三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
後継者となる前は蹴鞠と酒色におぼれ、たびたび父から注意を受けていた。だが当主になることを自覚してからは心を入れ替え、父とともに朝鮮出兵で軍功を立てた。
1599年、いち早く秀吉、家康に取り入り権勢を強めていた筆頭家老の伊集院忠棟(いじゅういん・ただむね)を暗殺した。
忠棟の子・伊集院忠真(いじゅういん・ただざね)は一時反乱を起こし、和解後も不穏な動きを見せていたため、1600年の関ヶ原の戦いに際し、島津家は伊集院家を警戒し(また西軍につくか東軍につくかで義弘と義久の意見が分かれてもいた)義弘の率いるわずか800の兵しか送れなかった。
その後、伊集院忠真(忠恒の妹婿でもある)は忠恒によって暗殺された。遺された姪(忠真の娘)はさすがに不憫に思ったのか、自身の養女とし、家康の甥に嫁がせた。
関ヶ原後、父は西軍についたものの、兵力の大半は国許に温存しており、当主の島津義久は家康に恭順の姿勢を見せたため、本領安堵となった。
同年に家督を継いだが、1619年頃まで父が実権を握っていた。しかしこの間にも琉球の占領、明との密貿易、鹿児島城の築城など国力の増強を主導し、また妻子を江戸に送り参勤交代の先駆けとなるなど、幕府内の地位も向上させた。
一方で個人としては妻(義久の娘)との間に子供ができなかったため、徳川秀忠(とくがわ・ひでただ)の子を養子に取ろうとして後継者問題を起こし、対立した義久の家老を暗殺したり(数年後に家老の一族も皆殺しにした)、義久が江戸に赴いた隙をつき幕府から妻の離縁の許可を得たり、義久が没するとすかさず妻を別居させ、8人の側室を囲うとまるで当てつけのように25年間で33人もの子をもうけ(ちなみに子供は分家の当主に据えたり重臣の養子や妻に押し付けたりとうまく活用している)、妻が亡くなるとその女中に「妻が亡くなり悲しい。袖が涙で濡れてしまうかと言われればそれほどではないが(意訳)」という短歌をわざわざ送りつけ、妻の墓も建てない(なお現在は建てられているが島津家当主の墓の中で忠恒夫妻の墓だけが並んでいない)など鬼畜の所業が目立った。
そのためネット上では知将として名高い同名の叔父を引き合いに「悪い方の家久」「島津悪久」の呼称が定着している。
しかし大坂の陣での真田幸村の奮闘を称賛し著名な「真田日本一の兵」の評を残したり、雨の中さらされた長宗我部盛親(ちょうそかべ・もりちか)に自分がずぶ濡れになるのもいとわず笠を与えるなど、武士に対しては礼をわきまえていたようではある。
1638年、64歳で没した。酷薄な人柄だったが殉死者も9名出ている。
1559年、上洛した長尾景虎(後の上杉謙信)と意気投合し、関白でありながら謙信を助けるため越後へ向かい、上杉軍が南下すると上野・下総へまで従い、謙信が帰国しても危険を顧みず、単身で関東に残り情報収集に努めた。ちなみにその際には用いていた花押を公家様式から武家様式に改めており、前久の覚悟の程が見て取れる。
しかし1562年、武田・北条に二方面から攻められた謙信は苦戦し、行き詰まりを感じた前久は、謙信の説得を振り切り京へ帰国した。
謙信は前久の心変わりに激怒したというが、謙信の再度の上洛の準備をするための帰国という説もある。
1565年、将軍・足利義輝(あしかが・よしてる)を暗殺した松永久秀や三好三人衆は、前久に庇護を求めた。
久秀らが前久の姉で足利義輝の妻を保護していた(人質にしていた?)ため、前久は久秀らの推す足利義栄(あしかが・よしひで)の将軍就任を認めた。
だが1568年、織田信長の助力を得て京に戻った足利義昭(あしかが・よしあき)は前関白の二条晴良(にじょう・はるよし)とともに、前久が兄・義輝の暗殺に関わっていたと疑い、朝廷から追放した。
