三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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織田信長に仕え、織田四天王に数えられる重臣。
文武両道で、何をやらせても器用にこなし家中に欠かせないことから「米五郎左」と呼ばれた。(五郎左衛門は名)
丹羽家はもともと尾張守護の斯波家に仕えていたが、衰退し鞍替えしたのか長秀は16歳の頃から信長に仕える。
「信長公記」などによると美濃の攻略戦から台頭し、上洛戦、長篠の戦い、越前一向一揆征伐など主要な戦の多くに参戦し軍功を上げた。内政手腕にも優れ安土城の普請役を務め、敵勢力の調略も行った。
1571年には8ヶ月に渡る包囲の末に開城させた佐和山城を与えられ、さらに若狭一国の統治も任された。
1581年の京都御馬揃えでは一番に入場する名誉を受け、柴田勝家に継ぐ二番家老の地位にあり、木下秀吉は改姓するにあたり、長秀と勝家の姓から一字ずつもらい「羽柴」と名乗った。
ただし軍事面では方面軍を任されることはなく、信長の三男・織田信孝(おだ・のぶたか)の補佐に過ぎず、各方面軍を任された勝家、秀吉、明智光秀、滝川一益(たきがわ・かずます)らに知行も劣った。
だが信長からの信頼は絶大で「長秀は友であり兄弟である」とまで言われ、信長の養女(姪)をめとり、嫡男の丹羽長重(にわ・ながしげ)も信長の五女を迎えていた。親子二代で信長と血縁を結んだのは家中でも長秀のみであり、また長秀の「長」も信長からの一字拝領である。
秀吉に筑前守、光秀に惟任の姓が与えられた時、長秀にも官位や名誉ある姓が与えられようとしたが「五郎左のままで結構」と断ったという逸話など、長秀と信長の関係は、三国志で主従関係にありながら親友・兄弟分であり続けた曹操と夏侯惇を思い起こさせ、曹操が「友に官位を与え家臣にはできない」と任官を渋ったものの、夏侯惇は「他の家臣に示しがつかない」と自ら任官を望んだ話と好対照ではなかろうか。
1582年、四国への出兵準備中、本能寺で信長が討たれた。だが長秀と織田信孝はちょうど部隊を離れており、主将を欠いた方面軍は動揺から四散してしまい、明智光秀と戦うことができなかった。
足踏みするうちに中国から羽柴秀吉が帰還するとそれに合流し光秀を討つことに成功するが、信孝は名目上の大将を務めたものの長秀らは羽柴軍に兵力で劣り、以降も秀吉の下につくこととなった。
清州会議でも長秀は池田恒興(いけだ・つねおき)らとともに秀吉を支持し、織田家の後継者には秀吉の意向通り織田秀信(おだ・ひでのぶ)が選ばれた。
その後も秀吉に従い、若狭に加え越前の大半と、加賀の二郡を与えられ123万石に上った。
あくまでも織田家の重臣という立場ではあったが、毛利輝元(もうり・てるもと)から長秀と、秀吉の重臣・蜂須賀正勝(はちすか・まさかつ)に贈られた戦勝祝いが贈答品の中身から書状の内容まで全く同じであった例から考えるに、諸将からは秀吉の一家臣と同等に見られていたようである。
1585年、51歳で胃癌により逝去した。
一説には、死期を悟った長秀は切腹し、織田家を牛耳っていく秀吉に内臓のそれも病巣部分を送りつけたともいう。
跡を継いだ丹羽長重はあれこれと理由をつけられ123万石の大半を秀吉に召し上げられたが、不屈の闘志で大名に返り咲き、丹羽家は明治まで大名として存続した。
