三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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成瀬正成(なるせ・まさなり)
三河の人(1567~1625)
幼少の頃から徳川家康に仕える。
1584年、小牧・長久手の戦いで初陣を飾り、敵陣に飛び込み兜首を一つ挙げ、家康から5百石と脇差を与えられた。
翌年には根来衆50名を17歳にして任され、後に「根来組」として名を馳せる鉄砲隊の前身となった。
1592年、文禄の役を前に大坂で馬揃えをした際、その勇姿が豊臣秀吉の目に留まり5万石で誘われたが「二君に仕えるくらいならば腹を切る」と涙ながらに固辞したという逸話が伝わる。
1600年、関ヶ原の戦いでは家康の使い番とともに根来組を率いて先鋒を務め、その武功から堺奉行に抜擢され、後には本多正純(ほんだ・まさずみ)、安藤直次(あんどう・なおつぐ)とともに幕政を取り仕切った。三人の中で正成は最年少である。
1610年、家康の九男・徳川義直(よしなお)の附家老に任じられた。
その際、家康はもし義直が謀叛を企んだらすぐに知らせるよう言い含めたが、正成は「家老として付けられるからには主君は義直様一人。義直様が謀叛するなら私は従うまでです」と断り、その忠誠心に家康はかえって感心したという。
正成は幼い義直に代わり藩政や戦場での采配、同じく附家老だった平岩親吉(ひらいわ・ちかよし)が没すると平岩家の兵の指揮と家老役、さらに安藤直次とともに幕府軍の軍議、諸大名の統制と八面六臂の活躍をした。
1614年、大坂冬の陣の後に徳川家と豊臣家が和睦すると、和睦の条件として付けられた大坂城の堀の埋め立てを正成や松平忠明(まつだいら・ただあき)らが担当した。
惣掘(外堀)の埋立てだけだったはずが、正成は全ての堀を埋め始めたため大坂方が抗議すると「総堀(全ての堀)の埋め立てと聞いている」ととぼけて工事を強行し、翌年の夏の陣で大坂方は籠城戦を封じられた。
1625年、59歳で没した。
病床で明日をも知れない身となった正成は、家康の眠る日光東照宮に詣でたいと言い張り家臣を困らせた。
やむなく布団を板に乗せ担ぎ上げると、駕籠に乗せられたと思い正成は「日光はまだか」と尋ね、家臣は布団を揺らしながら「もうすぐです」と答えた。それを繰り返すうちに正成は息を引き取ったという。
その後も成瀬家は代々、尾張徳川藩の附家老を務めた。
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徳川頼宣(とくがわ・よりのぶ)
京の人(1602~1671)
徳川家康の十男。紀州徳川家の祖。
2歳にして常陸水戸20万石の藩主となる。水戸には入らず家康のもとで養育され、1610年には9歳で駿河府中50万石に加増された。
1614年、大坂冬の陣で初陣を飾り、翌年の夏の陣では先陣を希望するも却下された。家臣は「まだお若いからいくらでも機会はある」と慰めたが頼宣は「14歳の時が2度あるものか」と憤り、居並ぶ諸大名を感嘆させ、家康も「今の一言が槍(手柄)である」と褒めたと伝わる。
1617年、すでに家康も加藤清正も没していたが、婚約していた清正の五女を正室とした。
1619年、紀伊和歌山55万石に転封となった。これは二代将軍・徳川秀忠による権威付けの一環とする説があり、家康が直々に縁の深い駿府を与えた弟ですら、将軍家は意のままにできると内外に示すための処置であるとされる。なお駿府はその後秀忠の子に与えられており、説の裏付けとなっている。
ともあれ頼宣は数々の政策を打ち出し紀州藩の繁栄の基礎を築いた。
時は下り1651年、由井正雪の乱が起こると、正雪が頼宣の文書を偽造し用いていたため、謀叛の疑いを掛けられた。