前久は丹波の赤井直正(あかい・なおまさ)、次いで石山本願寺を頼った。この際、教如(きょうにょ 本願寺光寿)を猶子にしたり、三好三人衆の依頼を受け、石山本願寺も信長包囲網に加わるよう促したが、前久自身は信長に敵意は無く、包囲網に協力する足利義昭を信長に排除させることが目的であった。
そのため1573年、信長が足利義昭を追放し二条晴良も失脚すると、前久は再び赤井直正のもとに戻り、信長の許しを得て京に帰った。
以降は信長と親交を深めた。特に共通の趣味である鷹狩りでは、互いの成果を競い合ったという。
外交面では信長の指示を受けて九州の諸大名に和睦を結ばせたり、石山本願寺への降伏勧告を行った。10年以上にわたり頭を悩ませた石山本願寺を開城させ、法主の顕如(けんにょ 本願寺光佐)を退去させたことを信長は大いに喜び、天下平定の暁には近衛家に一国を与える約束までした。
だが1582年、武田家の征伐にあたって前久は信長に随行したが、同年に信長は本能寺で明智光秀に討たれた。
その際に明智軍が前久邸の屋根から信長軍を銃撃したため、またも暗殺への関与を疑われた前久は、徳川家康を頼り遠江に落ち延びた。
失意の前久は出家し、晩年は住職すらいない廃寺に隠棲し1612年、77歳で没した。
1500年、京極政経がお家騒動に敗れて経久のもとへ落ち延びてくると関係は修復され、守護代にも返り咲いた。
1508年に政経が亡くなるとその息子の後見を任されたが、ほどなくして息子が行方不明となり、経久が実質的に出雲を治めるようになった。
経久は中国地方に大勢力を築く大内家に接近する一方で、隣国の大名とも積極的に交流し、ある時は大内家と戦い、またある時は大内家を救援した。
1521年からは石見や安芸、さらには伯耆や備後へも侵攻する。
安芸の大内家の拠点を毛利元就に攻め落とさせ、伯耆には自ら兵を率いて守護の山名澄之(やまな・すみゆき)を敗走させた。
だが同年、安芸武田家が大内家に敗北し、毛利家も大内家に鞍替え、次いで山名家も反尼子に加わると形勢は逆転し、経久も大内家の陶興房(すえ・おきふさ 陶晴賢の父)に敗れて備後の支配権を失った。
さらに石見の支配も崩れると経久の三男・塩冶興久(えんや・おきひさ)が反旗を翻した。塩冶興久は多くの国人衆や隣国の大名を味方につけていたが、肝心の大内家は消極的ながら経久への支持を表明。1534年には鎮圧され、興久は自害した。
1537年、経久は家督を孫の尼子晴久(あまご・はるひさ)に譲る。
大内家は九州へ勢力を伸ばし大友家と交戦していたため、経久はその隙に尼子晴久を東へ進撃させた。
播磨守護の赤松政祐(あかまつ・まさすけ)を破り美作、備前へと侵攻。尼子晴久は上洛の機会をうかがったが、大友家が大内家と和睦してしまい、大内軍が攻め込んできたためやむなく撤退した。
これにより大内家との交渉は完全に決裂し1540年、尼子晴久は大内方の毛利家を討つため3万の連合軍を催した。
しかし大内家の陶晴賢(すえ・はるかた)率いる2万の軍に敗れ、安芸の基盤を失った。
翌年、経久が死去。享年84歳。
謀略や巧みな外交戦術で勢力拡大し、最大で11ヶ国にまで支配域を広げ、尼子家を中国地方屈指の大名に育て上げ、最盛期を築いた。
下克上や謀将の代名詞とされるが、性格はきわめて家臣思いかつ無私無欲の人で、家臣が経久の私物を褒めると喜んですぐに与えてしまうため、遠慮した家臣はなかなか褒められなくなった。
ある人が庭の松の木ならば大丈夫だろうと褒めると、経久は松の木を掘り返して与えようとした。必死に断ったが結局、薪にして与えてしまった。
