三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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氏康が没すると、上杉家との同盟を破棄し、武田家と手を結んだ。三方ヶ原の戦いにも兵を派遣し、徳川・織田連合軍への勝利に貢献している。
1578年、上杉謙信が没すると、謙信の甥の上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)と、北条氏政の弟で、謙信の養子となっていた上杉景虎(うえすぎ・かげとら)の間で家督争いが起こった。
氏政は叔父の北条氏照(ほうじょう・うじてる)らを援護に派遣したが、武田家は領土の割譲を条件に上杉景勝に味方し、景虎は敗れて自害した。武田家の裏切りに激怒した氏政は同盟を破棄し徳川家と結び、さらに中日本の全域を支配し、武田家の攻略に乗り出していた織田信長に臣従を申し出、武田家を挟撃した。
1582年、織田軍の猛攻により武田家は滅亡し、ほどなくして信長も本能寺の変で命を落とした。
氏政はその隙を逃さず、関東の支配を任されていた織田家の滝川一益(たきがわ・かずます)を追放し、上野と南信濃の大半、甲斐の一部を徳川家との争奪戦の末に切り取り、さらに勢いをかって上総、下総、常陸にまで支配権を拡げた。その石高は250万石にも及び、後北条氏にとって最大、織田(豊臣)家に継ぐ一大勢力を築き上げた。
しかし北信濃で真田昌幸(さなだ・まさゆき 幸村の父)が反抗したのがケチの付き始め。豊臣秀吉からの再三の上洛命令を、氏政を人質にとる謀略と読んで断り続け、家臣の猪俣邦憲(いのまた・くにのり)が秀吉の命令を無視して真田方の城を占拠するに及んで、秀吉の堪忍袋の緒は切れた。
秀吉は全国の大名に号令をかけ、22万もの大軍を催して小田原城を包囲した。いかな戦国一の名城と言えども、地を埋め尽くす大軍には抗す術もなく開城した。
第五代当主となっていた氏政の子・北条氏直(ほうじょう・うじなお)だけは許されたものの、氏政や主だった家臣はのきなみ切腹を命じられた。
病弱な氏直もほどなく急死し、後北条家は滅亡した。
~暗君・氏政~
関東の支配者・後北条家を滅亡させたため氏政の評価は極端に低く、北条家の伝記でも五代の当主の中で唯一「君」を付けられず呼び捨てにされ、「父の威徳のおかげでどうにか無事だっただけの愚か者」とこき下ろされている始末である。
他にも畑に実った麦を見て「あの麦を刈ってきて昼飯にしよう」と言ったとか、ご飯に味噌汁を二度掛けし、父の氏康に「汁かけご飯の加減もわからない者に、家臣や領地の掌握ができるものか」と呆れられたとか、暗愚さを物語る逸話が後世にいくつも作られている。
しかし上杉・武田・織田・徳川と時に応じて手を結び、いち早く織田に臣従したその眼力や、信長の死に乗じて一気に勢力を拡大した手並み、氏康のあとを継ぎ過不足なく領地を治めた内政手腕と、唯一、豊臣家に対する外交戦略は失策だったものの、北条家の当主として申し分ない力量を備えていたと思われ、再評価が待たれる。
生まれてすぐに父を亡くし、叔父の本多忠真(ただざね)のもとで育てられた。
幼い頃から徳川家康に仕え、13歳で元服し、1560年の桶狭間の戦いで初陣を踏んだ。
家康の旗本として常に側にあり、1563年の三河一向一揆では、本多一族の多くが一揆に加わる中で、忠勝は一向宗から浄土宗に改宗してまで家康のもとに残った。
1570年、姉川の戦いでは家康の本陣に迫る朝倉軍1万に対して、ただ一人で斬り込んで見せ、忠勝を救おうとした家康も突撃し、結果的にそれが大反撃につながり勝利を得た。信長は忠勝を「日本の張飛(三国志随一の猛将)」と讃えたという。
