の木像を二階に設置し、その下を秀吉に通らせたため」とする説で、死後にはその木像に踏みつけられる形で首を晒されたともいう。
しかし問題の木像は取り壊されることなく現存しており、説得力があるとは言いがたい。
はっきりとした理由はいまだわかっておらず、他にも安価な茶器を高額で売りさばき私腹をこらしたとか、政闘に巻き込まれたとか、娘を秀吉の側室に差し出すよう命じられたのを断ったなど、様々な説が挙げられている。
~わび茶~
現在伝えられる利休の人物像は、後世の創作が大半である。
高弟である山上宗二(やまがみ・そうじ)によると、利休は60歳までは先人の茶を踏襲し、61歳からようやく独自の茶を築いたという。つまり晩年のわずか10年しか、利休はわび茶に携わっていないこととなる。
わび茶の概念を簡潔に述べると、まず名物を尊ぶ既存の価値観を否定したことが大きい。
利休は楽茶碗などを考案し、いずれも装飾性を廃した簡素なもので、値段も張らなかった。
茶室はそれまで4畳半が最小とされたが、利休は3畳、2畳にまで縮小し、入り口もごく狭くした。また障子を無くして窓を設け、その配置によって光と影の演出をするなど、設計の自由度を格段に向上させ、それぞれの工夫を凝らした千差万別の茶室を造れるようにし、これは現代の日本建築にも多大な影響を与えている。
利休の手によって、茶の湯は単なる憩いやたしなみから、芸術に昇華したといって過言ではあるまい。
織田信長の乳兄弟・池田恒興(いけだ・つねおき)の娘。安養院(あんよういん)の名でも知られる。
同じく織田家で「鬼武蔵」の異名をとった森長可(もり・ながよし)に嫁いだ。
池田家と森家は親しく、恒興は次男の池田輝政(てるまさ)を、森長可の父と同じ三左衛門(さんざえもん)と名づけている。
真偽の程は怪しいが、せんは賤ヶ岳の戦いで女ばかり200人の鉄砲隊を率い、織田信雄(おだ・のぶかつ)の陣を銃撃したという。
だが小牧・長久手の戦いで恒興と兄の池田元助(もとすけ)、夫の長可はそろって討ち死にした。
せんと長可の間に子はなく、森家は長可の弟の森忠政(ただまさ)が継いだ。
せんはその後、豊臣家に仕える中村一氏(なかむら・かずうじ)に再嫁した。
一氏は甲賀忍者だったという説すらあるほどで出自は判然としないが、前夫の長可に似た勇猛な人物で、駿河14万石の大名となった。
また山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いにも出陣しており、山崎では鉄砲隊を率いたと記され、せんが本当に女鉄砲隊を指揮していたとすれば、一氏と共闘したと思われる。
1600年、関ヶ原の戦い直前に一氏が急死し、11歳の嫡子・中村一忠(かずただ)が跡を継いだ。
しかし一忠は甘言に惑わされて後見人の叔父を殺してしまい、その罪悪感と周囲の冷たい視線に耐え切れず、病を得て20歳で没した。
中村家はそれにより改易されたが、一忠の遺児は、祖母せんの縁をたどり池田家(輝政の孫)に仕えたという。
また他に二人の男子がおり、三男の中村甚左衛門(じんざえもん)は関ヶ原の戦いに際し、西軍に城を包囲された細川幽斎(ほそかわ・ゆうさい)の密命を帯びて城を脱出したとされるものの、長兄の一忠が当時11歳なのに幼児の彼が細川家に仕えているのは不自然で、ましてや密命を授けられるわけもない。
さらに甚左衛門の子孫が「甚左衛門は天文20年(1551年)の生まれと推定され~~」などと発言しており、これは同姓同名の別人と考えるべきだろう。
次男とされる中村正吉(まさよし)は肥後中村家を立てるも戦死したというが、これも一氏の弟の系譜との混同が見られ、記述は甚だ怪しい。
1614年、徳川家康と豊臣家の間で抗争が始まると、双方から声をかけられたが、半分は再起をかけ、半分は死に場所を求め大坂方につき「豊臣秀頼(とよとみ・ひでより 秀吉の遺児)公には先陣を務めることで、家康公には合戦初日に死ぬことで恩に報いよう」と語った。
そして翌年、大坂夏の陣の緒戦で伊達政宗の大軍と戦い、奮戦の末に銃撃され負傷。自刃して果てた。
~黒田長政との確執~
長政のもとを出奔した際に出された奉公構は、切腹に次ぐ重罰と言われており、長政の又兵衛に対する怒りがすけて見える。
なぜそこまで関係が悪化したかというと、一揆の鎮圧に失敗した際に、長政はいちはやく頭を丸めて父の官兵衛に詫びたが、又兵衛は悪びれず平然としていたため、官兵衛は逆にその態度に感心し不問に付したので、長政は面目を失った、といういかにも名誉を重んじた戦国武将らしい話がひとつ伝わっている。
また、朝鮮出兵の際に敵と一騎打ちをし苦戦する長政を、又兵衛は「ここで討たれるようでは我が主君にふさわしくない」と助太刀しようとせず、辛くも生き延びた長政に恨まれた、という逸話から見ると、黒田官兵衛という傑物に仕えた又兵衛が、決して凡人ではないが、そこまでの人物ではなかった息子の長政に高望みしすぎて幻滅した、というのも出奔の理由のひとつであろうか。
たしかな事実として伝わるのは、1594年、捕らえられた五右衛門は、一族や仲間20人とともに、京で生きたまま釜ゆでとなり処刑された、ということだけである。
以下は伝承として伝わる五右衛門の事績。
出身地は伊賀、遠江、河内、丹後と諸説あり、伊賀の抜け忍とも、大忍者・百地丹波(ももち・たんば)の弟子となり、その妻を寝とって妾を殺し出奔したとも言われる。
丹後の一色家に仕えた石川秀門(いしかわ・ひでかど)の子で、羽柴秀吉の中国征伐の折に、細川藤孝(ほそかわ・ふじたか)によって父を殺され城も落とされ、以来、秀吉を付け狙ったともされる。
権力者、特に豊臣家を標的にした五右衛門は、太閤検地や刀狩り、朝鮮出兵などで苦しめられた豊臣家に不満を抱く民衆に支持された。
金のシャチホコ(大阪城、名古屋城など諸説あり)を盗もうとしたともされるが、これは別の盗賊の逸話が混在したと見られる。
秀吉の甥・豊臣秀次(とよとみ・ひでつぐ)から秀吉暗殺を依頼され、寝室に忍び込んだが、枕元の香炉に付けられた千鳥の飾りが、鳴いて危機を知らせたため、捕らえられてしまい、釜ゆでの刑で殺された。
辞世の句として「石川や 浜の真砂は 尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ(たとえ砂浜から砂が無くなることはあろうとも、盗人が世の中から消えることはない)」と詠んだという。
江戸時代になって五右衛門は、歌舞伎や浄瑠璃の演目として盛んに取り上げられ、その中で義賊に描かれたため人気を博した。
秀吉の天敵とされたのは(演目では秀吉の名をもじった架空の人物になっている)徳川政権下において、悪徳の権力者として描かれるには、前政権の長である秀吉が最も適当な存在だったからと見られる。