また着ている物も構わず与えてしまうため、経久自身は冬でも薄衣一枚で過ごしていたという。
1588年、九州征伐でも功を上げ、南肥後に20万石を与えられる。これは朝鮮出兵を見据え、水軍を統率する行長に準備をさせる狙いもあったという。
領地の天草は人口の2/3にあたる2万3千人がキリシタンであり、行長はそれを厚く保護した。
だがこれ以降、隣り合う北肥後を与えられた加藤清正(かとう・きよまさ)との確執が深まっていく。
1592年からの文禄の役では行長が先鋒、加藤清正が二番手となった。行長は快進撃を続け釜山、漢城、平壌と要害を次々と攻略した。
しかし兵糧不足に悩み、また明の大軍の到来を恐れ、裏では和睦交渉を続けており、翌年に明軍に平壌を奪回されると、明の担当者の沈惟敬(しんいけい)と共謀し、明には秀吉が降伏すると、秀吉には明が降伏すると偽り強引に和睦を取り付けた。
明の使者は秀吉を日本国王に封じる書状と金印を携えて来日したが、行長は書状を読み上げる西笑承兌(さいしょう・じょうたい)に内容をごまかすよう依頼した。
しかし承兌は内容を正しく伝えたため、激怒した秀吉は和睦を破棄し、独断専行の行長に死を命じた。
その場は承兌や前田利家、淀君の取り成しで収まったものの、1597年、慶長の役で行長は報いとして軍功を立てるよう厳命されて海を渡った。(ちなみに沈惟敬は明帝の怒りを買い公開処刑された)
行長は奮戦したが、秀吉の急死により明との和睦が決まり、円滑に和睦をまとめ帰国の途についた。
1600年、関ヶ原の戦いに際し行長は西軍についた。それまで徳川家康への取次役を務めており、東軍に参戦すると見られていたが、文禄・慶長の役でも事あるごとに対立していた加藤清正が東軍についたため、それに敵対したと思われる。
本戦では主力として積極的に攻め、田中吉政(たなか・よしまさ)、筒井定次(つつい・さだつぐ)らと激戦を繰り広げたが、小早川秀秋(こばやかわ・ひであき)の寝返りによって戦線崩壊すると撤退を余儀なくされた。
山に逃れた行長は関ヶ原の庄屋にかくまわれたが、逃げ切れないと悟ると自らを捕縛し、褒美をもらうように勧めた。
判断に迷った庄屋は竹中重門(たけなか・しげかど 関ヶ原の領主)の家臣に相談し、行長を護衛するように家康のもとへ連れて行った。
同年10月1日、行長は同じく捕縛された石田三成、安国寺恵瓊(あんこくじ・えけい)らとともに斬首された。
キリシタンの行長は経文を拒否し、ポルトガル王妃から贈られたキリストとマリアの肖像を3度頭上に戴いた後、首を打たれた。
その死はローマ教皇にも惜しまれたという。
1576年、流浪の末に羽柴秀吉の弟・羽柴秀長(はしば・ひでなが)に仕える。ようやく仕えるべき主君にめぐり会えた高虎は鉄砲大将を任され、賤ヶ岳の戦いでは銃撃で猛将・佐久間盛政(さくま・もりまさ)を敗走させ勝利のきっかけを作った。
1585年の紀州征伐では山本主膳(やまもと・しゅぜん)を討ち取り、鈴木佐太夫(すずき・さだゆう)を謀略で自害させた。この頃から築城も任され、後に築城の名手として加藤清正と並び称される。
翌年、秀吉から徳川家康の屋敷の設計を命じられると、警備上の不備があるとして自腹を切り独断で設計を変更した。家康に設計図と異なることを尋ねられると「天下の武将である徳川様に不慮があれば秀吉の面目に関わると考え、一存で変更しました。ご不満でしたらお手討ちください」と応じたため、家康は心遣いに感激した。
1587年の九州征伐では歌に残されるほどの厳格な処罰で臨み、ますます信任を深めたが1591年、主君の秀長が没してしまう。
跡を継いだ甥の豊臣秀保(とよとみ・ひでやす)に引き続き仕えるも、4年後に秀保も病没。高虎は出家して高野山に隠退したが、才を惜しんだ秀吉は生駒親正(いこま・ちかまさ)を派遣し伊予7万石への加増で復帰させた。