その後も一言坂の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦い、と重要な戦で大功を立てた。
1582年、本能寺で織田信長が討たれたとき、家康は忠勝らわずかな家臣とともに堺にいた。
退路を失った家康は信長の後を追い自刃しようとしたが、忠勝に説得され、伊賀を越えて国に帰ることができた。
1584年、小牧・長久手の戦いでは、秀吉軍8万に対しわずか500の兵で立ちはだかった。福島正則(ふくしま・まさのり)らは忠勝を討つ好機と唱えたが、秀吉は「家康を逃がすために囮になったのだろう」と感動し「あれほどの男はぜひ召し抱えたい」と殺さずに捕らえるよう命じ、「日本第一、古今独歩の勇士」だと讃えた。
家康が関東に移封されると、譜代の家臣は国境沿いに配置する方針により、上総に家臣団の中で二番目に多い十万石を与えられ、里見家ににらみをきかせた。
1600年、関ヶ原の戦いに際しては、西軍の諸大名に書状を送り、切り崩しを図った。
戦後、西進する徳川秀忠(とくがわ・ひでただ)を足止めし、戦いに間に合わせなかった真田昌幸(さなだ・まさゆき)、幸村父子が処刑されそうになると、忠勝は娘婿で幸村の兄でもある真田信之(さなだ・のぶゆき)とともに助命を嘆願した。
家康がそれを渋ると、忠勝は「ならば殿と一戦つかまつろう」と言い放ち、家康を仰天させた。
真田父子は高野山に蟄居することで赦されたが、その後の徳川家は本多正純(ほんだ・まさずみ)ら若い官僚たちが台頭し、武功派の忠勝らは次第に遠ざけられ、1610年、63歳で生涯を閉じた。
~本多忠勝の武勇~
本多忠勝の武器といえば、愛槍の蜻蛉切(とんぼきり)がよく知られている。
これは刃長43.8cmの長槍で、穂先に止まったトンボが真っ二つになった逸話から名付けられ「天下三名槍」の一つに数えられている。
柄の長さは6mほどだったとされるが(一般的な長槍は約4.5m)、晩年に腕力の衰えを感じた忠勝は「槍は自分の力に合うものが一番」と言い、柄を短く詰めたという。
また兜には鹿の角をあしらい、自らが葬った敵を弔うため、鎧の上には肩から大数珠を提げるのが常であった。
合戦に参加すること57回に及んだが、かすり傷一つ負わなかったと言われ、そのため「戦国無双」等のゲームでは重装備で防御力を高く設定されがちだが、実際には軽装を好み、防御よりも回避を重視していたようである。
戦場では天下無双の働きを示すが、教練などでは非常に不器用なところを見せ、周りの者に不思議がられたという逸話も興味深い。
その後も秀吉の重要な戦には常に参加し、1585年には秀吉の後継ぎである豊臣秀次(とよとみ・ひでつぐ)の宿老となり、長浜2万石の城主となった。
1590年には遠江掛川5万石に移され、築城の才を買われ各地の城の普請に当たった。
1595年、豊臣秀次が謀反の疑いで処刑された折にもうまく立ち回って連座を逃れ、かえって秀次の所領から8千石の加増を受けている。
1600年、徳川家康に従い、上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)の討伐に参加したが、石田三成が挙兵し、大軍を催して東進を開始した。誰もが徳川、豊臣のいずれにつくか迷ったが、一豊は掛川城を家康に提供し、いちはやく徳川方につくことを宣言して家康を喜ばせた。
これは事前に堀尾忠氏(ほりお・ただうじ)と進退を協議した際に、堀尾が提案したことを盗用したものとされるが、一豊の素早い決断により多くの諸大名が家康に味方したのは確かで、関ヶ原の本戦では目立った武功のなかった一豊に戦後、土佐20万石が与えられたのは、家康に高く評価されたからに他ならない。
