三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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※アイコンは辛憲英
孝蔵主(こうぞうす)
近江の人(??~1626)
豊臣秀吉の正室ねねの筆頭上臈を務めた女性。
孝蔵主は上臈としての雅名であり本名は不明。また生涯未婚だったとされる。
六角家の家臣、蒲生家に仕えた川副勝重(かわぞえ・かつしげ)の娘と伝えられる。
前半生は不明だが秀吉が関白になった頃にはすでに奥向きのことを取り仕切っており、1590年の伊達政宗に対する叛意の有無を問う詰問、1597年に慶長の役で秀吉の逆鱗に触れ移封となった小早川秀秋(こばやかわ・ひであき)の事務処理、謀叛の疑いを掛けられた豊臣秀次(ひでつぐ)への出頭要請などは全て孝蔵主が担当したものである。
その権勢は絶大で秀吉には「表のことは浅野長政(あさの・ながまさ)が、奥のことは孝蔵主が」とまで呼ばれた。
1598年、秀吉が没すると出家した高台院(こうだいいん ねね)に従い、各地の講和交渉や豊臣家と徳川家との折衝役などを務めた。
しかし1610年、突如として高台院のもとを離れ、徳川秀忠に仕えた。
その理由は戦国史上でも大きな謎の一つに数えられ、単純に衰退する豊臣家を見限ったとする説や、
豊臣家を牛耳る淀殿(よど)に内通を疑われ逃亡した。
孝蔵主は石田三成の縁戚にあたるが、高台院が三成と敵対した武断派と親しくし出したのに不満を抱いた。
徳川秀忠が秀吉の人質時代に、高台院や孝蔵主の世話になったため恩返しとして身柄を引き取った。
など諸説あり決着していない。
しかし孝蔵主が秀忠から直々に禄を受けたのが、高台院の一周忌明けからであり、偶然でなければなんらかの事情で高台院が関わっているのは間違いないと思われる。
1626年に没すると、実子がなかったため特例として甥の川副重次(かわぞえ・しげつぐ)が養子となり所領を継いだ。
※アイコンは祝融
京極マリア(きょうごく・マリア)
近江の人(1542?~1618)
北近江の大名・浅井久政(あざい・ひさまさ)の次女。浅井長政の姉。
マリアは洗礼名で本名は不明。法名から養福院(ようふくいん)とも呼ばれる。
浅井家はもともと近江守護の京極高清(きょうごく・たかきよ)に仕えていたが、高清が次男の京極高吉(たかよし)に家督を継がせようとし、家中が混乱した隙をつき、長男の京極高延(たかのぶ)に加担し高清・高吉父子を追放し、実質的に京極家を牛耳った。
やがて高延とも対立した浅井家は代わって高清・高吉を当主として迎え入れた。その際に懐柔策としてマリアが高吉に嫁いだと思われる。
高吉は1504年生まれで年齢差は40近かったが1563年に長男の京極高次(たかつぐ)、1572年に次男の京極高知(たかとも)をもうけるなど5人の子に恵まれた。
高吉は傀儡の立場に嫌気が差して1560年頃に出奔し、六角家や足利家のもとで浅井家と戦ったが、マリアは離縁されず、またマリアも父や弟を敵に回しながら夫のそばを離れなかった。
やがて六角家が織田信長に敗れ、足利家も信長の庇護下に入ると、高吉は長男の高次を信長の人質に出し隠居した。
1581年、マリアとともに洗礼を受けたがその直後に急死し、仏罰とささやかれたという。
1587年、豊臣秀吉はバテレン追放令を出したが、娘の京極竜子(たつこ)が秀吉の側室になっていたため目こぼしされ、竜子を除く4人の子にも洗礼を受けさせ、布教に励んだ。
1600年、関ヶ原の戦いで東軍に属し、丹後に12万石を与えられた次男の高知を頼った。