幕府が厳しく尋問すると、頼宣は「外様大名ではなく私ならば天下も安泰ではないか」と言い放った。外様ならば事実はどうあれ処罰せざるを得ず、それを契機に反乱の懸念もあるが、私が裏切るわけはない、という意味である。
堂々たる釈明で嫌疑は晴れたが、その戦国武将気質を嫌われてか、そのまま江戸に留め置かれ10年もの間、紀州へ帰れなかった。
1667年に隠居するまで実に47年にわたり藩政を執り、70歳で没した。
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徳川義直(とくがわ・よしなお)
京の人(1601~1650)
徳川家康の九男。尾張徳川家の祖。
3歳にして甲斐甲府25万石の藩主となる。甲斐には入らず家康のもとで養育され、藩政は傅役でもある平岩親吉(ひらいわ・ちかよし)が担当し、家臣には武田家の旧臣が多く配された。
1607年、死去した松平忠吉(まつだいら・ただよし)に代わり尾張清州に移され、親吉ら家臣団もそれに付き従った。
実際に義直が尾張に入ったのは大坂の陣で初陣を済ませ、家康も没した後の1616年である。
長じると自ら藩政に携わり数々の政策を打ち出し当地の発展に尽くし、病を得て50歳で没した。
義直は文武両道に優れ、多くの印象的な逸話が伝わる。
勉学を好み、家康から多くの書物を譲り受け、それに自ら収集した書誌を合わせ「蓬左文庫」と称し「決して門外不出にすべからず」と命じ広く公開した。これが日本における図書館の始まりとされる。
柳生利厳(やぎゅう・としよし)に新陰流の相伝を受け、寝る時には襲撃を警戒して常に脇差を握り、目を開け絶えず手足を動かしながら眠る術を身につけていたという。
一方できわめて剛直かつ論理的な性格で、筋が立たない話には激しく逆らったため、甥で「生まれながらの将軍」を自認する徳川家光とはたびたび衝突した。
家光が病に伏した時、義直は大軍を率いて江戸に向かい、すわ謀叛かと幕府を慌てさせた。
しかしこれはもし家光が没すれば、この時にはまだ跡継ぎがいなかったため家督争いが起こる懸念があり、万一に備えて江戸城を守るための進軍であった。
1642年、家光の子(後の4代将軍・徳川家綱)が初詣を行った時、義直ら御三家にも同行するよう通達があった。
しかし義直は「無位無官の者(家綱)に官位のある者が礼をすることはかえって礼に反する」とこれを平然と拒絶したという。
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徳川秀忠(とくがわ・ひでただ)
遠江の人(1579~1632)
徳川家康の三男。江戸幕府の第二代征夷大将軍。
長兄・信康(のぶやす)は秀忠の生年に切腹し、次兄の秀康(ひでやす)は豊臣秀吉の養子に出され、後に結城家を継いだため三男ながら早くから後継者として育てられた。
1590年、元服すると小田原征伐の際に実質的に人質として秀吉に預けられ、一字拝領し秀忠と名乗った。
織田信雄(おだ・のぶかつ)の娘で秀吉の養女をめとったが、間もなく信雄が秀吉の逆鱗に触れ改易となったため離縁された。
1595年、秀吉の養女で浅井長政の三女・江(ごう)と再婚した。秀吉は浅井長政の長女・淀殿(よど)を側室にしているためいちおう秀吉とは義兄弟となる。
1600年、関ヶ原の戦いで初陣となるが、4万近い大軍を率い中山道を進み信濃上田城を攻めるものの、わずか2千の真田昌幸(さなだ・まさゆき)・幸村父子に翻弄され、また悪天候で家康の進軍命令も届かず、関ヶ原の本戦に間に合わなかった。
諸将の制止を無視して城攻めを決めた秀忠に家康は激怒し、体調不良を名目に面会を断ったという。