しかし土佐は長きにわたり長宗我部(ちょうそかべ)家が治めた土地であり、旧臣たちは一豊に強く反発した。
多くの加増を受けた一豊は新規に家臣を集めなければいけなかったが、それも思うようにできず、やむなく上方から人手を募り、さらに相撲大会を口実に集めた(当時は人材登用のために行われることが多かった)長宗我部の旧臣73名を磔にして殺すなど、強硬措置を貫いた。そのため一豊は常に命の危険にさらされ、6人の影武者をつれて行動したという。
この旧臣への差別は幕末にまで続き、坂本龍馬らの決起を促す遠因となった。
1605年、60歳で没した。
余談だが、一豊は食中毒を案じて、土佐名産のカツオを刺身で食べることを禁じた。
それに対して領民はカツオの表面をあぶり、刺身ではないと主張して食べるようになり、これがカツオのたたきの起源とされる。
~妻・千代の内助の功~
一豊の妻である見性院(けんしょういん 本名は千代または、まつ)は、織田信長が馬揃え(行軍パレードのようなもの)をした際に、嫁入りの持参金(へそくりとも言われる)で夫のために名馬を買ってやり、目立った一豊は名を知られるようになった、という逸話がよく知られている。
特に戦前の教科書で、日本女性のあるべき姿として採り上げられ著名である。
また真偽は不明だが、千代紙の由来ともされる。
大野治長(おおの・はるなが)
摂津の人(1569~1615)
豊臣家の重臣。
豊臣秀吉の側室・淀殿(よどぎみ)の乳母である大蔵卿局(おおくらきょうのつぼね)の子にあたることから、秀吉に馬廻衆として取り立てられた。
秀吉の死後は遺児の豊臣秀頼(とよとみ・ひでより)に仕えたが、1599年に徳川家康を暗殺しようとした嫌疑をかけられ、流罪となった。
1600年、関ヶ原の戦いで家康陣営に加わり、戦功を認められて罪を許された。
戦後、「豊臣家への敵意はない」という家康の書簡をあずかり、豊臣家への使者を務め、そのまま大阪城に残った。
1614年、片桐且元(かたぎり・かつもと)が家康との内通を疑われ追放されると、乳兄弟の淀殿の寵愛を受けた治長は、豊臣家の筆頭的な地位となった。
あまりに重用されたことから、豊臣秀頼の父は秀吉ではなく治長であるという噂も流れたが、証拠はなく風説の域を出ない。
1614年からの大阪の陣では、主戦派の大野治胤(おおの・はるたね)ら弟らとは逆に、家康との和睦の道を探ったが果たされず、1615年、大阪夏の陣で敗れると、秀頼の正室で、家康の孫でもある千姫(せんひめ)を使者に、自身の切腹を条件に秀頼・淀殿母子の助命を嘆願したが許されず、秀頼らとともに自害した。
宇喜多家の重臣・明石景親(あかし・かげちか)の子として生まれる。
長じると宇喜多秀家(うきた・ひでいえ)の軍師格となり、1599年のお家騒動で多くの家臣が出奔すると、執政として宇喜多家を切り回した。
1600年、関ヶ原の戦いでは西軍の主力となった宇喜多軍の先鋒として戦い、福島正則(ふくしま・まさのり)を苦しめたが、小早川秀秋(こばやかわ・ひであき)の裏切りによって東軍の勝利に終わった。
宇喜多秀家は八丈島に流罪となり、全登も浪人となった。
同じキリシタンで、母が明石一族の黒田官兵衛に庇護されたが、その死後に跡を継いだ黒田長政(ながまさ)はキリスト教を禁じたため、全登はやむなく退去した。
1614年、大坂の陣では再起をかけ豊臣家に仕えた。
翌年、大阪夏の陣でも奮戦したが衆寡敵せず、松平忠直(まつだいら・ただなお)の大軍に突撃し、消息を絶った。
戦後、家康は全登を恐れ「明石狩り」と呼ばれるほど執拗に行方を追ったが、足取りはつかめず、そのまま戦死していたとも、国外へ逃亡したとも言われ、判然としない。
大和に生まれ、当時、勢力を伸ばしていた畠山高政(はたけやま・たかまさ)に仕えた。
だが畠山家は三好家との争いに敗れて没落し、以降は筒井家に仕える。
