三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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織田信行(おだ・のぶゆき)
尾張の人(1536?~1557)
両親ともに織田信長と同じで、1536年生まれとすれば信長の2歳下の弟にあたる。
また一般に信行の名で知られるが、自己発給文書では信勝(のぶかつ)、達成(たつなり)、信成(のぶなり)しか確認できず、織田信勝の名でも著名。
1551年、父・織田信秀(おだ・のぶひで)の葬儀の際、信長は位牌に抹香を投げつけるという奇行を示したが、信行は対照的に礼儀正しい姿を見せたため、うつけの悪名高い信長の跡取りを危ぶんでいた重臣らは、信行に跡を継がせるべきだとの念を強くした。
信行もまんざらではなく、1555年頃から代々の当主が名乗ってきた弾正忠を、信長を差し置き使い始める。
同年、弟の織田秀孝(おだ・ひでたか)が叔父・織田信次(おだ・のぶつぐ)の前を下馬せずに通り過ぎようとしたところ、秀孝だと気付かずに信次の家臣が射殺する事件が起こった。
信行は激怒し、兵を出して信次の城下を焼き払ったが、信長は「秀孝にも非がある」と信次を赦した。
重臣らはこれを聞くと、信行の肉親の情にほだされて、ますます当主にすべきと考えた。
1556年、信長の義父(妻・濃姫の父)で支援者でもあった斎藤道三(さいとう・どうさん)が嫡子・斎藤義龍(さいとう・よしたつ)に敗れ戦死すると、信行は柴田勝家、林秀貞(はやし・ひでさだ)・林通具(はやし・みちとも)兄弟の後ろ盾を得て挙兵し、信長領へ攻め入った。
だがうつけ者だったはずの信長は卓越した将才を見せて柴田勝家を撃破し、自ら林通具の首を挙げた。
信行は居城へ逃げ帰り、母・土田御前(つちだ・ごぜん)の取り成しで勝家、林秀貞ともども赦免された。
だが翌1557年、今度は岩倉織田家の当主・織田信安(おだ・のぶやす)とともに信行はまたも謀叛を企てた。
しかし前年の敗北で家中での地位が落ち、また信長の実力を見直していた柴田勝家は、密かに信長へそれを通報した。
信長は自身が重病であるという偽報を流し、信行に真偽を問いただされた勝家も「今ならたやすく家督を奪える」と答えたため、信行は兄の見舞いへ赴き、それを待ち構えていた信長によって暗殺された。
その最期は諸説あるが河尻秀隆(かわじり・ひでたか)あるいは池田恒興(いけだ・つねおき)に討たれたとも、信長に斬りかかるも返り討ちにあい自刃したとも伝えられる。
幼い息子は土田御前の嘆願によって助命され、長じると津田信澄(つだ・のぶすみ)と名乗り一門衆でも第5位に上ったが、明智光秀の娘をめとっていたため本能寺の変後、信長の三男・織田信孝(おだ・のぶたか)によって暗殺された。