長男の高次もかつては妹の竜子や、正室に秀吉の側室・淀殿(よどどの)の妹・初(はつ)を迎えていたため彼女らの七光を受けた「蛍大名」と揶揄されていたが、関ヶ原の戦いで10倍の敵を足止めした戦功から隣国の若狭に9万石を与えられており、マリアは丹後と若狭を行き来しさらに信仰を深めたという。
知る人ぞ知る人物だったが「戦国BASARA 4」でプレイアブルキャラに抜擢され一気に知名度が上がるも、金髪でドSの女王様キャラに設定されたのは喜ぶべきことか否か。
※アイコンは張春華
稲姫(いな)
三河の人(1573~1620)
本多忠勝の長女(第一子)で、真田信之の正室。
稲姫は幼名で、夫の領地から小松殿(こまつ)の名でも知られる。
1586~1590年頃に信之に嫁いだと思われる。
父の忠勝が信之ら諸将の挨拶を受けた折、稲が平伏する彼らの髪をつかんで無理やり顔を上げさせたところ、信之が手を叩き無礼だと叱責した、という逸話が有名だがこれは創作である。
史実では織田信長亡き後の信濃の領土争いで、真田家と信之が目覚ましい活躍を見せたのに忠勝が惚れ込み、娘を嫁がせ味方陣営に取り込むことを徳川家康に提案した、という経緯だとされる。
1600年、関ヶ原の戦いに際し、真田家は信之が東軍に、信之の父の真田昌幸(さなだ・まさゆき)と弟の真田幸村が西軍につくこととなった。
昌幸は居城に帰る道すがら、稲が留守を預かる沼田城に立ち寄り「孫の顔が見たい」と申し入れた。
あわよくば城を占拠する目論見があったが、稲はそれを見抜くと昌幸の家臣の家族らを歓待と称して城に招き入れ人質にとった。
昌幸は「さすが本多忠勝の娘だ」と感嘆したという。
また昌幸が引き上げると、稲は護衛とともに後を追い、孫の顔だけは見せてやったとも伝わる。
1615年、大坂夏の陣に二人の息子が参戦し無事に帰った。
すると稲は(信之が言ったとする説もある)「実家の本多家では私の弟が戦死した。あなた達のうちどちらかが戦死すれば釣り合いが取れ、面目も保てたのに」と言い放ったという。
しかし一方で息子らを送り出す時には、随行する家臣団に金を渡しくれぐれも息子を頼むと言ったとも伝わる。
二人の男子をはじめ多くの子を産んだが、当初はなかなか子宝に恵まれず、信之に新たに側室を取るよう勧めたとされる。
また書家としても著名な小野お通(おの・おつう)と信之が密通していることも承知していたらしく、没する直前に「そろそろ京の人(お通)を迎えたらどうですか」と言うなど、夫婦仲は生涯にわたり良好だった。
稲の没後、信之は「我が家から光が消えた」と大いに落胆し、新たに正室を立てることはなかったという。
※アイコンは馬良
柳生利厳(やぎゅう・としよし)
大和の人(1579~1650)
柳生石舟斎(せきしゅうさい)の長男・柳生厳勝(よしかつ)の次男。妻は島左近の娘。
父は戦場で受けた銃創がもとで歩行障害を起こし隠居していたため、幼少の頃から祖父に新陰流を学んだ。
石舟斎からは並々ならぬ期待を寄せられ、没落した柳生家を再興させるため叔父の柳生宗矩(むねのり)は関ヶ原の戦いなど各地の戦に参加しては手柄を求めるなか、利厳は修行に専念させられた。
1603年、25歳の時に加藤清正から仕官の誘いを受けた。
再三にわたる要請を断り切れず、石舟斎は利厳の短気な性格を案じ「しくじりは三度まで死罪を免じる」条件で熊本藩へ出仕させた。
しかし領内で一揆が起こり、鎮圧に手間取る伊藤光兼(いとう・みつかね)の後任として派遣されると、利厳は総攻撃を主張し、慎重論を唱える光兼と衝突した。
業を煮やした利厳は光兼を斬り捨てるとそのまま攻撃に向かい、一揆の首謀者20名を瞬く間に討ち取り鎮圧し、清正に事の顛末を報告するとその足で熊本を去った。仕官から1年経っていなかった。