父が急死し、わずか2歳で跡を継いだ筒井順慶(つつい・じゅんけい)のもとで頭角を現し、松倉重信(まつくら・しげのぶ 通称は右近)とともに「右近左近」と称されたというが、いずれも正確な史料には見当たらないため、その前半生は謎に包まれている。
筒井順慶が病に倒れたため、跡を継いだ筒井定次(さだつぐ)とは折り合いが悪く、筒井家を去り、各地を転々としたが、4万石の城主となっていた石田三成に2万石という高禄で招かれ、仕えるようになった。
「主君が同じ石高とは古今に類がない」と驚かれたとされるが、これもやはり伝承であり、佐和山19万石となってからの三成に招かれたという説が有力だが、2万石を与えられたというのは確かであり、いずれにしろ破格の待遇であったことは間違いない。
その後は三成の片腕として活躍し、朝鮮出兵でも大功があり、豊臣秀吉の死後に台頭した徳川家康の暗殺計画を練ったともいう。
1600年、関ヶ原の戦い前夜、島津義弘らとともに夜襲を提案したが退けられた。
本戦では陣頭で指揮をとり、黒田長政(くろだ・ながまさ)と戦ったが、鉄砲隊の奇襲を受けて負傷し、撤退した。
この際に死亡したとも言われ、どちらにしろ開戦後すぐに左近を失ったことで、西軍が不利に陥ったことは確実である。
正午過ぎ、小早川秀秋(こばやかわ・ひであき)が東軍に寝返り、戦の趨勢は決した。
負傷を押して前線に戻った左近は、黒田軍に決死の突撃を敢行し、銃弾を浴びて戦死した。
左近の最期の奮戦ぶりは東軍の間でも語り草となり、特に黒田軍の将兵は関ヶ原から数年が過ぎても悪夢にうなされ、左近の「かかれーッ!」という叫びを夢枕に聞いては飛び起きたという。
さらに後年、関ヶ原の思い出を老いた将兵たちが語り合ったとき、左近の服装、軍旗などそれぞれの記憶がまちまちで一致しなかった。
左近のあまりの恐ろしさから記憶が混乱していたのだろう、とされる。
~異説~
左近についてはいろいろな異説が残っている。
まず関ヶ原の戦いの際に「若い頃は武田信玄に仕え、家康を破った」と語ったというもの。
だが島家は大和の土豪であり、甲斐の武田家に仕えたということは考えがたい。筒井家を出奔した頃にはすでに武田家も滅びている。
ゲーム『戦国無双』で若き日の左近が武田信玄に仕えているのはこれが元である。
また関ヶ原の戦い後も遺体は見つからず、京都で左近を目撃したという者が相次いだことから、生存説も根強く、各地に墓所や伝承が残っており、隆慶一郎の『影武者徳川家康』や、それを原作とした原哲夫のマンガ『SAKON』もそうした左近生存説に基づいて描かれたものである。
出自は判然とせず、近江で生まれたとも、遠く九州は豊後で生まれたとも、本願寺の血縁だとも、はては豊臣秀吉の隠し子だとさえささやかれる。
1577年、秀吉の中国攻めの頃から家臣の一人として名前が見え始める。
次第に頭角を現し、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いにも従軍し、柴田勝豊(しばた・かつとよ)を内応させ、戦場でも石田三成とともに加藤清正ら賤ヶ岳七本槍に準ずる活躍をしたという。
1585年には刑部少輔に任官され、大谷刑部の名でも知られるようになった。
また堺の奉行や、九州征伐では兵站を、朝鮮出兵では指揮も石田三成とともに任せられ、親交を深めた。
吉継の手腕は並外れており、まるで自分の指のように家臣を操り、秀吉は「百万の兵を率いさせてみたい」と嘆息したという。
一時期、吉継が辻斬りをしているという噂がまことしやかに広められたが、秀吉の信頼はいささかも揺るがなかった。
1598年、秀吉が没し徳川家康が台頭すると、吉継はよしみを通じ、豊臣家との間を調停して回った。
