三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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1582年、信長が本能寺で討たれると、中国地方から迅速に引き返してきた羽柴秀吉と合流。山崎の戦いでは右翼先鋒を務めて明智光秀軍を撃破した。
戦後の清州会議では織田家の四宿老に連なり、秀吉や丹羽長秀(にわ・ながひで)とともに信長の孫・織田秀信(おだ・ひでのぶ)を擁立し摂津、後に美濃に13万石を得た。
1584年、小牧・長久手の戦いでは去就が注目されるも秀吉方に参戦。かつて治めていた犬山城を攻略する活躍を見せるが、徳川家康の本拠・三河に進軍中、家康軍の急襲を受けて長男・池田元助(いけだ・もとすけ)や娘婿の森長可(もり・ながよし)とともに戦死した。
その最期は床机に座り、崩れ立つ部隊を立て直しているさなかに徳川家の永井直勝(ながい・なおかつ)の槍を受けたとされる。享年49歳。
池田家は次男の池田輝政が継ぎ、後に家康の娘をめとり「姫路宰相」とまで呼ばれる権勢を誇り、明治時代まで続いた。
1594年、輝政は父の仇である永井直勝を招き、その最期の様を聞いた。
直勝の知行が5千石と知ると「あの父を討った功績がたった5千石か」と嘆息したという。
余談だが直勝は最終的に7万石をとり、子孫には永井荷風や三島由紀夫がいる。