織田四天王で大名として残ったのは丹羽家だけで、欠かすことのできない「米」の血脈が受け継がれていたことがうかがえる。
名は長く通勝(みちかつ)と伝えられてきたが正しくは秀貞であり、松永久秀(まつなが・ひさひで)の家臣の林通勝と混同されたと思われる。
だが父・弟はともに名に「通」を、子と孫は「勝」を入れており、はじめは通勝と名乗った可能性もある。
織田家に仕えて重臣となり、織田信長の1番家老として付けられた。(2番は平手政秀(ひらて・まさひで))
しかし若い頃の信長は「うつけ者」と呼ばれるほど奇行が目立ったため、弟の織田信行(おだ・のぶゆき)の擁立を企てた。
そして1556年、柴田勝家と共謀し挙兵するが、軍才を表した信長に撃破され、弟の林通具(はやし・みちとも)は戦死した。(信長自らの手で討ち取られたという)
信長は秀貞と柴田勝家を許し、後に織田信行も粛清されると、秀貞は織田家の政治・外交を全面的に取り仕切った。
信長の発給文書には必ず署名するほどで、戦にも軍監や目付役としてか、何度か従軍している。
信長の信頼は厚く、織田信忠(おだ・のぶただ)に家督を譲るとその補佐につけられ、また朝廷や将軍・足利義昭(あしかが・よしあき)との交渉では必ず秀貞が取次ぎを務め、安土城が完成すると、秀貞と村井貞勝(むらい・さだかつ)の二人だけが天守閣の見物を許されたという。
だが1580年、突如として24年も前の織田信行擁立の罪を問われ追放された。
同年には佐久間信盛(さくま・のぶもり)、安藤守就(あんどう・もりなり)、丹羽氏勝(にわ・うじかつ)ら重臣が同様に追放されているが、石山本願寺との戦いで戦果を挙げられなかった佐久間、武田家との内通を疑われた安藤、丹羽と比べても明らかに難癖としか思えない理由であり、家中を動揺させてまで穏便ならざる追放という形を選んだ信長の意図するところは不明である。
追放後の秀貞の行方はよくわかっておらず、失意から2ヶ月後に死去したとも、改名し京や安芸に流れたとも伝わる。
佐久間信盛(さくま・のぶもり)
尾張の人(1528~1582)
若い頃から織田家に仕える。織田信長の重臣として付けられ、家督争いでも一貫して信長のもとで戦った。
信長からも信頼され筆頭家老に等しい扱いを受け、退却戦を得意としたことから「退き佐久間」の異名をとった。
織田家の主だった戦にはすべて参戦した他、政務にも深く携わり、徳川家康と国境を接する西三河を領し、徳川家との交渉や松永久秀(まつなが・ひさひで)、筒井順慶(つついじゅんけい)らの調略も担当。さらに畿内の行政も任せられた。
だが1572年、三方ヶ原の戦いでは平手汎秀(ひらて・ひろひで)らとともに3千の兵を率い徳川家への援軍に赴くも、織田・徳川あわせて1万1千に対し2万7千で攻め込んだ武田軍に恐れをなし戦線離脱。一方で平手汎秀は手勢とともに残り、あえなく戦死させてしまう失態を演じた。
さらに翌1573年、一乗谷の戦い直前、撤退する朝倉軍の追撃を怠った家臣団が信長の叱責を受けた際、信盛は「そうは言われましても我々のような優秀な家臣団はそうは得られないでしょう」と弁明し、信長の怒りを買った。
失態が続いたが、その後も三好家との戦いや長篠の戦いで活躍し、1576年の石山合戦で指揮官の塙直政(はなわ・なおまさ)が戦死すると後任として指揮を取り、当時の織田家で最大規模の7ヶ国にわたる与力を付けられた。
しかし信盛は消極的な姿勢だったため石山本願寺との戦いは膠着し、1580年に信長自ら朝廷を動かし、和睦する形でようやくの決着を見た。