その後は故郷に帰った、武者修業の旅に出た、福島正則に誘われたが清正の恩を盾に断った、など諸説あり、1604年に石舟斎から大太刀と印可状2通(石舟斎の物と、その師である上泉信綱(こういずみ・のぶつな)の物)を譲られた。
1606年、石舟斎が没すると父の厳勝が跡を継ぎ、それまで厳勝が治めていた領地を譲り受けたため、その収入をもとに旅を続けたとも、徳川家に仕官した宗矩の下にいたともされる。
1615年、成瀬正成(なるせ・まさなり)に徳川家康の九男・徳川義直(よしなお)の兵法師範として推挙された。
家康に招聘された利厳は、叔父の宗矩を引き合いに出し「叔父のような御奉公は一切御免蒙る」と率直に要求し、家康は兵法の師範だけすることを認めた。
利厳は義直に持てる奥義の全てを伝授し、5年後には新陰流の印可状と祖父に与えられた大太刀、2通の印可状、さらに別の兵法家から受けた長刀と槍の印可をそろって譲り渡した。
また後に新陰流の後継者となる三男の柳生連也斎(れんやさい)が印可を受ける際には、義直から相伝されるよう命じたという。
1648年に隠居し、家督は次男の柳生利方(としかた)が、兵法師範は連也斎が継いだ。
ちなみに長男の柳生清厳(きよよし)は父にも劣らぬ兵法家とうたわれたが若くして死病を得てしまい、1638年、島原の乱に死に場所を求めて単身で参戦し壮絶な討ち死にを遂げている。
2年後に利厳は72歳で没した。
後年、新陰流は石舟斎、利厳を経て連也斎で完成したと言われたという。
※アイコンは師簒
丸目長恵(まるめ・ながよし)
肥後の人(1540~1629)
相良家に仕えた兵法家。
剣聖・上泉信綱(こういずみ・のぶつな)の弟子で四天王にも数えられ、タイ捨流の開祖。
剣術のみならず馬術から忍術、書や和歌にも通じた。
講談等では丸目蔵人(くらんど)の通称でも著名。
もとは山本姓だったが1555年、父とともに島津軍と戦った功で丸目姓を与えられた。
はじめは肥後の兵法家に学んだがそれに満足せず1558年、上洛し新陰流の上泉信綱に師事した。
将軍・足利義輝(あしかが・よしてる)や正親町天皇の前で信綱が兵法を披露した際、その相手を務めた記録が残っている。
肥後に戻った長恵は相良家の新陰流指南役となり、多くの弟子を得た。
1566年、弟子を引き連れ再び上洛したが、折悪しく信綱は上野に帰国中で会えず、各地をめぐり「兵法天下一」の高札を掲げ真剣勝負を求めた。
しかし新陰流の名を恐れてか挑む者は現れず、肥後に帰った。信綱はその話を聞き、長恵に印可状(免許皆伝)を与えた。
1569年、相良家に戻った長恵は島津家久(しまづ・いえひさ)の策にかかり、大敗を喫した。
主君の相良義陽(さがら・よしひ)は激怒し逼塞の処罰を与えた。
武士として立身出世の道を半ば閉ざされた長恵は兵法修行に専念し、九州一円の兵法家に勝負を挑んだ。信綱は長恵の活躍を聞き西国での新陰流の普及を一任したという。
長恵は信綱が新たな奥義を編み出したと聞き三度上洛したが、すでに信綱は没していた。
落胆しながらも長恵はさらなる研鑽を重ね、数年後にタイ捨流を開いたとされる。
1587年、豊臣秀吉に降っていた相良家はすでに義陽も亡く、長恵の帰参を許し剣術指南役として迎えた。
タイ捨流は九州一円に広まり、立花宗茂ら大名も門下に名を連ねた。
晩年の長恵は出家し農業に従事しながら隠居生活を送り、1629年に90歳で没した。
※アイコンは張雷公
塙直之(ばん・なおゆき)
出身地不明(1567~1615)
軍記物や講談により塙団右衛門(だんえもん)の通称で著名。
出自は不明で、尾張に生まれ織田信長の重臣の塙直政(ばん・なおまさ)の一族とする説。
