三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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細川忠興(ほそかわ・ただおき)
京の人(1563~1645)
細川藤孝(ふじたか)の子。正室は細川ガラシャ。忠興の「忠」は父が仕えた織田信忠(おだ・のぶただ)からの偏諱である。
父ははじめ足利将軍家に仕えていたが、将軍・足利義昭(あしかが・よしあき)が織田信長に追放されると織田家に鞍替えした。
1577年、元服前の15歳で、後に岳父となる明智光秀に従い初陣を飾った。
信長からも将来を見込まれていたようで、光秀の三女・玉子(たまこ 後のガラシャ)をめとった際、九曜の紋を細川家の家紋とするよう命じたが、これは以前、信長の脇差しの柄に描かれた九曜の紋を忠興が気に入っていたのを覚えていたためとされる。
また1581年の京都御馬揃えにも19歳の若さで参加を許され、その際に信長が着た小袖は、忠興が献上したものだという。
だが1582年、光秀は本能寺で信長を暗殺した。
光秀は婿の忠興父子を傘下に置こうとしたが、父子はこれを拒絶し、藤孝は信長に弔意を表し剃髪した上に隠居し細川幽斎(ゆうさい)と号した。
さらに玉子(ガラシャ)を反逆者の一族として幽閉したため、光秀が味方に見込んだ筒井順慶(つつい・じゅんけい)らも様子見に回ってしまい、思うように戦力を集められなかった光秀は、中国地方から戻ってきた羽柴秀吉軍に敗れ戦死を遂げた。
その後は秀吉に仕え、小牧・長久手の戦い、九州・小田原征伐、文禄の役などで忠興は主力の一角を担った。
1595年、豊臣秀次(とよとみ・ひでつぐ)が切腹を命じられると多くの大名が連座して処罰を受け、細川家も秀次に多大な借金があったため嫌疑をかけられたが、家老の松井康之(まつい・やすゆき)が奔走し秀吉へ返済し、事なきを得た。
この時に多くの金子を用立てたのが徳川家康で、以降は徳川家との仲が親密となった。
また松井康之は秀吉に手腕を見込まれ18万石で大名に取り立てようと誘われたが、細川家の家臣だからと断ったという。
1598年、秀吉が没すると石田三成ら文治派と忠興・加藤清正・福島正則ら武断派の対立が深刻化し、忠興らが三成の屋敷を襲撃する事態にまで発展した。
三成は盟友・佐竹義宣(さたけ・よしのぶ)の助けで脱出したが、両陣営は決裂し1600年、ついに関ヶ原の戦いを招いた。
忠興は豊臣恩顧の外様大名の中でも有力株で、また父や妻が京におり、家康の東軍につけば三成率いる西軍にすぐさま人質に取られる立場だったため去就が注目されたが、いち早く東軍につくと表明したため、豊臣恩顧の多くの大名が後に続いたという。
ガラシャは人質に取られようとしたが拒絶し自害したため、他の大名の妻子たちもそれに続く姿勢を見せ、西軍は思うように人質が取れなくなった。
また父の幽斎も城を西軍に囲まれたが、日本一の文化・教養の知識を持つ幽斎を惜しんだ朝廷が勅命で停戦を命じ、幽斎を保護させた。
豊後の細川領ではかつて同地を治めた大友義統(おおとも・よしむね)が残党を率いて決起したものの、松井康之と有吉立行(ありよし・たてゆき)が防戦し、やがて黒田如水の援軍が駆けつけると大友軍は撃破された。
このように開戦前後で細川家は多くの目覚しい働きを見せ、本戦でも忠興は西軍主力とぶつかり136もの首級を挙げ勝利に貢献し、戦後には3倍もの加増を得た。
1615年、大坂夏の陣にも参戦した。
1620年、三男の細川忠利(ただとし)に家督を譲り58歳で隠居し、83歳で没するまで悠々と暮らした。
~天下一短気な男~
豊臣・徳川政権を通じて武断派の外様大名の代表的存在として知られる。
非常に気が短く「天下一の短気」と記されたり、若い頃には明智光秀に「降伏してくる者をむやみに殺すな」とたしなめられた。
その苛烈な性格は身内にも容赦なく、父の幽斎が関ヶ原の戦いに際し居城を大軍に囲まれ、勅命で明け渡したことにも腹を立て、一時は絶縁状態となった。