そして同年8月、信長は19ヶ条にわたる折檻状を突きつけ、信盛と嫡子の佐久間信栄(さくま・のぶひで)を追放した。
信盛父子は高野山へ向かったが在住を拒否され、付き従う者も次々と減っていき、熊野にたどり着いた時には一人しか残らなかった。
追放から1年半後の1582年1月、失意のまま信盛は熊野で没した。享年55。
それで禊が済んだように信栄は間もなく帰参を認められ、織田信忠(おだ・のぶただ)に仕えた。
その際、信栄は最後まで付き従ってきた小者を武士へと取り立てたという。
尾張の土豪で織田家の筆頭格だった佐久間家が信長の鶴の一声で取り潰しにされたことは、武家社会のあり方が決定的に変わったことの象徴的な出来事であった。
また信盛の追放後、その地位を継いだのは明智光秀(信盛の追放は光秀の讒言によるという説もある)で、2年後の本能寺の変の遠因(光秀が信盛に代わり信長の近衛兵的な立場につき本能寺で襲撃できたこと、信盛の追放劇を見て危機感を覚えたこと等)となっており、歴史の皮肉を感じさせる。
~19ヶ条の折檻状~
その内容を簡単に紹介する。
01.石山本願寺との戦いを任されながら5年間なにもしていない
02.石山本願寺の降伏を待つばかりで決戦を挑まなかった
03.明智光秀、羽柴秀吉、池田恒興(いけだ・つねおき)に比べて見劣る
04.柴田勝家にも見劣る
05.戦ができないなら謀略を使うか信長に意見を求めるべきなのにそれもしない
06.「本城を落とせば自然と支城は落ちる」と急に言い出したが言い訳ではないのか
07.7ヶ国の兵を使えるのにどうしてなにもできずにいるのか
08.水野家の旧領の刈谷を与えたら旧臣を追い出し新たに召し抱えてもいない。私腹を肥やしているのではないか
09.山崎でも同じことをしていまいか
10.家臣を増やさず貯蓄に回しているから戦えないのだ。諸外国の例を見るがいい
11.一乗谷の戦いの前に叱責した時、失言をしたし態度も悪かった
12.息子の信栄の罪状は書き並べたら切りがない
13.欲深く気難しく家臣も増やさない。そのうえいいかげんで親子ともども武士道を心得ていない
14.戦には与力ばかり使い自分の家臣を使わない
15.信盛の与力や家臣でさえ信栄に遠慮している。信栄は穏やかなふりをしているが綿の中に針を隠しているようなものだ
16.信長に仕えて30年経つが「信盛の働きは比類なし」と言われるような活躍は一度もない
17.三方ヶ原の戦いで負けたのはしかたないにしても平手汎秀を見殺しにし、自分の兵は一人も死んでいないのはどういうことだ
18.かくなる上は決死の覚悟で戦果を上げるか討ち死にするか好きな方を選ぶべきだ
19.もしくは親子ともども頭を丸め高野山に隠遁し許しを請え
以上のように数年の間たいした武勲もなく、そもそも天下人の信長に対し口答えをする不届き者はお前から始まったのだから、償いに最後の2ヶ条のどちらかを実行せよ。さもなくば天下が許すことはない。
織田信長の長男。幼名は信長に名付けられた奇妙丸(きみょうまる)。1572年に元服しはじめは信重(のぶしげ)と名乗った。
元服以来、多くの戦で功を立てた。特に1575年、武田方の岩村城攻めでは総大将を務め、夜襲をかけてきた武田軍を返り討ちにし、守将の秋山信友(あきやま・のぶとも)を降伏させた。