それでも父の信頼は揺るがず1603年、征夷大将軍となった家康は秀忠を次期将軍候補が任官される右近衛大将に任命させ、徳川家による将軍職の世襲を確定させた。
1605年、家康はわずか2年で将軍職を秀忠に譲る。
家康は隠居し「大御所」と呼ばれるが、実権は依然として握り、秀忠との二頭政治を布いた。
主に秀忠は親藩・譜代大名を統括し、家康は外様大名を担当したという。
1614年、大坂冬の陣では家康とともに出陣した。その際、関ヶ原の遅参を反省してか強行軍で進撃したため、大坂に着いた時には将兵は疲労困憊で、かえって家康に叱責されたとする逸話も伝わる。
翌1615年、夏の陣では真田幸村、毛利勝永(もうり・かつなが)、大野治房(おおの・はるふさ)らの突撃により本陣まで切り崩された。
秀忠の馬廻りも多くが戦死し、一時は秀忠と柳生宗矩だけが残される窮地に陥ったが、宗矩が7人を斬り捨て九死に一生を得た。
翌1616年、家康が没すると名実ともに徳川家の中枢に立ち、酒井忠世(さかい・ただよ)、土井利勝(どい・としかつ)ら有能な側近で周囲を固め、福島正則ら外様の有力大名、本多正純(ほんだ・まさずみ)ら重臣中の重臣、弟の松平忠輝(まつだいら・ただてる)らをも咎があれば改易し、弟の徳川頼宣(よりのぶ)らを江戸から出して尾張・紀伊・水戸に配し、地方を固めるとともに兄弟すら将軍の命令には逆らえないという威権を表した。
また娘の和子(かずこ)を後水尾天皇に嫁がせ朝廷ににらみを利かせ、鎖国政策の手始めとして平戸・長崎以外への外国船の寄港を禁じた。
1623年、将軍職を嫡子の徳川家光に譲るが、父と同じく大御所として二頭政治を布いた。
1630年には孫娘が明正天皇として即位し、秀忠は天皇家の外戚となった。
1632年に死去した。
1958年、霊廟の移築のため秀忠の遺体が掘り起こされ調査したところ、推定身長は当時の平均に近い157.6センチ、遺骨には多くの銃創が残っており、早くから家康の後継者に目され参戦経験も少なく、武勇に優れた印象もない秀忠だが、骨にまで残るほど激しい銃撃にさらされる前線で果敢に指揮を取っていた、という意外な姿がしのばれた。
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土井利勝(どい・としかつ)
三河の人(1573~1644)
徳川秀忠の腹心として絶大な権勢をふるった。
水野信元(みずの・のぶもと)の三男に生まれたが、利勝が3歳の時に父は武田家と内通した嫌疑を掛けられ、織田信長の命で徳川家康によって処刑された。
信元は家康の叔父(母の弟)にあたり、幼い従弟の利勝を哀れんだ家康は、土井家の養子に迎えさせた。
土井家には男子がいたが家康の親類という血筋からか利勝が家督を継いだ。
もともと利勝は土井家の実子であるという説、はては家康の落胤説もあり、当時の家康は正室と対立しており、また我が子同然に利勝をかわいがったとされ、徳川家の公式記録である「徳川実紀」にすら落胤説は記されている。
なお利勝自身はこの落胤の噂を酷く嫌っていたとされる。
1579年、徳川秀忠が生まれると、29歳の安藤重信(あんどう・しげのぶ)、23歳の青山忠成(あおやま・ただなり)に並び7歳の利勝が傅役を命じられた。
その後は秀忠の腹心として頭角を現していき、1602年には下総小見川1万石を得て大名に列した。
1610年に本多忠勝が没すると、家康の命で秀忠の老中に任じられ、政治面のほぼ全権を握った。
1615年大坂夏の陣では戦功も立て、同年には秀忠の長男・徳川家光の傅役を青山忠成の子・青山忠俊(ただとし)や酒井忠世(さかい・ただよ)らとともに命じられる。
1616年、秀忠とともに一国一城令と武家諸法度を制定し、家康が没すると葬儀を任された。
1622年、家康の側近の筆頭格だった本多正純(ほんだ・まさずみ)が失脚した。