また妹が嫁いだ一色家を騙し討ちの末に敗残兵を皆殺しにし、出戻った妹の細川伊也(いや)には短刀で斬りつけられ、すんでのところで致命傷は避けたものの鼻に大きな傷が残ったという。
なお伊也も後に再嫁すると夫に「足を揉んでくれ」と頼まれたのに怒り実家に帰ったりと、兄譲りの気性の激しさである。
また長男の細川忠隆(ただたか)は、ガラシャが自害した際に忠隆の妻は無事に逃がされたと聞き激怒した忠興に離縁を命じられたが、それを断ったため廃嫡された。忠隆は後に妻を連れ祖父の幽斎のもとで隠居したという。
次男の細川興秋(おきあき)は忠隆の養子になっていた時期があったため、同じく忠興に疎まれた。家督は三男の細川忠利に譲られると決まり、代役で人質に出されるところを出奔し、浪人となった末に豊臣家に仕えた。
大坂の陣の後、家康は興秋を無罪としたが、忠興は自害を命じたという。
妻のガラシャとは仲睦まじく、戦国一の美男美女の夫婦と呼ばれた。
だが忠興は妻をひと目のぞき見した植木職人を殺すほど嫉妬深く、文禄の役で渡海した折に家に出した手紙では「秀吉に誘われても断れ」と繰り返し書いていたという。
だがガラシャが息子の病気に悩みキリシタンに改宗すると忠興は激怒し、ガラシャの侍女の鼻を削いで棄教を迫り、夫婦の仲は急速に冷えた。
それでもガラシャが自害すると、無事に逃げおおせた長男の嫁に離縁を命じるなど、行き過ぎとはいえ愛情は変わりなかったようだ。
むろん家臣にも過酷で、隠居後には家督を継いだ細川忠利の家臣を呼びつけ、働きが悪いと難癖をつけては次々と自ら首を刎ねた。
その数36人に及ぶと、三十六歌仙にちなみ愛刀を「歌仙兼定」と名づけたという。(その他にも忠興が自ら斬った相手にちなんで名づけた刀が数振り伝わっている)
一方で「利休七哲」に数えられるほど千利休の高弟として名高い文化人で、父にも劣らぬ教養を身につけていた。
その才能は幅広く、茶器や具足、刀を自ら考案した。また文化を通じ多くの大名や公卿と交流し、居ながらにして天下の情報を集めたという。
これでも晩年は角が取れ、穏やかな性格になったというがどこまで本当かは定かではない。
ネット上で「天下一のヤンデレ」「戦国DQN四天王」と揶揄されるのも仕方ないだろう。
曽呂利新左衛門(そろり・しんざえもん)
出身地不明(??~??)
豊臣秀吉に御伽衆として仕えた。落語家の始祖とされ、半ば伝説化した人物で実在も疑わしく、没年すら1597年から1642年まで諸説あるほど、その事績は判然としない。
織田信長に仕えた金森長近(かなもり・ながちか)の弟で、やはり落語家の始祖といわれる安楽庵策伝(あんらくあん・さくでん)と同一人物とする説もある。
話術のほか茶道、香道、和歌に通じ、若い頃は刀の鞘職人をしていて、彼の作った鞘は刀に「そろり」と合うことから曽呂利の姓を名乗った。
本名は杉森彦右衛門(すぎもり・ひこえもん)で、坂内宗拾(さかうち・そうじゅう)の別名を用いたともいう。
時代は下り明治期、上方の噺家である猪里重次郎(いさと・じゅうじろう)は、曽呂利新左衛門の名を用いた。
二代目と偽物をかけ二世(にせ)曽呂利新左衛門を名乗り人気を博したが、彼の死後、曽呂利新左衛門の名を継ぐ噺家は出ていない。
以下、初代曽呂利新左衛門と秀吉との面白い逸話を箇条書きする。
ある時、秀吉から好きな物を褒美にやろうと言われた新左衛門は「私が用意した紙袋一つに入る物をください」と答えた。
ところが何日経っても袋は出来上がらず、不審に思った秀吉が調べさせると、新左衛門は米蔵一つが丸ごと入る巨大な紙袋をこさえており、秀吉はあわてて止めさせた。
またある時、やはり褒美の希望を聞かれた新左衛門は「今日は米を一粒、明日は倍の二粒。その翌日にはさらに倍の四粒と、倍倍していき百日間ください」と申し出た。大した量ではないと思った秀吉は請け負ったが、よくよく考えると莫大な量になることに気づき、他の褒美に変えさせた。
また別の折、例によって褒美を尋ねられた新左衛門は「毎日一度だけ、殿の耳の匂いを嗅がせてください」と言った。
魂胆がわからないまま秀吉が承知すると、新左衛門は大名が秀吉の前にいる時に限って耳の匂いを嗅いだ。
