三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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1588年、九州征伐でも功を上げ、南肥後に20万石を与えられる。これは朝鮮出兵を見据え、水軍を統率する行長に準備をさせる狙いもあったという。
領地の天草は人口の2/3にあたる2万3千人がキリシタンであり、行長はそれを厚く保護した。
だがこれ以降、隣り合う北肥後を与えられた加藤清正(かとう・きよまさ)との確執が深まっていく。
1592年からの文禄の役では行長が先鋒、加藤清正が二番手となった。行長は快進撃を続け釜山、漢城、平壌と要害を次々と攻略した。
しかし兵糧不足に悩み、また明の大軍の到来を恐れ、裏では和睦交渉を続けており、翌年に明軍に平壌を奪回されると、明の担当者の沈惟敬(しんいけい)と共謀し、明には秀吉が降伏すると、秀吉には明が降伏すると偽り強引に和睦を取り付けた。
明の使者は秀吉を日本国王に封じる書状と金印を携えて来日したが、行長は書状を読み上げる西笑承兌(さいしょう・じょうたい)に内容をごまかすよう依頼した。
しかし承兌は内容を正しく伝えたため、激怒した秀吉は和睦を破棄し、独断専行の行長に死を命じた。
その場は承兌や前田利家、淀君の取り成しで収まったものの、1597年、慶長の役で行長は報いとして軍功を立てるよう厳命されて海を渡った。(ちなみに沈惟敬は明帝の怒りを買い公開処刑された)
行長は奮戦したが、秀吉の急死により明との和睦が決まり、円滑に和睦をまとめ帰国の途についた。
1600年、関ヶ原の戦いに際し行長は西軍についた。それまで徳川家康への取次役を務めており、東軍に参戦すると見られていたが、文禄・慶長の役でも事あるごとに対立していた加藤清正が東軍についたため、それに敵対したと思われる。
本戦では主力として積極的に攻め、田中吉政(たなか・よしまさ)、筒井定次(つつい・さだつぐ)らと激戦を繰り広げたが、小早川秀秋(こばやかわ・ひであき)の寝返りによって戦線崩壊すると撤退を余儀なくされた。
山に逃れた行長は関ヶ原の庄屋にかくまわれたが、逃げ切れないと悟ると自らを捕縛し、褒美をもらうように勧めた。
判断に迷った庄屋は竹中重門(たけなか・しげかど 関ヶ原の領主)の家臣に相談し、行長を護衛するように家康のもとへ連れて行った。
同年10月1日、行長は同じく捕縛された石田三成、安国寺恵瓊(あんこくじ・えけい)らとともに斬首された。
キリシタンの行長は経文を拒否し、ポルトガル王妃から贈られたキリストとマリアの肖像を3度頭上に戴いた後、首を打たれた。
その死はローマ教皇にも惜しまれたという。