三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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織田信長の長男。幼名は信長に名付けられた奇妙丸(きみょうまる)。1572年に元服しはじめは信重(のぶしげ)と名乗った。
元服以来、多くの戦で功を立てた。特に1575年、武田方の岩村城攻めでは総大将を務め、夜襲をかけてきた武田軍を返り討ちにし、守将の秋山信友(あきやま・のぶとも)を降伏させた。
翌1576年、信長から家督を譲られ美濃東部と尾張の一部の統治を任され岐阜城主となる。実権は依然として信長が握っていたが、一門衆での序列は1位、1577年には紀伊征伐、反乱した松永久秀(まつなが・ひさひで)との戦いで総大将となり、安土城に居を構える信長に代わり諸将を統帥するようにもなった。
1578年、信長の援助を受け蜂起した尼子勝久(あまご・かつひさ)の籠もる播磨・上月城に毛利軍6万が迫ると、信忠は羽柴秀吉、明智光秀、丹羽長秀(にわ・ながひで)、滝川一益(たきがわ・かずます)ら7万の大軍を率い援軍に赴いた。
しかし戦線が膠着したため信長は撤退を指示し、上月城は陥落した。その際には采配をめぐり信長と激しく口論したとも伝わる。
1580年、筆頭家老の佐久間信盛(さくま・のぶもり)と美濃三人衆の一人・安藤守就(あんどう・もりなり)が追放されると彼らの領地を任され、尾張・美濃のほぼ全域を統治した。
1582年の武田征伐でも総大将となり、徳川・北条軍とともに武田領へ侵攻。信長は深入りを避けるよう命じたが、信忠は現地の情勢を見極めると命令を無視して電撃戦を展開。武田軍は信忠軍の進撃の早さに対応できず、信長本隊の到着を待たずして武田勝頼(たけだ・かつより)を自害へ追い込み、武田家を滅亡させた。
信長は「天下の儀も御与奪なさるべき(天下のことも任せよう)」と信忠を激賞し、武田領の甲斐・信濃の統治も一任した。
しかし同年6月、中国地方を攻める羽柴秀吉の後詰めに信長とともに向かう途上、明智光秀の謀叛により信長が討たれる。
信忠は本能寺へ救援に向かったが、明智軍に完全に包囲されていたため断念し、京都所司代・村井貞勝(むらい・さだかつ)や斎藤長龍(さいとう・ながたつ)らわずかな手勢とともに二条御所へ立てこもった。
間もなくここも明智軍に包囲され、奮戦するも衆寡敵せず父の後を追い自害した。享年26。
自害に先立ち遺骸を隠すよう命じたため、信長と同じくついに首は発見されなかった。
~信忠の最期~
本能寺の変において、信長は光秀の謀叛に気づいた時、すでに退路を絶たれていたが、信忠には脱出の隙が残されていた。
しかし信忠は「これほどの謀叛を企む者が京を封鎖していないわけがない」と早々に諦め、玉砕を遂げた。
だが明智軍は京を封鎖しておらず、信忠に同行していた織田有楽斎(おだ・うらくさい)や前田玄以(まえだ・げんい)は無事に脱出しているし、なりふり構わなければ二条御所にいた公家にまぎれて逃げる手もあった。
その後の織田家の没落ぶりを見ると、信忠の判断はいささか短慮だったと言わざるをえない。
その他「三河物語」によると謀叛に気づいた信長は真っ先に信忠が下手人だと疑ったというが、それを著した大久保彦左衛門(おおくぼ・ひこざえもん)は当時、堺にいた徳川家康にも同行しておらず国許に残っていたため真偽は怪しい。
また「士林泝洄」には、明智軍に囲まれ瀕死の重傷を負いながら奮闘する小姓に信忠が「勇鋭と言うべし。今生で恩賞は与えられないが、来世で授けよう」と声をかけ、感激した小姓は笑いながら斬り死にした、と記されている。