大名は新左衛門が何か告げ口をしていると思い込み、口止めのために贈り物をするようになったという。
千利休(せんの・りきゅう)
和泉の人(1522~1591)
わび茶を完成させた茶人。茶聖とも呼ばれる。
利休の名は禁中茶会にあたり、町人の身分では参内できないため天皇から与えられた居士としての号である。晩年に用いただけで、茶人としての大半は千宗易(そうえき)と名乗っている。
堺の商家(倉庫業)に生まれる。若い頃から茶の湯に親しみ、師匠について学んだ。
織田信長が堺を直轄地とすると茶頭として仕えた。
信長が没すると次いで豊臣秀吉に仕え、1587年の北野茶会を主管するなど重用された。
秀吉の命を受け黄金の茶室を手がける一方で、草庵茶室、楽茶碗、竹の花入などを新たに創案し、独自の「わび茶」を磨き上げていった。
政にもたずさわり、大友宗麟(おおとも・そうりん)が大坂城を訪れたとき、秀吉の弟・豊臣秀長(とよとみ・ひでなが)は「公儀のことは私に、内々のことは利休に」尋ねるよう告げたという。
だが1591年、突如として秀吉の逆鱗に触れ、蟄居を命じられた。
前田利家や、弟子である古田織部(ふるた・おりべ)、細川忠興(ほそかわ・ただおき)ら多くの大名が奔走したが許されず、ついに切腹を命じられた。
その際には、大名たちに絶大な影響力を誇る利休の奪還を恐れ、秀吉は上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)の軍勢に屋敷を警護させたとされる。
死後、古田織部や織田有楽斎(おだ・うらくさい)らによってわび茶の精神は受け継がれ、現在に至る。
~死罪の理由~
利休が切腹させられた原因としてよく知られているのは、「大徳寺三門の改修の際、自身の木像を二階に設置し、その下を秀吉に通らせたため」とする説で、死後にはその木像に踏みつけられる形で首を晒されたともいう。
しかし問題の木像は取り壊されることなく現存しており、説得力があるとは言いがたい。
はっきりとした理由はいまだわかっておらず、他にも安価な茶器を高額で売りさばき私腹をこらしたとか、政闘に巻き込まれたとか、娘を秀吉の側室に差し出すよう命じられたのを断ったなど、様々な説が挙げられている。
~わび茶~
現在伝えられる利休の人物像は、後世の創作が大半である。
高弟である山上宗二(やまがみ・そうじ)によると、利休は60歳までは先人の茶を踏襲し、61歳からようやく独自の茶を築いたという。つまり晩年のわずか10年しか、利休はわび茶に携わっていないこととなる。
わび茶の概念を簡潔に述べると、まず名物を尊ぶ既存の価値観を否定したことが大きい。
利休は楽茶碗などを考案し、いずれも装飾性を廃した簡素なもので、値段も張らなかった。
茶室はそれまで4畳半が最小とされたが、利休は3畳、2畳にまで縮小し、入り口もごく狭くした。また障子を無くして窓を設け、その配置によって光と影の演出をするなど、設計の自由度を格段に向上させ、それぞれの工夫を凝らした千差万別の茶室を造れるようにし、これは現代の日本建築にも多大な影響を与えている。
利休の手によって、茶の湯は単なる憩いやたしなみから、芸術に昇華したといって過言ではあるまい。
名古屋山三郎(なごや・さんさぶろう)
尾張の人(1572~1603)
名古屋家は織田家の縁戚で、山三郎は出雲阿国をめとりともに歌舞伎の創始者とされるが、半ば伝説化した話で信憑性は乏しい。
15歳で織田信長の娘婿である蒲生氏郷(がもう・うじさと)に仕えた。
山三郎は「天下三美少年」の一人に数えられ、氏郷も初対面では少女と見誤り、嫁に取ろうと身元を調べさせたという。
槍の腕に優れ重用されたが1595年、氏郷が没すると蒲生家を去り出家した。
その後、妹婿の森忠政(もり・ただまさ)に仕えた。
美青年で教養高い山三郎は饗応役として取り立てられたが、他の2人の妹も森家の重臣に嫁ぐなど発言力を増していき、井戸宇右衛門(いど・うえもん)らに恨まれた。
1600年、関ヶ原の戦いに際し、森家は真田家への牽制のため出陣を止められたが、忠政は独断で井戸宇右衛門を出撃させ、真田方の上田城を攻める徳川秀忠を援護させた。