しかし1600年、家康が会津の上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)の征伐に赴くと、吉継は石田三成に派兵を促したが、三成は家康に対して挙兵することを打ち明け、吉継も親友のために三成の西軍に加わった。
吉継は居城の敦賀城に戻ると、丹羽長重(にわ・ながしげ)ら周囲の大名を説得して西軍につけ、精強で知られた水軍で金沢を急襲するとの噂を流し、前田利長(まえだ・としなが)軍を破った。
この頃、吉継はハンセン病とされる重病に侵され、失明し歩くこともできなかったが、戦場では輿に乗って采配を振るった。
関ヶ原の本戦では指揮能力を見込まれ、率いる部隊には戸田勝成(とだ・かつしげ)、平塚為広(ひらつか・ためひろ)らの諸隊が加わり連合軍の様相をていしていた。
吉継は朽木元綱(くつき・もとつな)、脇坂安治(わきさか・やすはる)、小川祐忠(おがわ・すけただ)、赤座直保(あかざ・なおやす)らいちおう西軍に与しながらも、東軍に通じている気配の濃い諸大名ににらみを利かせつつ、西軍の主力として藤堂高虎(とうどう・たかとら)、京極高知(きょうごく・たかとも)を相手に奮戦した。
しかし正午過ぎ、松尾山に布陣する小早川秀秋(こばやかわ・ひであき)軍1万5000が東軍に寝返り、吉継を攻撃した。
小早川軍の裏切りを予期していた吉継は、わずか600の手勢と、前線から呼び戻した戸田・平塚の両隊で迎え撃ち、10倍以上の相手を松尾山へ押し戻した。この反撃で家康から小早川秀秋への目付役に付けられていた奥平貞治(おくだいら・さだはる)を討ち取っており、本陣まで肉薄していたと思われる。
だが小早川軍に備えていた朽木、脇坂ら4大名の諸隊も東軍に寝返り、吉継を包囲すると、もはや打つ手はなかった。
戸田、平塚両名は討ち死にし、吉継も切腹して果てた。享年42歳。
吉継の戦死を契機に西軍は潰走を始め、関ヶ原の戦いは終わりを告げた。
~石田三成との友情~
関ヶ原の戦いの前までは、吉継は徳川家康と親しく付き合っており、会津征伐の後には12万石を与えることまで約束されていた。
だが三成との友情を重んじ、不利な戦いに身を投じた理由として、次の逸話がよく知られている。
吉継は当時、前世からの因縁とされていた重病を患い、顔は膿みただれてしまい、常に白い布で覆い隠していた。
茶会の折、一つの茶碗を飲み回していたが、誰もが病気の感染を恐れて、吉継が口を付けた後の茶碗を嫌い、飲むふりで済ませていた。
しかし三成だけは平然とその茶を飲み、吉継にも親しく話しかけたため感激したという。
一説によると吉継が飲んだ際に、膿が茶の中に落ちてしまったが、三成はそれを平然と飲み干すと、次の者のために代わりのお茶を要求したとも言われている。(三成ではなく豊臣秀吉であったともされる)
いずれにしろ官僚肌で冷淡な印象の三成らしからぬ行いであり、二人の間の親密さがうかがい知れる。
1570年、姉川の戦いで徳川軍の敵中深くに切り込み過ぎて孤立し、直隆の子・真柄隆基(たかもと)とともに兄弟そろって戦死した。
直隆を討ち取ったのは向坂(さきさか)三兄弟と言われ、その時に使った太刀は「真柄斬り」と名付けられ名刀のひとつに数え上げられる。
また太郎太刀も熱田神宮に奉納されており、一説によると、それは太郎太刀ではなく次郎太刀で、太郎太刀は白山比咩神社に奉納されたものだとも言う。
また真柄家は朝倉家の完全な家臣というわけではなく、独立した地位を保っており、直隆ら三人が戦死した後も家は存続しているようである。
ちなみに弟の直澄はあまりに史料が少ないことから存在が疑われており、直隆と同一人物だとする意見もある。
このように事績は非常に少ないが、地味な印象の濃い朝倉家の中でひときわ目立つ存在として、創作においては重宝がられており、知名度はまずまず高い。