利勝の策謀ともささやかれ、最大のライバルを蹴落とした利勝は名実ともに幕府の最高権力を手中にしたと言える。
1623年、家光が将軍に就任すると、慣例では側近も入れ替わるのが常だったが利勝、青山忠俊、酒井忠世は揃って留任した。
秀忠はその数年前に譲位を考えていたが利勝の進言により遅れさせたともいう。
1635年、武家諸法度に参勤交代などを加えて幕府の支配力を強めた。また徳川忠長(ただなが)と加藤忠広(かとう・ただひろ)が改易された背景には、利勝がわざと家光との不仲を装い、諸大名に謀叛を呼びかけたところ、忠長と忠広だけが家光に密告しなかった、とする説がある。
その後も明治中頃まで用いられる寛永通宝の作成など主要な政治運営に携わり、石高も14万石に上ったが1637年、中風を患ったため老中の辞任を申し出た。
家光は慰留したものの大老に任じ、名誉職として実務からは遠ざけ療養に努めさせた。
1644年、72歳で没した。
利勝が頭角を現していった頃、秀忠の周囲に優れた人材は多く、頭脳や能力で利勝に優っている者もいたが、実直さと公明正大さで利勝は抜きん出ており、その言葉はしばしば模範や教訓に用いられたという。
※アイコンは周処
田中吉政(たなか・よしまさ)
近江の人?(1548~1609)
出自や前半生は不明で、筑後柳川藩主となった後も近江浅井郡の住人に限られる行事の仕切り役を務めたことから、近江郡の農民とする説がある。
1582年頃に羽柴秀吉の甥・秀次(ひでつぐ)の家老となった。
1585年、秀次が近江八幡43万石を与えられると、他の重臣は周辺の城を任される中、吉政は筆頭家老として秀次の側近くに仕え政務を取り仕切った。
この近江八幡を皮切りに、尾張清州、三河岡崎、筑後柳川と行く先々の任地で抜群の行政手腕を見せ、近代的な都市計画を進めたという。
1590年、小田原征伐の後に織田信雄(おだ・のぶかつ)が失脚すると、空いた尾張に秀次が移された。
吉政にも三河岡崎5万7千石が与えられ、双方の政務に関わった。
1595年、秀次も失脚し多くの一族・重臣とともに自害を命じられたが、吉政は「よく秀次を諫言していた」としてかえって加増された。
秀吉も没するといち早く徳川家康に接近し、1600年、関ヶ原の戦いでは福島正則らとともに先鋒を務め岐阜城を落とし、本戦でも石田三成の本隊と戦った。
勝利後には吉政の娘婿とも言われ、ともに熱心なキリシタンでもある明石全登(あかし・てるずみ)の逃亡に手を貸したとされるが、一方で山中に潜伏した石田三成を捕らえる大手柄を立てた。
三成は捕縛後も手厚く遇されたことに感謝し、吉政に秀吉から賜った脇差を授け「他の者に捕まるくらいならお前でよかった」と言ったといい、この脇差は現存している。
関ヶ原の武功により筑後柳川32万石を与えられ、1609年に吉政は62歳で没した。
田中家は次代で無嗣断絶したが(キリスト教の禁教後も取り締まりが緩やかだったため改易されたとも言われる)他家の家臣として血は残している。
~~破天荒な男~~
農民上がりとも言われる吉政は、型にはまらない破天荒な数々の逸話で知られている。
はじめ宮部継潤(みやべ・けいじゅん)に仕えていた頃、茶店で酒を飲み、升を枕に昼寝していた。
するとそばにいた盲人が「一国一城の主になるとうそぶく御仁が升を枕にしたらせいぜい千石どまりでしょう」と忠告した。
吉政はもっともだと反省し、彼に酒と海老を振る舞った。
筑後柳川城主になった時、出迎えの群衆の中に吉政はその盲人の姿を見つけた。吉政はすぐさま検校として召し出し恩に報いたという。
田中家は複数の家紋を用いたが、そのうちの一つ「左巴」はもともと右巴だった。
袴を紺屋に染めさせたところ、手違いで逆向きにされてしまったが、咎めるどころかせっかくだからとそのまま家紋に採用した。