しかし真田幸村が報復のため宇右衛門が城代を務める葛尾城を攻めると、森家に不満を持つ井戸家の家臣が城門を開き、敵兵を招き入れてしまった。
落城は免れたものの、忠政は日頃の宇右衛門の態度とあわせて失態に激怒した。
1603年、美作に転封となった忠政は、築城場所をめぐり宇右衛門と意見が対立した。
堪忍袋の緒が切れた忠政は、とうとう山三郎に刀を与え宇右衛門の成敗を命じた。
ところが山三郎は返り討ちにあい、逆に自身が斬られてしまった。宇右衛門も居合わせた森家の家臣によって討たれたが、宇右衛門の力を買っていた徳川家康はこのことに怒り、しばらく忠政の面会を断ったという。
山三郎の遺体は現場の北側に、宇右衛門の遺体は南側に葬られ、それぞれ墓標代わりに松の木が植えられた。
この二本松は一方が生い茂ればもう一方は生気を失くしを絶えず繰り返し、現在も「にらみ合いの松」として伝わっている。
本名は吉長(よしなが)だが才蔵の通称で著名。
美濃可児郡に生まれ、幼少期は寺で過ごした。宝蔵院流槍術の開祖・宝蔵院胤栄(ほうぞういん・いんえい)に槍を学んだとされる。
ある時、勝負を挑まれると才蔵は試合場に鉄砲を構えた部下10人とともに完全武装で現れた。相手が「実戦ではなく試合だ」と抗議すると「俺の試合は実戦が全てだ」と笑い、相手や局面がなんであろうと常に全力で挑む心構えを見せたという。
前半生は不確かながら、はじめは斎藤龍興(さいとう・たつおき)に仕え、斎藤家の滅亡後は柴田勝家、明智光秀、前田利家、織田信孝(おだ・のぶたか)らの間を転々としたと伝わる。
森長可(もり・ながよし)に仕えていた頃、戦場で多くの首級を挙げたため手に余り、討ち取った首を置き去りにしたが、その口に旗印にも使っていたトレードマークの笹をくわえさせ(首の切り口に差し込んだともいう)、自分の手柄だと示したため「笹の才蔵」の異名を取るようになった。
やがて羽柴秀吉の甥・三好秀次(みよし・ひでつぐ)に仕えた。
しかし小牧・長久手の戦いで秀次が徳川家康に大敗した折、徒歩で逃げている所に才蔵が馬で通りかかったため「馬をよこせ」と命じたが、才蔵は「雨の日の傘に候」と答えるや走り去ってしまい、秀次を激怒させ戦後に浪人になったという。(傘で雨を防ぐように、逃げるために馬が必要なのだという意味か)
その他、相手が秀次だと気付かず、反省して自ら三好家を去ったとも、「この敵には槍も通じない。糞食らえだ」と言ってやはり秀次を怒らせたとも伝わる。
後に佐々成政(さっさ・なりまさ)を経てようやく福島正則の家臣に落ち着いた。
1590年の北条攻め、1600年の関ヶ原の戦いでは福島軍の先鋒として活躍し、関ヶ原本戦では17の首を挙げ(ただし17は笹の葉を含ませた首の数で実際はもっと多数か)徳川家康に絶賛された。
1613年、若い頃から信仰していた愛宕権現にちなみ「愛宕権現の縁日に死ぬ」と公言していた通り、縁日に没した。
身を清め甲冑を着けて床机に腰掛けたまま亡くなったという。
生涯、一兵士にも等しい身分ながら徳川家康に賞賛されたことや、その並外れた武勇を敬われており、彼の墓前を通りかかった者は、馬を降りて礼を示したと伝わる。
脇坂安治(わきさか・やすはる)
近江の人(1554~1626)
はじめ浅井長政に仕えたが、1573年に織田信長によって滅ぼされると明智光秀の麾下に入った。
丹波攻めで「赤鬼」の異名を取る赤井直正(あかい・なおまさ)にその武勇を認められ貂の皮で作られた槍鞘を拝領し、貂の皮は以来、脇坂家の象徴として広く知られるが、これは事実ではなく家名を上げるための創作と思われる。
その後、光秀との間に確執が生まれたか、自ら志願して羽柴秀吉に仕えた。
1583年、賤ヶ岳の戦いでは加藤清正、福島正則らとともに活躍し「賤ヶ岳七本槍」に数えられた。柴田勝家の甥・勝政(かつまさ)を討ち取ったともされる。
戦功を立て続け、1585年には淡路国洲本で3万石を与えられ、主に水軍を率いた。
文禄の役では夜襲で李洸(りこう)の5万の大軍を破ったが、功を焦って抜け駆けし李舜臣(りしゅんしん)に大敗した。