前半生は不明な点が多く、土豪とも商人とも言われ、俗説では斎藤道三とも旧知の仲だったとされる。
30歳頃から三好長慶(みよし・ちょうけい)に仕え、主君の細川晴元(ほそかわ・はるもと)や征夷大将軍・足利義輝(あしかが・よしてる)を京から追放した。
信頼を得た久秀は三好長慶の娘をめとり、三好家を取り仕切り、幕政にも関与するようになり、細川、波多野、六角家とたびたび交戦した。
1560年には弾正少弼に任官され、この頃には三好家の臣下ながら、主君と拮抗する勢力を得ていた。
1562年、大和に多聞山城を築城し移り住むと、河内の畠山高政(はたけやま・たかまさ)、大和の筒井順慶(つつい・じゅんけい)を追放するなど勢力を伸ばし、大和を手中に収めた。
一方で三好長慶は、弟で名将でもある三好義賢(みよし・よしかた)、十河一存(そごう・かずなが)、安宅冬康(あたぎ・ふゆやす)、嫡男の三好義興(みよし・よしおき)を相次いで亡くし、覇気を失った。
そのうちいくつかは久秀の暗殺とささやかれるが、真相は定かではない。
1564年、三好長慶も没し、幼い三好義継(みよし・よしつぐ)が跡を継ぐと、久秀は三好三人衆とともに三好家を牛耳った。
1565年には、復権を狙った足利義輝を暗殺したが、政権をめぐり三好三人衆と対立し、家中のほとんどが久秀の敵に回った。
1567年、久秀は畠山高政や根来衆と結ぶが、三好三人衆と、大和の奪回を狙う筒井順慶に挟撃されて敗走した。
しかし翌年、傀儡の立場に嫌気が差した三好義継が久秀を頼って落ち延びてくると、勢力を盛り返し、三好三人衆の布陣した東大寺を奇襲して、大仏殿を焼き払った。
1569年、織田信長が上洛すると、久秀は名茶器「九十九髪茄子」を差し出しいちはやく降伏した。
信長は「主家の乗っ取り、将軍暗殺、大仏焼き討ち、という前代未聞の三悪事をなした極悪人」とからかいながらも歓迎し、助力を得た久秀は大和の諸城を奪回していった。
余談だが大仏殿の焼き討ちはルイス・フロイスによると、三好家のキリシタンが騒ぎに乗じて起こしたものらしく、からかった信長自身も「主家の乗っ取り、将軍追放、比叡山焼き討ち」の三悪事を行なっている。
さらに蛇足だが久秀は三好三人衆との戦いのさなか、日本初のクリスマスを理由に休戦を命じている。
1570年、朝倉義景(あさくら・よしかげ)を攻めた信長が、妹婿の浅井長政に背後を襲われ窮地に陥ると、久秀は朽木元綱(くちき・もとつな)を説得して味方につけ、退路を確保した。
また娘を信長の養女とした上で人質に差し出し、三好三人衆と和睦をまとめるなど織田家でも重要な役割を果たした。
だが将軍・足利義昭(あしかが・よしあき)が信長包囲網を敷くと、三好家や石山本願寺との関係を修復し、織田家を離れ包囲網に加わった。
しかし1573年、武田信玄が上洛の途上に急死すると、反撃に乗り出した信長は足利義昭を追放して室町幕府を滅ぼし、包囲網に加担した大名を次々と破った。三好義継も敗死すると、久秀は多聞山城を明け渡して降伏した。
1577年、久秀は第二次信長包囲網に加わり、再び離反した。
久秀の才を惜しんだ信長は城を包囲する一方で、名茶器「平蜘蛛茶釜」と引き換えに助命を許そうとしたが、久秀はこれを拒絶した。
織田軍の総攻撃が始まると、久秀は自害の準備を始め、家臣にいつものように中風の予防のためお灸を据えるよう命じた。
これから死ぬというのにお灸もないだろうと家臣がいぶかると、久秀は「いざ腹を切ろうという時に中風で失敗したら、自害に臆したと思われ、武名をいっぺんに失うではないか」と叱りつけたという。
そして10月10日、平蜘蛛茶釜に爆薬を詰め、自爆した。これは文献に残る限り、日本初の爆死である。