1597年からの慶長の役では水軍を率い、朝鮮水軍を壊滅した。一方で加藤嘉明(かとう・よしあき)と先陣を争いたびたび対立し犬猿の仲となった。
だが後年、徳川秀忠(とくがわ・ひでただ)から東北勢への睨みを利かせるため会津への転封(石高は倍増となる)を持ちかけられると、老齢のため固辞し、代わりに加藤嘉明を推挙した。嘉明との確執を知っていた秀忠がいぶかると、「国家の大事の前には私事など無用」と答え、それを伝え聞いた嘉明は高虎と和解した。
1598年、秀吉が没すると高虎は親交のあった家康にいち早く接近した。
翌年の関ヶ原の戦いでは脇坂安治(わきさか・やすはる)、小川祐忠(おがわ・すけただ)、朽木元綱(くつき・もとつな)、赤座直保(あかざ・なおやす)ら四大名を寝返らせ、自らも主力の一角として大谷吉継(おおたに・よしつぐ)と死闘を演じ、戦後には20万石に加増された。
家康には絶大な信頼を受け、先鋒は譜代は井伊家、外様は藤堂家と定められ、譜代大名と同格の扱いを受けた。
ある時、高虎は自分の死後に殉死するつもりの家臣に名乗り出るよう命じると、70人が手を上げた。高虎は70人の名を家康に告げ「藤堂家はもちろん徳川家のために命を惜しまない彼らの殉死を上意で止めて欲しい」と頼み、家康も了承した。
さらに高虎は嫡子が頼りないことから、自分の死後に領地を要衝の伊勢から別に移すよう願い出た。しかし家康は「お前の死後には殉死を止めた者達がいるだろう。そのような忠臣が代々いれば安心だ」とかえって藤堂家は末代まで伊勢から動かさないよう命じたという。
1614年からの大坂の陣では長宗我部盛親(ちょうそかべ・もりちか)や毛利勝永(もうり・かつなが)ら主力と激突し、一族の将ら600人を超える死傷者を出した。
1616年、家康が臨終の床につくと高虎は側近くにはべることを許された。家康が「宗派が違うから死後には会えないな」と言うと、高虎は南光坊天海(なんこうぼう・てんかい)に頼み即座に改宗した。
家康没後には築城の才を活かし日光東照宮の造営にも携わった。1620年、徳川秀忠の五女が入内する際に高虎は自ら志願して露払いを務め「入内できなければ御所で切腹する」と脅迫同然の手段で事を進めた。
1630年、75歳で死去。
主君を七度変えたことから奸臣として描かれることも多いが、そもそも戦国時代には主君を変えることは珍しくなく、江戸時代になり儒教が広まり一人の主君に仕える忠義の概念が取り入れられたのであり、また外様でありながら家康に深く信頼されたこと、幕末に藤堂家が早々と官軍に寝返ったことも悪影響を与えているだろう。
高虎はかつて仕えた浅井長政に拝領した刀を愛用し、津田信澄の死後にはその妻子を保護し、羽柴秀長の墓所を修繕したり、関ヶ原で戦った大谷吉継の墓も造っている。
また家臣が出て行く時にはいつでも帰ってくるよう言い、実際に出戻ってくるともとの禄のまま召抱えたという。
1582年、信長が本能寺で討たれるといったんは進軍するものの、戦わずに撤退。安土城と城下町に火を放ち焼き落とした。その理由は今もって不明で、ルイス・フロイスは「普通より知恵が劣っていたので、何ら理由も無く」火をつけたと評している。
光秀が羽柴秀吉に討たれた後、信意は清州会議で織田家の後継者の地位を望むが、秀吉は信忠の子・織田秀信(おだ・ひでのぶ)を、重臣の柴田勝家は織田信孝を推し、秀信が跡取りに、信孝が後見役と決まった。
蚊帳の外に置かれた信意はまだ未練があることを示すように織田姓に復し、織田信雄に改名した。(その前にいったん信勝と名乗っているが、これは信長と家督争いし敗死した叔父と同名である)