翌1576年、信長から家督を譲られ美濃東部と尾張の一部の統治を任され岐阜城主となる。実権は依然として信長が握っていたが、一門衆での序列は1位、1577年には紀伊征伐、反乱した松永久秀(まつなが・ひさひで)との戦いで総大将となり、安土城に居を構える信長に代わり諸将を統帥するようにもなった。
1578年、信長の援助を受け蜂起した尼子勝久(あまご・かつひさ)の籠もる播磨・上月城に毛利軍6万が迫ると、信忠は羽柴秀吉、明智光秀、丹羽長秀(にわ・ながひで)、滝川一益(たきがわ・かずます)ら7万の大軍を率い援軍に赴いた。
しかし戦線が膠着したため信長は撤退を指示し、上月城は陥落した。その際には采配をめぐり信長と激しく口論したとも伝わる。
1580年、筆頭家老の佐久間信盛(さくま・のぶもり)と美濃三人衆の一人・安藤守就(あんどう・もりなり)が追放されると彼らの領地を任され、尾張・美濃のほぼ全域を統治した。
1582年の武田征伐でも総大将となり、徳川・北条軍とともに武田領へ侵攻。信長は深入りを避けるよう命じたが、信忠は現地の情勢を見極めると命令を無視して電撃戦を展開。武田軍は信忠軍の進撃の早さに対応できず、信長本隊の到着を待たずして武田勝頼(たけだ・かつより)を自害へ追い込み、武田家を滅亡させた。
信長は「天下の儀も御与奪なさるべき(天下のことも任せよう)」と信忠を激賞し、武田領の甲斐・信濃の統治も一任した。
しかし同年6月、中国地方を攻める羽柴秀吉の後詰めに信長とともに向かう途上、明智光秀の謀叛により信長が討たれる。
信忠は本能寺へ救援に向かったが、明智軍に完全に包囲されていたため断念し、京都所司代・村井貞勝(むらい・さだかつ)や斎藤長龍(さいとう・ながたつ)らわずかな手勢とともに二条御所へ立てこもった。
間もなくここも明智軍に包囲され、奮戦するも衆寡敵せず父の後を追い自害した。享年26。
自害に先立ち遺骸を隠すよう命じたため、信長と同じくついに首は発見されなかった。
~信忠の最期~
本能寺の変において、信長は光秀の謀叛に気づいた時、すでに退路を絶たれていたが、信忠には脱出の隙が残されていた。
しかし信忠は「これほどの謀叛を企む者が京を封鎖していないわけがない」と早々に諦め、玉砕を遂げた。
だが明智軍は京を封鎖しておらず、信忠に同行していた織田有楽斎(おだ・うらくさい)や前田玄以(まえだ・げんい)は無事に脱出しているし、なりふり構わなければ二条御所にいた公家にまぎれて逃げる手もあった。
その後の織田家の没落ぶりを見ると、信忠の判断はいささか短慮だったと言わざるをえない。
その他「三河物語」によると謀叛に気づいた信長は真っ先に信忠が下手人だと疑ったというが、それを著した大久保彦左衛門(おおくぼ・ひこざえもん)は当時、堺にいた徳川家康にも同行しておらず国許に残っていたため真偽は怪しい。
また「士林泝洄」には、明智軍に囲まれ瀕死の重傷を負いながら奮闘する小姓に信忠が「勇鋭と言うべし。今生で恩賞は与えられないが、来世で授けよう」と声をかけ、感激した小姓は笑いながら斬り死にした、と記されている。
織田信行(おだ・のぶゆき)
尾張の人(1536?~1557)
両親ともに織田信長と同じで、1536年生まれとすれば信長の2歳下の弟にあたる。
また一般に信行の名で知られるが、自己発給文書では信勝(のぶかつ)、達成(たつなり)、信成(のぶなり)しか確認できず、織田信勝の名でも著名。