この逸話は韓国ドラマ「不滅の李舜臣」で脚色され、安治は「日本一の名将」として登場するらしいが、国益のためなら平気で事実を歪曲するかの国は流石であるし、その後の安治は命令に従って戦い、李舜臣を何度も打ち破ったという。
1598年、秀吉が没すると安治は徳川家康に接近した。
しかし1600年、関ヶ原の戦いに際しては石田三成の妨害工作を受け、やむなく西軍に加わった。
本戦では家康との内通を疑われる小早川秀秋(こばやかわ・ひであき)への備えを朽木元綱(くつき・もとつな)、小川祐忠(おがわ・すけただ)、赤座直保(あかざ・なおやす)とともに命じられたが、小早川秀秋はもちろん安治も家康と通じており、小早川軍が東軍に寝返るとすかさず安治も反旗を翻し、さらに朽木元綱ら三将も尻馬に乗って寝返ったため、右翼の軍勢が一斉に敵に回った西軍は抗し切れず、大敗を喫した。
だが戦後、事前に寝返りを約束していた小早川秀秋と安治は所領を安堵されたが、朽木元綱ら三将は改易となった。
1615年、長男は早逝していたため次男の脇坂安元(やすもと)に家督を譲り隠居した。
安元は大坂の陣で活躍した他、武家第一の歌人と呼ばれる教養人で、また養子に徳川家光の信任厚かった堀田正盛(ほった・まさもり)の子を迎え譜代大名に名を連ねるなど、明治を乗り越え現代まで続く脇坂家の発展に貢献した。
三好吉房(みよし よしふさ)
尾張の人(1522~1612)
豊臣秀吉の姉・ともの夫。秀吉の義兄にあたり、一族の少ない秀吉からは一門衆として重用された。
出自も旧姓も不明で、そもそも姓を持たない貧民や大工、鍛冶だったとの説もある。
はじめは秀吉から木下姓をもらった。嫡子の秀次(ひでつぐ)が三好康長(みよし・やすなが)の養子になると吉房も三好姓を名乗った。
秀次が子のない秀吉の後継者に立てられると、吉房が秀次の留守をあずかることも増えたが、器量に乏しい秀次から見てさえ吉房は頼りなく「父は年を取り衰えたようだ」と嘆く文書が残されている。
秀吉とは対照的に多くの男子に恵まれたが、次男の豊臣秀勝(ひでかつ)が24歳、三男の豊臣秀保(ひでやす)が17歳で病死し、秀次も28歳で謀叛の嫌疑を掛けられた末に切腹と、いずれも短命で没した。
吉房も秀次の罪に連座して讃岐に流罪されたが、秀吉の死後に赦免されると、子らの菩提を弔うために寺を建立し、自らも出家した。
妻のともも、夫の流罪中に出家しやはり寺院を建立している。
また立派な髭をたくわえており、大いに自慢したという逸話くらいしか無いあたりが、彼の素朴さと器量の限界を同時に物語っている。
北畠具教(きたばたけ・とものり)
伊勢の人(1528~1576)
伊勢北畠家当主の長男として生まれる。
以降、10歳で従五位下侍従に任じられ、剣豪・塚原卜伝(つかはら・ぼくでん)や上泉信綱(こういずみ・のぶつな)に習い奥義を授かるなど名家の当主らしい青年期を歩み、1553年に家督を譲られた。
対立していた長野工藤家、九鬼家らを打ち破り北畠家の最盛期を築き上げた。
しかし1568年、織田信長が伊勢に侵攻し神戸家、長野工藤家らを降した。
具教は抗戦したが兵力差で劣り、また弟の木造具政(こづくり・ともまさ)が寝返るなどしたためやむなく降伏した。
信長は降伏の条件として次男・織田信雄(おだ・のぶかつ)を具教の長男・北畠具房(きたばたけ・ともふさ)の養嗣子として迎えさせた。
そして1576年、具教は次男・長野具藤(ながの・ともふじ)らとともに信長によって暗殺された。
北畠具房も幽閉され、北畠家は事実上、織田家に乗っ取られ滅亡したことになる。
剣豪として知られる具教は最期の時、19人の刺客を斬り100人余りに手傷を負わせたとも、その剣技を恐れた信長の命であらかじめ太刀の刃を潰されており、無抵抗のまま殺されたとも伝わる。
また領地を接する柳生宗厳(やぎゅう・むねしげ)とも親しく、彼や槍の名手・宝蔵院胤栄(ほうぞういん・いんえい)を上泉信綱に紹介したのも具教だと言われ、剣豪たちの交流に一役買ったともいう。
浅井井頼(あざい・いより)
近江の人(1570?~1615?)
