三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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1582年、信長が本能寺で討たれると、ほど近い堺にいたものの、混乱に乗じ一門衆の第5位で明智光秀の娘婿だった津田信澄(つだ・のぶすみ)に内通の嫌疑をかけて殺害しただけで、逃亡兵が相次ぎ身動きが取れなかった。
中国地方から羽柴秀吉が引き返してくるとそれに合流し、名目上の総大将として山崎の戦いに参戦し、明智光秀を討った。
戦後、織田家の後継者を決める清州会議では重臣の柴田勝家に推されたものの、秀吉の擁する信長の孫・織田秀信(おだ・ひでのぶ)が跡継ぎと決まり、信孝は幼い織田秀信の後見役として美濃を与えられた。
秀吉に対抗するため柴田勝家と信長の妹・お市の婚姻を仲介するなど奔走したが、同年12月、突如として秀吉に居城を囲まれた。
信孝は降伏し、秀信を引き渡したうえ、母を人質として差し出す屈辱を強いられた。
翌1583年、秀吉と柴田勝家が賤ヶ岳で激突すると、信孝も蜂起したが、秀吉方についた信雄の大軍に包囲され、敗れた勝家も自害するとやむなく降伏した。
信孝は自害を命じられ、尾張の野間で切腹した。
辞世の句は「昔より 主を討つ身の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前」と激しい怒りを表したもので(鎌倉時代に野間で源義朝が家臣に暗殺され、その家臣は源義朝の子に討たれた)さらに切った腹から腸をつかみ出すと目の前の掛け軸に叩きつけたという。