1583年、秀吉と信孝・柴田勝家の間で賤ヶ岳の戦いが起こると秀吉方に属し、勝家が敗死し孤立した信孝を降し、秀吉の命で切腹させた。
だが織田家を牛耳り始めた秀吉との関係も悪化すると、妹・徳姫(とく)が徳川家康の長男に嫁いでいた縁もあり、家康と同盟を結ぶ。
そして1584年、秀吉と内通した疑いで津川義冬(つがわ・よしふゆ)、岡田重孝(おかだ・しげたか)、浅井長時(あざい・ながとき)らを誅殺すると、徳川軍とともに秀吉へ決戦を挑んだ。
長久手の戦いで池田恒興(いけだ・つねおき)、森長可(もり・ながよし)を討ち取るも、背後で誅殺した三重臣の遺族が次々と造反し、九鬼嘉隆(くき・よしたか)ら重臣も秀吉に調略されると、家康に断りなく秀吉と和睦した。
これにより織田家を牛耳る逆賊の秀吉を討つという大義名分を失った家康も撤退を余儀なくされた。
以降は秀吉に臣従するが1590年、小田原征伐後の論功行賞で転封を拒否し秀吉の怒りを買い改易され、下野へ流罪となった。
信雄は出家して常真(じょうしん)と名乗り、出羽、伊予と流されるが、家康の仲介で(信雄の娘が次男の徳川秀忠(とくがわ・ひでただ)に嫁いでいた)赦免され、秀吉の御伽衆に加えられた。
自身は大和に1万8千石を、嫡男・織田秀雄(おだ・ひでかつ)には越前5万石を与えられたが1600年、関ヶ原の戦いで東西両軍のどちらにも与せずにいたところ、西軍との内通を疑われ親子そろって再び改易となった。
その後は豊臣家に仕え、家康との関係が悪化すると信雄はきたる決戦で豊臣方の総大将に目されたが1614年、大坂冬の陣の直前に徳川家へ鞍替えした。
豊臣家の滅亡後、大名に取り立てられていることから、実際には豊臣家の内部から家康へ情報を流していたと思われる。
その後、上野に5万石を与えられた信雄は風雅な庭園を造る一方で養蚕など産業育成に精を出し、やがて京で隠棲すると茶の湯や鷹狩りを楽しむ悠々自適の余生を送り、1630年に没した。
織田家中で失敗しては「信雄殿のなさることよ」と呆れ気味に陰口を叩かれ、暗愚とされているが、最終的には織田一族でも嫡流となり、信長の子の中で江戸時代に大名となったのは信雄だけであり、評価は二分されている。
1582年、信長が本能寺で討たれると、ほど近い堺にいたものの、混乱に乗じ一門衆の第5位で明智光秀の娘婿だった津田信澄(つだ・のぶすみ)に内通の嫌疑をかけて殺害しただけで、逃亡兵が相次ぎ身動きが取れなかった。
中国地方から羽柴秀吉が引き返してくるとそれに合流し、名目上の総大将として山崎の戦いに参戦し、明智光秀を討った。
戦後、織田家の後継者を決める清州会議では重臣の柴田勝家に推されたものの、秀吉の擁する信長の孫・織田秀信(おだ・ひでのぶ)が跡継ぎと決まり、信孝は幼い織田秀信の後見役として美濃を与えられた。
秀吉に対抗するため柴田勝家と信長の妹・お市の婚姻を仲介するなど奔走したが、同年12月、突如として秀吉に居城を囲まれた。
信孝は降伏し、秀信を引き渡したうえ、母を人質として差し出す屈辱を強いられた。
翌1583年、秀吉と柴田勝家が賤ヶ岳で激突すると、信孝も蜂起したが、秀吉方についた信雄の大軍に包囲され、敗れた勝家も自害するとやむなく降伏した。
信孝は自害を命じられ、尾張の野間で切腹した。
辞世の句は「昔より 主を討つ身の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前」と激しい怒りを表したもので(鎌倉時代に野間で源義朝が家臣に暗殺され、その家臣は源義朝の子に討たれた)さらに切った腹から腸をつかみ出すと目の前の掛け軸に叩きつけたという。
その後は甥の織田信雄(おだ・のぶかつ)に仕える。戦働きのほか、血統と旧縁を活かし織田家の旧臣である滝川一益(たきがわ・かずます)や佐々成政(さっさ・なりまさ)の降伏や、羽柴秀吉と徳川家康の和睦を仲介するなど外交面で活躍した。
