三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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養父は前田利家の長兄・前田利久(としひさ)。
実父は滝川一益(たきがわ・かずます)の従兄弟とも甥とも言われ、はては慶次が滝川一益の弟ともされるなど判然としない。
1567年、養父の利久は跡継ぎがなく病弱なため隠居させられ、弟の前田利家が家督を継いだ。
慶次は養父とともに居城を出たが、織田信長には仕え続けたようで、いったん歴史から姿を消した後、1581年に前田利家が能登一国を与えられた折に、その家臣となっている。
だが1582年、本能寺で信長が討たれた際には、関東を領していた滝川一益の下にいたことが確認され、慶次の前半生は不明な点が多い。
その後は前田利家の下に戻り、1587年に養父の利久が亡くなると、その領地を慶次の嫡男が継いだ。
小牧・長久手の戦い、小田原征伐にも参戦したが、1590年頃、前田利家と仲違いし、一族を残し単身で出奔した。
しばらくは京都で古田織部(ふるた・おりべ)、細川幽斎(ほそかわ・ゆうさい)、里村紹巴(さとむら・じょうは)ら文人と親しみ、連歌会を催すなどしたが、1598年頃から上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)に仕えるようになった。
1600年、関ヶ原の戦いに際し、上杉景勝は西軍に味方し、東軍についた最上義光(もがみ・よしあき)を攻めた。
しかし長谷堂城にこもった最上軍は小勢ながらよく耐え忍び、伊達政宗の援軍が駆けつけると上杉軍は撤退した。
激しい追撃を受けたが、慶次や直江兼続の奮闘で退け、無事に撤退したものの、関ヶ原で西軍は敗れ、上杉家は会津120万石から米沢30万石への大減封を命じられた。
慶次も米沢に移り隠棲し、直江兼続とともに『史記』に注釈を入れたり、和歌や連歌を楽しみ悠々自適の余生を送った。
兼続が所有した『史記』は現在も残り国宝に指定されているが、それに慶次の手が入っているかは定かではない。
また伏見から米沢への道中を日記に記しており、道すがらに多くの歌や詩、各地の伝承に個人的な見解を加え、高い教養を持っていたことがうかがえる。
生没年にも諸説あるが、加賀藩の史料によると1605年に73歳で死去した。晩年も傾奇者らしい奇行やいたずら癖は収まらなかったという。
真偽は不明だが、前田利家や豊臣秀吉を相手取り、多くの大胆不敵な逸話を残しており、その多くは『花の慶次』に描かれているため、あえてこの項では採り上げないことにする。