またこの日はくしくも10年前に東大寺を焼き払ったのと同月同日であった。
播磨の大名・小寺家の重臣である黒田家の嫡男として生まれる。主君の姓を与えられ小寺孝高(こでら・よしたか)と名乗った。
家督を継ぐと姫路城を任され、かつて妹夫婦を殺した赤松政秀(あかまつ・まさひで)が3000の兵で攻め寄せると、それを300の兵で撃退した。
小寺家は畿内で勢力を伸ばす織田信長、中国の雄・毛利輝元(もうり・てるもと)の二大勢力に挟まれていたが、孝高は信長の才覚を認め、羽柴秀吉の仲介を得ていちはやく臣従させた。
1576年、信長のもとから毛利家に逃れた征夷大将軍・足利義昭(あしかが・よしあき)は、毛利の水軍5000で小寺家を攻めさせた。しかし孝高はこれも500の兵で退けた。
秀吉が中国征伐を命じられると、孝高は姫路城を提供した。
ところが1578年、小寺家の盟友・別所長治(べっしょ・ながはる)が反旗を翻し、毛利、宇喜多、雑賀衆と連動して秀吉を攻撃した。
宇喜多直家(うきた・なおいえ)らの水軍7000以上を、孝高は1000の兵で退けたが、摂津の荒木村重(あらき・むらしげ)も謀反を起こすと、信長は秀吉軍を撤退させた。
孝高の主君・小寺政職(まさもと)も謀反に加わろうとしたため、孝高はまず旧知の荒木村重を説得し、反乱軍を切り崩して小寺政職を翻意させようと考えた。
しかし荒木村重は孝高を捕らえると、狭い土牢の中に監禁してしまった。
信長は孝高が帰ってこないため裏切られたと激怒し、人質として預っていた息子の黒田長政(ながまさ)を殺そうとした。
しかし秀吉の腹心・竹中半兵衛が身代わりを用意して長政をかくまったため、事無きを得た。
1年後、城が陥落し孝高も腹心の栗山利安(くりやま・としやす)に救出されたが、長い虜囚生活で左脚を患い、馬に乗れず歩行も不自由になってしまった。
1580年、離反した別所長治、小寺政職は討たれ、孝高は黒田孝高と名乗るようになった。
秀吉は姫路城を返そうとしたが、孝高は「姫路城は播磨を統治するために欠かせない」と断り、以降は秀吉の参謀として働くようになった。
孝高は息子の命を救ってくれた竹中重治に感謝し、竹中家の家紋を黒田家の家紋として用い、竹中半兵衛とともに「両兵衛」と並び称された。
中国攻めで孝高は「鳥取の渇え殺し」と恐れられた鳥取城の兵糧攻め、備中高松城の水攻めを献策し、優勢に戦いを進めさせた。
しかし1582年、織田信長が本能寺で明智光秀に討たれ、秀吉軍は窮地に陥った。
秀吉は大恩ある信長の死を悲しみ、茫然自失のていだったが、孝高は「御運が開けましたな。天下を獲る好機です」と励ました。その言葉で秀吉は我に返ったが、孝高の野心を感じ、以降は警戒するようになったという。
孝高は毛利方にまだ信長の死が伝わっていないことを利用し、包囲していた備中高松城を守る名将・清水宗治(しみず・むねはる)の切腹を条件に和睦を受け入れると、全軍を率いて畿内に引き返した。
後に「中国大返し」とうたわれた迅速な行軍により、秀吉軍はわずか10日で山崎に戻り明智光秀と対峙した。
光秀の備えは整わず、池田恒興(いけだ・つねおき)ら畿内の織田勢力と合流した秀吉軍が、圧倒的有利に立っており、光秀はあっさりと敗れ去り、三日天下に終わった。
孝高は柴田勝家との賤ヶ岳の戦い、四国、九州征伐でも主力として戦い、外交戦略では戦わずして毛利家、宇喜多家を味方に取り込んだ。
九州平定後には豊前13万石を与えられ、佐々成政(さっさ・なりまさ)の失政が招いた大規模な一揆を鎮圧するなど、九州の不穏な勢力ににらみを利かせた。
1589年、隠居して黒田長政に家督を譲り、黒田如水と名乗った。
だがその後も秀吉の側に仕え、小田原征伐では北条氏政(ほうじょう・うじまさ)父子を説得して開城させ、朝鮮出兵では総大将・宇喜多秀家(ひでいえ)の軍艦として実質的に采配を振るうなど、第一線で戦い続けた。