1551年、父・織田信秀(おだ・のぶひで)の葬儀の際、信長は位牌に抹香を投げつけるという奇行を示したが、信行は対照的に礼儀正しい姿を見せたため、うつけの悪名高い信長の跡取りを危ぶんでいた重臣らは、信行に跡を継がせるべきだとの念を強くした。
信行もまんざらではなく、1555年頃から代々の当主が名乗ってきた弾正忠を、信長を差し置き使い始める。
同年、弟の織田秀孝(おだ・ひでたか)が叔父・織田信次(おだ・のぶつぐ)の前を下馬せずに通り過ぎようとしたところ、秀孝だと気付かずに信次の家臣が射殺する事件が起こった。
信行は激怒し、兵を出して信次の城下を焼き払ったが、信長は「秀孝にも非がある」と信次を赦した。
重臣らはこれを聞くと、信行の肉親の情にほだされて、ますます当主にすべきと考えた。
1556年、信長の義父(妻・濃姫の父)で支援者でもあった斎藤道三(さいとう・どうさん)が嫡子・斎藤義龍(さいとう・よしたつ)に敗れ戦死すると、信行は柴田勝家、林秀貞(はやし・ひでさだ)・林通具(はやし・みちとも)兄弟の後ろ盾を得て挙兵し、信長領へ攻め入った。
だがうつけ者だったはずの信長は卓越した将才を見せて柴田勝家を撃破し、自ら林通具の首を挙げた。
信行は居城へ逃げ帰り、母・土田御前(つちだ・ごぜん)の取り成しで勝家、林秀貞ともども赦免された。
だが翌1557年、今度は岩倉織田家の当主・織田信安(おだ・のぶやす)とともに信行はまたも謀叛を企てた。
しかし前年の敗北で家中での地位が落ち、また信長の実力を見直していた柴田勝家は、密かに信長へそれを通報した。
信長は自身が重病であるという偽報を流し、信行に真偽を問いただされた勝家も「今ならたやすく家督を奪える」と答えたため、信行は兄の見舞いへ赴き、それを待ち構えていた信長によって暗殺された。
その最期は諸説あるが河尻秀隆(かわじり・ひでたか)あるいは池田恒興(いけだ・つねおき)に討たれたとも、信長に斬りかかるも返り討ちにあい自刃したとも伝えられる。
幼い息子は土田御前の嘆願によって助命され、長じると津田信澄(つだ・のぶすみ)と名乗り一門衆でも第5位に上ったが、明智光秀の娘をめとっていたため本能寺の変後、信長の三男・織田信孝(おだ・のぶたか)によって暗殺された。
織田家の家老。森蘭丸や森長可(もり・ながよし)らの父。
愛妻家で六男三女はすべて正室えいとの間にもうけた。
通称は三左衛門。十文字槍の名手で「攻めの三左」と呼ばれた。
はじめは美濃の守護大名・土岐家(一説には斎藤家の家臣・長井家とも)に仕えたが、斎藤道三(さいとう・どうさん)により土岐家が滅ぼされ、1554年頃に織田家に仕えた。
織田信長と弟の織田信行(おだ・のぶゆき)との家督争いでは信長方につき、1555年には敵対する織田信友(おだ・のぶとも)を討った。
織田家の主要な戦のほとんどに参戦し、上洛戦では柴田勝家とともに先鋒を務め、姉川の戦いでは本陣まで肉薄した磯野員昌(いその・かずまさ)の進撃を止める活躍を見せた。
また多くの発給文書が残されており、戦働きだけではなく政務にも深く携わっていたと見られる。
同1570年、摂津に遠征した信長軍の背後を狙い浅井・朝倉連合軍が出撃したとの報を受けた可成は、宇佐山城から出ると坂本に陣取り街道を封鎖した。
緒戦は制したが石山本願寺の命を受けた比叡山延暦寺の僧兵が敵方に加わると劣勢に陥り、いったんは朝倉軍を押し返すものの、衆寡敵せず信長の弟・織田信治(おだ・のぶはる)らとともに討ち死にした。享年48。
しかし可成が数日にわたり足止めし、その死後も家臣らが宇佐山城を守り抜いたため、浅井・朝倉連合軍は信長軍の背後をつくことはできなかった。