岡崎城主の頃、城下の見回りを日課としていて、領民と親しく口を利き、腹が減ると城から弁当を届けさせその場で食したため、大変慕われたという。
筑後柳川城主になると、城から付近を見回し、海を埋め立て支城を取り壊せば農地が広げられると気づき、すぐさま工事に取り掛からせた。農地拡大としての海の埋め立ても、支城の破却も当時としては画期的な考えである。
※アイコンは司馬朗
酒井忠勝(さかい・ただかつ)
三河の人(1587~1662)
徳川家康の重臣・酒井忠利(ただとし)の子。
1600年、関ヶ原の戦いで中山道を進む徳川秀忠に従い、14歳で初陣を踏んだ。
1620年、秀忠の命で後継者の徳川家光の付け家老になる。
若い頃の家光は夜間にたびたび城を抜け出し、辻斬りをしているという噂が立った。忠勝が密かに後をつけると小姓のもとへ忍んで行っていた。忠勝は草履を温めて待ち、それに気づいた家光は外出を控えるようになった。
家光と弟の徳川忠長(ただなが)の間で後継者争いが起こった。家光が病に倒れた時、忠長のもとへ豪勢な料理が届けられようとするのを見て「兄が病気な時に食事ができるものか」と激怒し忠勝は料理を下げさせた。
秀忠に無礼討ちされても構いませんと釈明に行くと、逆に「お前は徳川家を支える第一の人物だ」と讃えられた。
それらのことから家光は忠勝に絶大な信頼を注ぎ「我が右手は讃岐(忠勝)、左手は伊豆(松平信綱(まつだいら・のぶつな))とまで呼び、他の家臣とは寝間着姿で話すことがあっても、忠勝と会う時には必ず正装で対したという。
また家光が駿府18万石への加増を打診すると「家康公の旧領はもったいない」と固辞され、ならばと甲府24万石を打診したがやはり断られた。
理由を聞かれた忠勝は「大禄を得れば驕りが生じます。私が驕らなくても次代の者が驕るでしょう。それに大老の私が12万石なら、私より下位の者は加増を遠慮します」と答えた。しかし晩年には危急の際に12万石では大した兵を集められず、もう少しもらっておくべきだったかとも述懐している。
1624年には土井利勝(どい・としかつ)とともに老中となり、1627年に父が没すると遺領を継ぎ、その後も各地に加増を重ね1634年には12万石に上った。
1638年、土井利勝とともに老中職を解かれ、大事を議する時のみ登城を命じられた。これが後の大老職のはじまりとなった。
1651年、家光が没し11歳の徳川家綱(いえつな)が跡を継いだ。
忠勝は諸大名を集めると「幼君が立ち、もし天下を望む者があれば好機である」と言った。保科正之(ほしな・まさゆき)がそれに応じ「いるなら名乗り出よ。踏み潰して家綱公の就任祝いにしてくれる」と続けると、諸大名は平伏した。
ある時、家綱は庭の大石を外へ出すよう命じた。忠勝は「この大きさでは塀を崩すことになり大工事になります」と断った。
松平信綱は「石が邪魔なら穴を掘って埋めてしまえばいい」と知恵を出したが、忠勝は「石はそのままにしておいても害はない。物事が全て自分の思い通りに行くと考えればのちのち難儀が生じるから、あえて家綱様の命令を断ったのだ」と返し信綱を感服させた。
1656年に四男の酒井忠直(ただなお)に家督を譲り隠居し、1662年に76歳で没した。衣服を整え正座したまま息絶えたという。
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高力清長(こうりき・きよなが)
三河の人(1530~1608)
高力家は松平家に仕えていたが1535年に主君と父、祖父が相次いで殺され、6歳の清長は叔父に育てられた。
1552年から松平家を継いだ後の徳川家康に仕える。家康は今川家への人質として駿河に送られ、清長もそれに従った。
