三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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フランシスコ・ザビエル
ナバラ王国の人(1506~1552)
日本に初めてキリスト教を伝えた宣教師。
地方貴族に生まれ、父はナバラ国王の信頼厚い宰相だった。しかし1515年、ナバラは強大なスペインに併呑され、そのさなかに父も命を落とした。
ザビエルは19歳でパリ大学に進学し哲学を学んだが、母と姉の死や友人からの影響で聖職者を志し、1534年に「イエズス会」を創設した。
全世界への布教を掲げたイエズス会はローマ教皇やポルトガル国王の援助を取り付け1541年、当時ポルトガル領だったインド西部のゴアへ出発した。
翌年にゴアに到着するとそこを拠点にインド各地で布教活動を行い、1547年、マラッカで薩摩出身のヤジロウに出会った。
ヤジロウは確かな事績はわからないものの元海賊で、殺人の罪を逃れてマラッカまで来たものの、ザビエルらの噂を聞き懺悔に赴いたという。
ザビエルはヤジロウの人柄に共感し、日本でも布教は進むだろうという彼の観測を信じ、1549年、ヤジロウら日本人3人を含む8人で日本へ向かった。
ヤジロウの故郷・薩摩に到着したザビエルは大名・島津貴久(しまづ・たかひさ)に謁見し布教の許しを得た。
友人で仏僧の忍室(にんじつ)と宗教論争を交わし、後に日本人初のヨーロッパ留学生となる鹿児島のベルナルドにも出会ったが、仏教徒の反発を受け次第に風当たりが厳しくなったため、薩摩を去った。
1550年、肥前に拠点を築くと、ザビエルはベルナルドとともに京へ向かった。
途中で周防の大名・大内義隆(おおうち・よしたか)に謁見したものの、キリスト教で重罪とされた衆道(男色)を好む義隆の怒りを買い、すぐに同地を去った。
ザビエルは日本全国での布教の許可を「日本国王」から得るため天皇や将軍・足利義輝(あしかが・よしてる)への拝謁を望んだが、献上品が無いためすげなく断られた。比叡山延暦寺との論戦も断られ、目的を失ったザビエルらは失意のうちに肥前に戻った。
キリスト教への理解が乏しかった他、当時は天皇・将軍家ともに権威を失墜しており、京の町も荒廃していたという。
ザビエルは肥前に残していたポルトガル国王から託された献上品を携え、再び周防へ向かった。
前回は質素な衣装で謁見に臨み、侮られた苦い経験を活かし、華美な服装に身を包み、天皇に渡す予定だったインド総督の親書や献上品を惜しみなく差し出すと、大内義隆はおおいに喜び布教を許した。
与えられた廃寺を改装し日本初の教会を築き、2ヶ月で500人の信徒を集め、その中には後にイエズス会の中心人物となるロレンソ了斎(りょうさい)もいた。
1551年、豊後にポルトガル船が着いたと聞くと、ザビエルは当地に飛び、大名の大友宗麟(おおとも・そうりん)に布教の許しを得た。
宗麟は自身の洗礼名にザビエルにちなみフランシスコを選び、キリスト教に傾倒し熱心に布教に務めたものの、それが仏教の迫害へとエスカレートし家臣の反発を招くなど大友家の滅亡の遠因となった。
日本滞在も2年に及び、インドからの情報が途絶えたことを気に病んだザビエルは、日本での布教に区切りをつけ、他の宣教師に後を任せると1551年11月、日本を発った。
翌1552年、ゴアに無事戻ったザビエルは、日本全土へ布教するためには日本文化に大きな影響を与えた中国での布教が必要だと考え、上川島に渡った。
だが入国を拒まれ足止めされるうちに病を得て、同年12月に46歳で神に召された。
ザビエルの遺体はいったんは海岸に埋葬されたものの、翌年にゴアへ移された。
1614年、聖遺物として右腕が切り落とされると、死後50年を経ながら鮮血がほとばしり奇跡と認定され、後にザビエルは聖人に列した。
ザビエルは遺した書簡で日本人について「今までに発見された人々の中で最高であり、彼らより優れた人々は異教徒の中にいない。彼らは親しみやすく善良で悪意を持たず、一方で他の何よりも驚くほど名誉を重んじる」と述べている。