一方で秀吉は如水への警戒を怠らず、謀反を恐れ重臣としては異例なほどに低い石高に抑えていた。(竹中半兵衛も同様に石高は低かった)
ある時、秀吉は「わしの死後に天下を治めるのは誰か」と問うた。周囲の者は徳川家康や前田利家の名を上げたが、秀吉は一顧だにせず「違う。如水だ。奴がその気になればわしが生きている間にも天下を獲れる」と言った。
「黒田様は10万石にしか過ぎませんが」と納得しないと、秀吉は「如水に徳川や前田のように百万石を与えたら、たちまち天下を獲るだろう」と答えた。
それを伝え聞いた如水は、すぐに剃髪して出家し、野心のないことを訴えたという。
また、秀吉の居城が地震で倒壊した際、見舞いに駆けつけた如水に秀吉は「わしが死ななくて残念だったな」と皮肉を浴びせたという。
1598年、秀吉が没すると、如水は伏見に戻り、混乱を未然に防ぐ一方で情報を集めた。
大乱が起こることを察知し、吉川広家(きっかわ・ひろいえ)に乱に備えるよう助言した書状が残っている。
はたして1600年、徳川家康と石田三成による関ヶ原の戦いが起こった。
黒田長政は家康の養女をめとっていたことから東軍に与し、豊臣恩顧の大名を次々と東軍に付け、自身も主力として戦った。
九州にいた如水は張り巡らせていた情報網からいちはやく三成の挙兵を知ると、惜しげもなく蔵を開いて蓄えをばらまき1万近い兵を雇った。(およそ30万石の大名の兵力に相当する)
没落していた大友義統(おおとも・よしむね)が毛利家の援助を得て豊後に攻め寄せたが、如水は即席の軍でそれを打ち破り、加藤清正、鍋島直茂(なべしま・なおしげ)と合流し次々と城を落とした。
関ヶ原から引き上げてきた島津義弘を破り、不敗をうたわれた立花宗茂(たちばな・むねしげ)も降し、九州の北部をほぼ手中に収めた。
4万に膨れ上がった黒田軍はついに島津義久(しまづ・よしひさ)と対峙し、九州平定も目前に見えたが、家康は島津家と和睦し、停戦を命じたため如水の野望もついえた。
戦後、黒田長政は勲功第一として大幅な加増を得た。家康は長政の右手を握ると「徳川家の末代まで黒田家を手厚く扱おう」と激賞した。
感動した長政が父にそのことを伝えると、如水は「右手を握られている間、お前の左手は何をしていた」と冷たく言った。空いている左手でなぜ家康を刺さなかったと聞いたのである。
そして「関ヶ原の戦いが長引けば、その間にわしが九州を手に入れ、中国・四国へと攻め上がり、西国を治めじっくりと天下を狙えた。お前を天下人にしてやれたのに、勲功第一などと余計なことをしおって」と毒づいたという。
如水も加増を提示されたが、辞去すると九州にこもり、以降は表に出ることはなかった。
そして1604年、天下の望めないこの世に用はないと言わんばかりに59歳で死去した。
晩年は家臣団に冷たく当たるようになった。息子の代になって、自分が生きていた頃を惜しませないために、わざと嫌われるようにしたのだという。
だが跡を継いだ長政もやはり父譲りの癖のある人物らしく、後藤又兵衛(ごとう・またべえ)ら多くの家臣が出奔している。
また度を超した倹約家としても知られ、家臣への褒美代わりに身の回りの物を安く売り渡していたというが、これも褒賞を与えれば家臣の間でひいきを感じて、結束が弱くなるという考えに基づいたもので、前述したように関ヶ原の戦いでは蔵を開いて蓄えを放出しており、その際に何度も金をもらいに来た強欲な者にも、笑って何度でも金を渡したという。
最後に、いかにも如水らしい辞世の句を紹介したい。
「おもひをく 言の葉なくて つひに行く 道はまよはじ なるにまかせて(死ぬにあたって思い残すことも、言い残すことも特に無い。道に迷うことは無い。成るように任せるだけだ)」