1560年、桶狭間の戦いで今川義元が討たれると家康は独立し、尾張の織田信長と同盟した。その同盟締結の際にも清長は家康に同行している。
1563年、三河一向一揆では多くの家臣が一揆方についたが清長は家康のもとを離れず、鎮圧後には仏像や経典の散逸を防ぎ、破壊された寺社を復元したため領民から「仏高力」と慕われた。
翌年には本多重次(ほんだ・しげつぐ)、天野康景(あまの・やすかげ)とともに三河岡崎の奉行に命じられその人柄から三者は「仏高力、鬼作左(重次)、どちへんなき(公平)は天野三郎兵衛」とうたわれた。
その後も遠江攻略戦、姉川の戦いなどで武功を立てた。1572年、三方ヶ原の戦いでも奮戦するが一族の者が数十名、命を落としたという。
1582年、本能寺の変で信長が討たれた時、家康は堺におり窮地に陥ったが、同行する清長らの働きにより無事に三河へ帰り着いた。この時、清長は殿軍を務め銃創を受けたという。
1584年、小牧・長久手の戦いの後に豊臣秀吉へ降伏する使者として立つと、秀吉に大いに気に入られ、以降は会うたびに豊臣姓や官位、脇差や和歌などを贈られた。
1590年、小田原征伐では北条家との交渉を担当し、戦後に家康が関東へ移封となると武蔵岩槻2万石を与えられた。同時に預け地として1万石も任されたが、慣例では自らの収入として勘定すべき預け地の1万石もそのまま年貢として家康に収めた。
また文禄・慶長の役では軍船の建造を命じられたがこの時も、余った建造費を家康に返還しようとし、感心されそのまま褒美として与えられたという。
1599年、嫡子に先立たれ、1600年の関ヶ原の戦い後に隠居すると孫の高力忠房(ただふさ)に家督を譲り隠居した。
1604年、または1608年に没した。享年はどちらも79歳とされる。
忠房もまた祖父に似て統治能力に優れ、徳川家光に見込まれて島原の乱後に同地を任され、見事に復興させている。
※アイコンは高堂隆
大久保彦左衛門(おおくぼ・ひこざえもん)
三河の人(1560~1639)
大久保忠世(ただよ)、忠佐(ただすけ)らの弟。八男で本名は大久保忠教(ただたか)。
兄に従い徳川家康に仕え、各地を転戦した。
1582年、高天神城の戦いでは、城主の岡部元信(おかべ・もとのぶ)が決死の突撃を仕掛けた時、まさか先頭に立つ彼が城主とは思わず、軽く槍を合わせただけで家臣に相手を任せてしまい、みすみす大将首を見逃したことを悔やんだという。
1590年、小田原征伐の後に家康が関東に移封となると、忠世は相模小田原を任され、その下で彦左衛門にも3千石が与えられた。
1600年、関ヶ原の戦いでは家康の本陣で槍奉行を務めた。
その頃、次兄の忠佐は駿河沼津2万石を治めていたが、一人息子を亡くしてしまい、彦左衛門を養子に迎え跡を継がせたいと打診した。
しかし彦左衛門は「自分の武功ではない」と固辞したため、忠佐の死後に沼津藩は無嗣改易となった。
忠世も没し、その嫡子の大久保忠隣(ただちか)も失脚し改易となると、彦左衛門も連座して改易された。
しかし家康の直臣の旗本としてすぐに復帰し、家康の死後も徳川秀忠・家光の奉行を務めた。
1635年頃から隠居し「三河物語」の執筆に専念したと思われ、1639年に80歳で没した。
死の間際に家光から5千石の加増を打診されたが「余命幾ばくもない自分にはありがたいが不要」とやはり固辞したと伝わる。
死後、「三河物語」をもとに数々の逸話が作られ、講談の英雄「天下の御意見番」として彦左衛門は庶民はもちろん武士にも人気を博した。
再三にわたり加増を固辞した一方で、家臣や浪人たちの仕官のため奔走するなど面倒見がよく、生前から周囲の者に慕われていたのも、その下地となっただろう。
しかし創作色の強い「三河物語」の記述は史実と混同されることも多く、後世の史家や戦国ファンにとっては虚実入り混じったノイズのように厄介な代物でもある。