1590年に信雄が改易されると秀吉の御伽衆となり、この頃に剃髪して有楽斎と称した。姪にあたる淀殿(よどどの)とも懇意だったが、秀吉の死後は家康に接近し、1600年の関ヶ原の戦いでは東軍に加わった。
わずか450の小勢ながら庶長子の織田長孝(おだ・ながたか)とともに奮戦し、長孝は戸田重政(とだ・しげまさ)父子を、有楽斎も蒲生頼郷(がもう・よりさと)を討ち取り大将首を2つ挙げる活躍で、戦後に有楽斎は大和3万2千石、長孝は美濃1万石を与えられた。
だがその後も大坂城に上がり淀殿を補佐した。大野治長(おおの・はるなが)らとともに穏健派として徳川家との折衝役を務めていたが1615年の大坂夏の陣を前に「誰も自分の下知を聞かず、もはや城内にいても無意味」と家康に許可を得て豊臣家を離れた。
嫡子の織田頼長(おだ・よりなが)が有楽斎とは正反対の強硬派で、徳川家との開戦や総大将の座を望むなどした末に出奔しており、また家康との内通も疑われていて豊臣家での立場を失ったとも考えられる。
豊臣家の滅亡後は京で隠棲し、茶道に専念した。
1621年、京で死去。享年76。
1582年、信長が本能寺で討たれると、中国地方から迅速に引き返してきた羽柴秀吉と合流。山崎の戦いでは右翼先鋒を務めて明智光秀軍を撃破した。
戦後の清州会議では織田家の四宿老に連なり、秀吉や丹羽長秀(にわ・ながひで)とともに信長の孫・織田秀信(おだ・ひでのぶ)を擁立し摂津、後に美濃に13万石を得た。
1584年、小牧・長久手の戦いでは去就が注目されるも秀吉方に参戦。かつて治めていた犬山城を攻略する活躍を見せるが、徳川家康の本拠・三河に進軍中、家康軍の急襲を受けて長男・池田元助(いけだ・もとすけ)や娘婿の森長可(もり・ながよし)とともに戦死した。
その最期は床机に座り、崩れ立つ部隊を立て直しているさなかに徳川家の永井直勝(ながい・なおかつ)の槍を受けたとされる。享年49歳。
池田家は次男の池田輝政が継ぎ、後に家康の娘をめとり「姫路宰相」とまで呼ばれる権勢を誇り、明治時代まで続いた。
1594年、輝政は父の仇である永井直勝を招き、その最期の様を聞いた。
直勝の知行が5千石と知ると「あの父を討った功績がたった5千石か」と嘆息したという。
余談だが直勝は最終的に7万石をとり、子孫には永井荷風や三島由紀夫がいる。
1547年、武田家から内応の誘いがあり、山内上杉家の当主・上杉憲政(うえすぎ・のりまさ)も業正の去就を疑ったため参戦できず、山内上杉家は武田軍に大敗を喫した。
1552年、上杉憲政が武蔵も失うと、長野家は離反した。
後世の軍記物では業正は憲政の撤退後も、主君に義理立てして上野を守り、武田軍の侵攻を6回にわたり撃退し、上州の黄斑(虎の意)と恐れられたとされるが、確たる史料はない。
1560年、上杉謙信の関東侵攻の際に幕下に名前が見え、憲政から関東管領を継いだ謙信に従属していたと思われる。
1561年、71歳(あるいは63歳)で死去。
「私が死んだ後、一里塚と変わらないような墓を作れ。法要は無用。敵の首を墓前に一つでも多く供えよ。敵に降伏してはならない。運が尽きたなら潔く討死せよ。それこそが私への孝養、これに過ぎたるものはない」と凄絶な遺言を残した。
跡を継いだ長野業盛(ながの・なりもり)は父の遺訓を忠実に守り、侵攻してきた武田家を一度は撃退したものの、最期は玉砕を遂げた。
武田信玄は「業正ひとりが上野にいる限り、上野を攻め取ることはできぬ」と嘆き、その死を聞くと喜び勇んで上野を攻めたとも、業正の死を知らないまま落城させ、指揮をとっていたのが若い業盛だと聞き驚いたとも伝えられる。