その後、信長は延暦寺の懐柔を図るも拒絶されたため比叡山を焼き討ちした。
これには可成の弔い合戦の意も含まれていたようで、城下町も焼き払ったものの、同所にある可成が葬られた寺院だけは手出しされなかったという。
可成の長男・森可隆(もり・よしたか)は父に先駆け初陣で戦死。森蘭丸・坊丸(ぼうまる)・力丸(りきまる)らは本能寺で信長とともに死に、森長可も長久手の戦いで敗死した。
末子の森忠政(もり・ただまさ)だけが生き残り徳川幕府で18万石を得て、転封されながらも幕末まで大名として存続した。
沢彦宗恩(たくげん・そうおん)
出身地不明(??~1587)
臨済宗の僧。織田家に仕えた。
若い頃は諸国を行脚していたという。
織田家の家老・平手政秀(ひらて・まさひで)の依頼で織田信長の教育係となる。また自刃した平手政秀の菩提を弔うため信長が建立した政秀寺の開山も務めている。
信長が美濃を攻略すると、稲葉山城下の井ノ口の改名を進言し、中国・周の故事にならい3つの候補を挙げ、信長は「岐阜」を選んだ。
またこの頃から信長が使用し始めた「天下布武」も沢彦の進言によるもので、そもそも「信長」の名付け親だともいう。
信長の隠れた助言者という立場から、徳川家康における南光坊天海(なんこうぼう・てんかい)や以心崇伝(いしん・すうでん)のように影の参謀だったとする説もあるが、しかしこれらの業績は「政秀寺古記」がほとんど唯一の史料であり、沢彦宗恩という人物が実在はしていただろうが、どこまでが事実かはわからない。
平手政秀(ひらて・まさひで)
尾張の人(1492~1553)
織田信長の父・織田信秀(おだ・のぶひで)の代からの重臣で主に外交を担当した。
茶道や和歌に通じ、山科言継(やましな・ことつぐ)に賞賛されるほどだった。
1534年、信長が誕生すると傅役となり、1548年には美濃の大名・斎藤道三(さいとう・どうさん)との和睦を成立させ、さらに道三の娘・濃姫と信長の婚姻をまとめ上げた。
しかし1553年、織田信秀の死で家中が揺れる中、突如として自刃して果てた。享年62。
自刃の理由は諸説あり、創作でよく採用されるのは当時うつけ者として奇行を繰り返していた信長への諌死であったという説。
政秀の長男の乗騎を信長が所望したところ「武士には馬が必要である」と拒絶され、信長は父の政秀を逆恨みし、不仲になった末にやはり諌死した説。
信秀死後の家督争いで家中が二分され、政争に敗れた末の悶死説、と様々。
いずれにしろ信長は政秀の死後も行状を改めなかったが、沢彦宗恩(たくげん・そうおん)に開山させ政秀寺を建立し、菩提を弔った。
また政秀の子らは変わらず信長に仕え、子(孫ともされる)の平手汎秀(ひらて・ひろひで)は三方ヶ原の戦いで徳川家康の援軍に赴き戦死。長子も翌年に戦死したため平手家の嫡流は途絶えた。
筆頭家老の佐久間信盛(さくま・のぶもり)を追放する際に信長は「平手汎秀を見殺しにした」ことを理由に挙げており、また政秀の娘を弟・織田有楽斎(おだ・うらくさい)に嫁がせており、政秀死後の平手家を気に掛けていたことがうかがえる。
織田信秀(おだ・のぶひで)の次男または三男として生まれる。早くから嫡子とされたが、子供のころから奇矯な行動が目立ち「大うつけ」と呼ばれた。そのため父・信秀が1551年に没すると、織田家当主の信友(のぶとも)は信長の弟・信行(のぶゆき)を擁立し、家督を争うことに。