遠江の浪人・須田次郎左衛門(すだ・じろうざえもん)であるという説。
上総に生まれはじめ千葉家に、後に北条家に仕えたとする説など諸説あり定かではない。
前半生もやはり不明で、信長に仕えるも酒に酔うと暴れる悪癖で人を殺してしまい、追放され諸国をめぐった説。
北条綱成(ほうじょう・つなしげ)に仕えるも、主家の滅亡後に浪人した説。
小早川隆景の家臣に仕えるも結局は浪人した説。
諸説あるが1592年、文禄の役の頃に加藤嘉明(かとう・よしあき)に召し抱えられたという結末で一致する。
嘉明は出陣に際し四尺半の巨大な青地の絹に日の丸を染め抜いた旗を用意し、団右衛門はそれを背負って活躍したという。
だが1600年、関ヶ原の戦いで鉄砲大将を任された直之は、手柄を立てたものの抜け駆けを働いたため、規律を重んじる嘉明は激怒し、大将の器ではないと叱責した。
直之もそれに怒ると「小さな水に留まることなく、カモメは天高く飛ぶ」という意味の漢詩を置き手紙に出奔した。
嘉明はさらに怒りを増し、奉公構を出し他家への仕官を阻んだ。
小早川秀秋(こばやかわ・ひであき)や松平忠吉(まつだいら・ただよし)は嘉明より高位にあったため、奉公構を気にせず召し抱えたものの、いずれも早逝してしまい再び浪人となった。
次いで福島正則に迎えられたが、かつてともに「賤ヶ岳七本槍」と称された嘉明は正則と同格のため、直接抗議し罷免させた。
仕官の道を閉ざされた直之は出家すると鉄牛(てつぎゅう)を名乗ったが、武士への未練は残り、托鉢の時でさえ帯刀していたため檀家からの支持を得られなかった。
1614年、大坂冬の陣が始まると、直之は再起を志し還俗した。
まずは徳川家に仕官しようとしたが、小勢で不利な豊臣家に仕えたほうが出世の道が拓けると思い直し、大坂城に入った。
夜襲で武功を立て、翌年の夏の陣でも先陣を切って紀伊に攻め込んだ。
だが岡部則綱(おかべ・のりつな)と手柄を争ううちに突出しすぎて孤立し、浅野長晟(あさの・ながあきら)軍に包囲され戦死した。
岡部則綱は逃げ延びたが、直之を見殺しにしたと非難され、大坂城が落ちると改名し隠棲したという。
直之の豪傑らしい生涯は講談などで人気を博し、後には酒を飲みながら戦い、酔えば酔うほど強くなると脚色された。
※アイコンは成済
東郷重位(とうごう・しげかた)
薩摩の人(1561~1643)
島津家に仕え、示現流を開いた兵法家。
名の重位の読みは示現流の口伝では「ちゅうい」とされる。
瀬戸口家に生まれ、後に縁戚の東郷家から改姓を許された。
若い頃は肥後の兵法家・丸目長恵(まるめ・ながよし)の開いたタイ捨流を学んだ。
島津家に仕えて武功を立て、1587年に島津家が豊臣秀吉に降伏すると、主君の島津義久(しまづ・よしひさ)に従い上洛した。
金細工の修行が目当てだったとされるが、天寧寺の僧・善吉(ぜんきち)に出会い、彼が奥義を受け継いだ天真正自顕流を学び、修行の末に帰国すると、天真正自顕流とタイ捨流を組み合わせ独自の剣術を編み出した。
家中に多数の門弟を抱えるようになり、やがて島津忠恒(ただつね)のもとにも名声が届くと、1604年にタイ捨流の師範と御前試合を命じられた。重位が勝利を収めると、お抱えの師範を破られた忠恒は激昂し重位に斬りかかったが、とっさに扇子で忠恒の手を打ち、刀を叩き落としたため感嘆され、島津家の兵法師範に任じられたという。
その後、島津家が帰依する僧侶・南浦文之(なんぽ・ぶんし)によって重位の剣術は示現流と命名された。
礼儀正しく穏やかな人格者であった重位は家中でも重んじられるようになり、島津家の家老から内密に相談を受けることも多々あった。
