三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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塙直之(ばん・なおゆき)
出身地不明(1567~1615)
軍記物や講談により塙団右衛門(だんえもん)の通称で著名。
出自は不明で、尾張に生まれ織田信長の重臣の塙直政(ばん・なおまさ)の一族とする説。
遠江の浪人・須田次郎左衛門(すだ・じろうざえもん)であるという説。
上総に生まれはじめ千葉家に、後に北条家に仕えたとする説など諸説あり定かではない。
前半生もやはり不明で、信長に仕えるも酒に酔うと暴れる悪癖で人を殺してしまい、追放され諸国をめぐった説。
北条綱成(ほうじょう・つなしげ)に仕えるも、主家の滅亡後に浪人した説。
小早川隆景の家臣に仕えるも結局は浪人した説。
諸説あるが1592年、文禄の役の頃に加藤嘉明(かとう・よしあき)に召し抱えられたという結末で一致する。
嘉明は出陣に際し四尺半の巨大な青地の絹に日の丸を染め抜いた旗を用意し、団右衛門はそれを背負って活躍したという。
だが1600年、関ヶ原の戦いで鉄砲大将を任された直之は、手柄を立てたものの抜け駆けを働いたため、規律を重んじる嘉明は激怒し、大将の器ではないと叱責した。
直之もそれに怒ると「小さな水に留まることなく、カモメは天高く飛ぶ」という意味の漢詩を置き手紙に出奔した。
嘉明はさらに怒りを増し、奉公構を出し他家への仕官を阻んだ。
小早川秀秋(こばやかわ・ひであき)や松平忠吉(まつだいら・ただよし)は嘉明より高位にあったため、奉公構を気にせず召し抱えたものの、いずれも早逝してしまい再び浪人となった。
次いで福島正則に迎えられたが、かつてともに「賤ヶ岳七本槍」と称された嘉明は正則と同格のため、直接抗議し罷免させた。
仕官の道を閉ざされた直之は出家すると鉄牛(てつぎゅう)を名乗ったが、武士への未練は残り、托鉢の時でさえ帯刀していたため檀家からの支持を得られなかった。
1614年、大坂冬の陣が始まると、直之は再起を志し還俗した。
まずは徳川家に仕官しようとしたが、小勢で不利な豊臣家に仕えたほうが出世の道が拓けると思い直し、大坂城に入った。
夜襲で武功を立て、翌年の夏の陣でも先陣を切って紀伊に攻め込んだ。
だが岡部則綱(おかべ・のりつな)と手柄を争ううちに突出しすぎて孤立し、浅野長晟(あさの・ながあきら)軍に包囲され戦死した。
岡部則綱は逃げ延びたが、直之を見殺しにしたと非難され、大坂城が落ちると改名し隠棲したという。
直之の豪傑らしい生涯は講談などで人気を博し、後には酒を飲みながら戦い、酔えば酔うほど強くなると脚色された。