柴田勝家、丹羽長秀(にわ・ながひで)、林秀貞(はやし・ひでさだ)ら多くの重臣が信行側についたが、信長は大うつけの仮面を捨て去り、連戦連勝を重ね信友・信行を討ち尾張統一を成し遂げた。
1560年、今川義元が大軍を率いて尾張に攻め込むが、信長は圧倒的な兵力差をくつがえし、桶狭間で義元を討ち取った。義元を失った今川家は衰退し、松平元康(まつだいら・もとやす 後の徳川家康)は三河で独立し、幼なじみの信長と同盟を結んだ。
後顧の憂いを断った信長は美濃攻略に着手。義父・斎藤道三(さいとう・どうさん)を討った義龍(よしたつ)もすでに亡く、内部分裂していた斎藤家になすすべはなく、1567年に当主の斎藤龍興(さいとう・たつおき)を追放し、美濃を手に入れた。信長はこの頃から、まだ尾張・美濃二ヶ国の領主にすぎないにも関わらず「天下布武」の朱印を用い、天下統一を目指すことを宣言した。
翌年、京を追放された足利義昭(あしかが・よしあき)が信長を頼り落ち延びてくると、義昭を征夷大将軍として担ぎ上げ、上洛を開始。南近江の六角義賢(ろっかく・よしかた)を破り、都を牛耳っていた三好義継(みよし・よしつぐ)、松永久秀(まつなが・ひさひで)らは降伏し、三好三人衆は阿波へと逃れていった。京をおさえた信長はついに織田政権を誕生させた。
しかし将軍・義昭との関係はすぐに悪化し、義昭は有力大名に号令をかけ「信長包囲網」を仕掛ける。それにより朝倉義景(あさくら・よしかげ)と戦っていた信長は、妹婿の浅井長政に背後を襲われ敗走。これは信長の生涯でも数少ない敗戦である。信長は家康との連合軍で、姉川の戦いにおいて浅井・朝倉連合軍を撃破するものの、本願寺(ほんがんじ)の援軍を得た三好家の反攻や、延暦寺や長島一向一揆の蜂起に苦しめられ、やむなく浅井・朝倉と和睦を結ぶ。武田信玄も東美濃に攻め込み、家康は三方ヶ原で大敗し、窮地に陥ったものの、信玄が急死すると、運は再び信長のもとに回ってくる。
京から義昭を追放すると、浅井・朝倉を攻め、これをともに討ち取る。三好も滅亡させ、信長は一気に版図を広げることに成功した。
長島一向一揆も鎮圧し、長篠の戦いで武田勝頼(たけだ・かつより)を敗走させると、1575年には家督を嫡子の信忠(のぶただ)に譲り隠居し、安土城の築城にとりかかったが、実権は依然として信長が握っていた。
1576年、上杉謙信が信長との対決姿勢を打ち出すと、それに本願寺、毛利輝元(もうり・てるもと)、雑賀孫市、松永久秀、波多野秀治(はたの・ひではる)らが呼応し第二次信長包囲網が布かれる。しかしこれも謙信の急死により瓦解し、順次撃破されていった。
この頃には織田家の戦力は多方面に同時に軍を展開できるだけのものとなり、信長は各地に重臣を派遣し、大名と同等の権力と領地を与え、独自に侵攻を命じた。通常の大名ならば譜代の重臣や一門衆にのみ任せるものだが、徹底した能力主義の信長は、卑しい出自の秀吉や出自すら不明の滝川一益(たきがわ・かずます)、浪人あがりの明智光秀らにも実権を与えた。
1580年には長らく抵抗をつづけた本願寺も降伏、ついで1582年には武田も滅亡し、中国の毛利、四国の長宗我部、北陸の上杉ら相手にも優勢に戦いを進め、いよいよ天下統一も目前に迫ったが、1582年6月2日、明智光秀の突然の反乱により、本能寺で生涯を閉じた。
その遺体は炎の中に消えついに見つかることはなく、第六天魔王を自称した信長にふさわしい最期だった。