浅井長政の三男、または次男、もしくは養子。
1573年、浅井家が滅ぼされたが残党狩りを逃れ、羽柴秀吉に仕えた。
1583年、賤ヶ岳の戦いに参陣し、その後は豊臣秀次(とよとみ・ひでつぐ)、豊臣秀保(ひでやす)のもとに付けられ、秀保が没するとその領地を継いだ増田長盛(ました・ながもり)に仕えた。
だが1600年、関ヶ原の戦いで増田長盛は東西両軍に通じたものの結局は改易されてしまい、井頼は生駒家に仕えた。
やがてそこも離れると大坂の陣で豊臣家に仕え(淀君(よどぎみ)は姉、豊臣秀頼(ひでより)は甥にあたる)1615年、夏の陣で戦死した。
一方で大坂城を脱出し姉が嫁いでいた京極家に仕えたとする記録もあり、その最期は判然としない。
異説としてこんな話もある。
豊臣秀次に仕えていた頃、井頼は秀次が寵愛していた小姓を(性的な意味で)襲い、激怒した秀次は成敗を命じた。
ところが武勇に優れた彼を恐れて手出しする者はなく、井頼は悠々と出奔した。
遠く朝鮮まで渡り、毎朝海に向かって刀を構え「日本大乱、国家滅亡」を願い素振りするのを日課とし、やがて願いが通じたのか豊臣家が滅亡すると日本に戻り、京極家に仕えたという。
また真田十勇士の一人、根津甚八(ねづ・じんぱち)のモデルは彼だとされる。
浅井亮政(あざい・すけまさ)
近江の人(1491~1542)
浅井家の当主。浅井長政の祖父。
庶家に生まれたが浅井宗家に男子がなかったため、娘婿となり家督を継いだ。
当時の浅井家は北近江の守護・京極家に仕えていた。当主の京極高清(きょうごく・たかきよ)は次男の京極高吉(たかよし)に跡を継がせようと考えたため、長男・京極高延(たかのぶ)を推す重臣らと対立し、亮政は高延方についた。
そして1523年、京極高清・高吉を追放し、中心的役割を担った亮政は京極家の実権を握った。
だが南近江では守護の六角家が台頭しており、また六角家は京極家の本家筋に当たるため、軍事的・血統的にも浅井・京極家は不利な状況にあった。
一方で京極高延も立場に不満を抱き、父と和解すると反浅井派の国人衆を集め、1541年にはついに反旗を翻した。
そのさなかの1542年、亮政は家中の混乱を収拾できないまま死去した。
京極家のお家騒動に乗じた亮政だが、自身も長男の浅井久政(ひさまさ)に不満を抱き、娘婿の田屋明政(たや・あきまさ)に目を掛けたため、死後に久政と田屋明政の対立を招いた。
田屋明政は京極高延と結んで久政と激しく争い、疲弊した浅井家は六角家に臣従することで家名を存続させた。
なお京極高清もかつて弟と家督争いをしており、久政もまた息子の浅井長政と主導権争いをすることになり、まさに歴史は繰り返している。
その後、浅井家は長政の代に織田信長に滅ぼされたため嫡流は途絶えたものの、亮政の孫(久政の娘)にあたるマリアが京極高吉に嫁いだため、皮肉にも京極家として血を残した。
また長政の娘・江(ごう)が徳川秀忠に嫁ぎ、徳川家光を産み徳川家の嫡流に連なってもいる。