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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります

戦国列伝―長野業正  上州の黄斑

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戦国列伝―長野業正  上州の黄斑



長野業正(ながの・なりまさ)
上野の人(1491~1561)

生年は1499年とも言われ、父も正確にはわからない。
長野家は関東管領・山内上杉家に従属し、周囲の国人衆をまとめ「箕輪衆」と呼ばれていた。
業正は娘を国人衆に嫁がせて結束を深め、また上野守護代である白井長尾家の当主が暗殺されると、介入して実権を奪い、山内上杉家内での地位を高めた。だが一方で河越夜戦では北条軍に敗れ息子が戦死している。

1547年、武田家から内応の誘いがあり、山内上杉家の当主・上杉憲政(うえすぎ・のりまさ)も業正の去就を疑ったため参戦できず、山内上杉家は武田軍に大敗を喫した。
1552年、上杉憲政が武蔵も失うと、長野家は離反した。
後世の軍記物では業正は憲政の撤退後も、主君に義理立てして上野を守り、武田軍の侵攻を6回にわたり撃退し、上州の黄斑(虎の意)と恐れられたとされるが、確たる史料はない。

1560年、上杉謙信の関東侵攻の際に幕下に名前が見え、憲政から関東管領を継いだ謙信に従属していたと思われる。
1561年、71歳(あるいは63歳)で死去。
「私が死んだ後、一里塚と変わらないような墓を作れ。法要は無用。敵の首を墓前に一つでも多く供えよ。敵に降伏してはならない。運が尽きたなら潔く討死せよ。それこそが私への孝養、これに過ぎたるものはない」と凄絶な遺言を残した。
跡を継いだ長野業盛(ながの・なりもり)は父の遺訓を忠実に守り、侵攻してきた武田家を一度は撃退したものの、最期は玉砕を遂げた。

武田信玄は「業正ひとりが上野にいる限り、上野を攻め取ることはできぬ」と嘆き、その死を聞くと喜び勇んで上野を攻めたとも、業正の死を知らないまま落城させ、指揮をとっていたのが若い業盛だと聞き驚いたとも伝えられる。

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