後に薩摩藩密貿易の拠点ともいわれた坊泊郷の地頭を任されたという逸話も、彼の口の堅さと島津家からの信頼を感じさせる。
1643年、83歳で没した。
示現流の特徴を表す「二の太刀いらず」は現代でも著名で、技の一つ「一二の太刀」は警視庁の剣道で採用されている。
ただし示現流の掛け声として有名な「チェスト」は実際には「エイ」であり、分派の薬丸自顕流の方がより掛け声は激しいという。
※アイコンは左髭丈八
薄田兼相(すすきだ・かねすけ)
出身地不明(??~1615)
豊臣家に仕えた猛将。兼相流柔術や無手流剣術の開祖とされる。
前半生はほとんど不明で、1611年頃から家臣団に名前が見える。
1614年、大坂冬の陣で浪人衆を指揮したが、遊郭に通っている隙に砦を落とされ、味方から「橙武者」とあざけられた。(橙は酸味が強く食用に向かず、正月飾りにしか使えないことから、見栄えばかりの見掛け倒しという意味)
なお大野道犬(おおの・どうけん)の名で著名な大野治胤(はるたね)も同時期に大敗し水軍を失ったことから、兼相と二人合わせて橙武者と呼ばれている。
翌年、大坂夏の陣でも霧によって到着が遅れ、後藤又兵衛(ごとう・またべえ)を見殺しにしてしまい、責任を感じた兼相は自ら陣頭に立って敗軍を指揮し多くの敵将の首を挙げたが、衆寡敵せずに討ち取られた。
~豪傑・岩見重太郎~
兼相の前身は、日本各地に伝承を残す流浪の豪傑・岩見重太郎(いわみ・じゅうたろう)だとする説が広く知られている。
それによると重太郎の父は小早川隆景の剣術指南役を務めたが、広瀬軍蔵(ひろせ・ぐんぞう)によって暗殺された。
出奔した軍蔵を追い重太郎は諸国をめぐり、各地で山賊や、大蛇に巨大ヒヒといった化け物を退治する武勇伝を残し、ついに1590年、天橋立で軍蔵を討ち果たしたという。
※アイコンは強端
小野忠明(おの・ただあき)
安房の人(1569~1628)
徳川将軍家の指南役も務めた剣豪。初名の御子上典膳(みこがみ・てんぜん)でも著名。(姓は神子上とも書かれる)
はじめ安房の大名・里見家に仕えたが、出奔し戦国最強の呼び声も高い剣豪・伊藤一刀斎(いとう・いっとうさい)に師事した。
兄弟子の善鬼(ぜんき)を破り一刀流の奥義を継承したと伝わる。
1593年、一刀斎の推薦で徳川家康に仕えた。徳川秀忠のもとに付けられ、柳生宗矩(やぎゅう・むねのり)の新陰流とともに徳川家の剣術指南役となり、この頃に御子上典膳から小野忠明に改名した。
なお小野は母方の姓で、忠明は秀忠から一字もらい受けたともいう。
忠明は小野一刀流の開祖とされることが多々あるが、本人はそれを称しておらず、子の小野忠常(ただつね)が小野派一刀流を、弟の伊藤忠也(ただなり)が忠也派一刀流をそれぞれ称したものである。
1600年、関ヶ原の戦いでは秀忠に従い、上田城を攻め「上田七本槍」と呼ばれる活躍を見せたものの、同時に軍令違反を犯したため真田信之のもとで蟄居を命じられたが、後に秀忠の兄・結城秀康(ゆうき・ひでやす)の仲介により帰参を許された。
1614年の大坂の陣にも参戦したが、忠明は生来の傲岸不遜な性格で常に諍いを起こしており、一説には他藩の家臣と手合わせした際、相手の両腕を再起不能になるまで打ち砕いたため、秀忠の怒りを買い閉門処分を受けたという。
1628年、60歳で没した。
小野派、忠也派それぞれの一刀流は分派を興しながら現代にまで受け継がれている。
中でも小野派から生まれた山岡鉄舟の「一刀正伝無刀流」、後に千葉周作がさらにアレンジし「北辰一刀流」を生んだ「中西派一刀流」が著名である。
※アイコンは紫虚上人
吉岡長増(よしおか・ながます)
豊後の人(??~1573?)
