三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
ただいまコメントを受けつけておりません。
1547年、武田家から内応の誘いがあり、山内上杉家の当主・上杉憲政(うえすぎ・のりまさ)も業正の去就を疑ったため参戦できず、山内上杉家は武田軍に大敗を喫した。
1552年、上杉憲政が武蔵も失うと、長野家は離反した。
後世の軍記物では業正は憲政の撤退後も、主君に義理立てして上野を守り、武田軍の侵攻を6回にわたり撃退し、上州の黄斑(虎の意)と恐れられたとされるが、確たる史料はない。
1560年、上杉謙信の関東侵攻の際に幕下に名前が見え、憲政から関東管領を継いだ謙信に従属していたと思われる。
1561年、71歳(あるいは63歳)で死去。
「私が死んだ後、一里塚と変わらないような墓を作れ。法要は無用。敵の首を墓前に一つでも多く供えよ。敵に降伏してはならない。運が尽きたなら潔く討死せよ。それこそが私への孝養、これに過ぎたるものはない」と凄絶な遺言を残した。
跡を継いだ長野業盛(ながの・なりもり)は父の遺訓を忠実に守り、侵攻してきた武田家を一度は撃退したものの、最期は玉砕を遂げた。
武田信玄は「業正ひとりが上野にいる限り、上野を攻め取ることはできぬ」と嘆き、その死を聞くと喜び勇んで上野を攻めたとも、業正の死を知らないまま落城させ、指揮をとっていたのが若い業盛だと聞き驚いたとも伝えられる。