大友家三代に仕えた重臣。
吉岡家は豊後の大名・大友家の一族で、長増は前半生や生没年が不詳だが大友宗麟(おおとも・そうりん)の祖父から偏諱(長の字)を受けていることから、少なくとも祖父の存命中(1478~1518)に元服は済ませているものと考えられる。
史料に現れるのは1532年の大内家との戦いの頃からで、長増は加判衆(大友家の重臣団)に名を連ね、後陣の大将を務めるなどすでに重臣の地位にあった。
しかし1534年、宗麟の父である大友義鑑(よしあき)と反目したのか加判衆を解任され、その後は宗麟が家督を継ぐまで事績は途絶えてしまう。
1550年、宗麟の代になると義鑑の遺言により家老に復帰し臼杵鑑速(うすき・あきはや)、吉弘鑑理(よしひろ・あきまさ)とともに「大友家三老」と呼ばれた。
長増は大友家の主要な戦のほとんどに参戦する他、豊前・筑前・肥前3ヶ国の政務を取り仕切り、日向の国人衆の調略も担当する八面六臂の活躍を見せた。
1566年のものと思われる書状では戸次鑑連(べっき・あきつら 後の立花道雪)、臼杵鑑速、吉弘鑑理ら名だたる重臣が連名で長増の意見を求めており、信頼の厚さがうかがえる。
1557年、毛利元就が北九州に侵攻すると、長増は対毛利の総司令官となった。
大内家を滅ぼし勢いに乗る毛利軍に当初から苦しめられ、1569年には筑前の大半を奪われた。
しかし長増は、まず謀叛を疑われ伊予に亡命していた佐伯惟教(さえき・これのり)を帰参させ水軍を立て直し、毛利軍の主力が筑前に集結しているのを見て取ると、かつて毛利家に滅ぼされた尼子家の旧臣・山中鹿之助(やまなか・しかのすけ)を支援し後方で蜂起させた。
さらに毛利家に協力し海上を封鎖する能島村上家に、筑前方面の通行税を取る許可を与え、水軍の通過を黙認させると、大内家の生き残りである大内輝弘(おおうち・てるひろ)を旧領の周防に送り込んだ。
長増は豊前小倉城を攻める情報を毛利軍にわざとつかませ、吉川元春(きっかわ・もとはる)、小早川隆景ら主力を引き付けると、大内軍を周防で蜂起させた。
村上水軍の海上封鎖もあり、襲われるはずもなく手薄になっていた周防の諸城は次々と大内軍に落とされ、泡を食った毛利元就は北九州からの撤退を命じ、大友家は窮地を脱した。
1573年頃、70代なかばから80代前半で没したと推測される。
1578年、耳川の戦いで大友家が島津家に大敗すると、家老の吉弘鎮信(よしひろ・しげのぶ)は「吉岡長増、臼杵鑑速がいた頃は信賞必罰が行われ人の恨みはなかった。今は田原親賢(たわら・ちかかた)のような佞臣がはびこり代々の家臣が遠ざけられている。せめて立花道雪(たちばな・どうせつ)がいれば(道雪は中央を離れ筑前方面の司令官を任されていた)大友家はここまで悪くならなかっただろう」と嘆いた。
またその道雪も「吉岡長増、臼杵鑑速の死後、大友の政治は無道でしかない」と記している。
耳川の戦いで長増の息子も戦死し、吉岡家は大友家の滅亡と運命をともにしたが、子孫は肥後藩主となった細川家に仕え幕末まで存続している。