三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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小少将(こしょうしょう)
阿波の人(??~??)
小少将という名の人物は戦国期に少なくとも5人おり当時はありふれた名前と見られ、そのうち2人を同一人物とする説があるが、同一人物とすれば「魔性の女」と呼ぶしかない数奇な生涯を送っており、複数の人物の事績が混同している可能性がある。
本文では(その方が面白いので)同一人物として記す。
阿波守護の細川持隆(ほそかわ・もちたか)に仕えた岡本清宗(おかもと・きよむね)の娘。
長じると絶世の美女とうたわれ、持隆に嫁ぎ1538年、細川真之(さねゆき)を産んだ。
だが1553年7月、持隆が重臣の三好実休(みよし・じっきゅう)に暗殺されてしまう。細川家と三好家の関係は良好だったが、なぜ暗殺に至ったかは諸説あるが(持隆が先に三好実休の暗殺を企んだ、足利義栄(あしかが・よしひで)を擁し上洛しようとした、もともと細川家を乗っ取る計画だった、小少将の奪い合い等)、いずれにしろ夫を失った小少将は三好実休の側室にされた。
そして不思議なことに同年、彼女は実休との子・三好長治(ながはる)を産んだ。
系譜にははっきりと実休の実子と記されており、持隆の生前から二人は不倫の関係にあったと思われる。
実休は細川真之に阿波守護を継がせ、裏で実権を握った。
しかし阿波細川家の反発は激しく、統治は安定しないまま1562年、実休は河内畠山家との戦いで討ち死にし、小少将はまたも未亡人となった。
その後、小少将は三好家の重臣・篠原自遁(しのはら・じとん)と通じた。
兄の篠原長房(ながふさ)は弟の行状を諌めたが聞き入れられず、内部分裂を呈し始めた三好家に嫌気が差したのか、居城に引きこもってしまった。
小少将と自遁は、文武両道の名将で人望もある長房がもし決起すれば窮地に陥ると考え、若い三好長治とその弟(小少将の子)十河存保(そごう・ながやす)をそそのかし、長房を攻め滅ぼした。
三好家が織田信長の台頭によって衰退すると、傀儡にされていた細川真之は独立を目論んだ。
土佐の長宗我部家の援助を得て異父弟の三好長治を自害に追い込んだものの、やはり異父弟で讃岐を治める十河存保は織田家の後ろ盾を得て反撃し、細川真之もまた自害を強いられた。
だが結局、篠原自遁、十河存保は長宗我部家に敗れ讃岐を追われた。自遁はそのまま歴史から姿を消し、存保は豊臣秀吉に降ったものの、九州征伐で仙石秀久(せんごく・ひでひさ)の失策により戦死を遂げた。この時、皮肉なことに秀吉に降っていた長宗我部家の跡取り・長宗我部信親(ちょうそかべ・のぶちか)も戦死している。
三人の息子を相次いで失った小少将は、長宗我部元親の側室として再び現れ元親の五男を産んだ。
当時はまだ十河存保が存命で長宗我部家と争い、また細川真之を産んでから45年が経過しており、いくらなんでも同名の別人と思われるが、両者を同一人物とする説や創作も数多い。
※アイコンは卞氏
出雲阿国(いずもの・おくに)
出雲の人?(1572?~??)
歌舞伎の創始者として知られる女性。半ば伝説的な人物で大半の事績は信憑性が疑われる。
夫は細川家に仕えた名古屋山三郎(なごや・さんさぶろう)とされるがこれも伝承の域を出ない。
1572年、出雲の鍛冶・中村家に生まれ、出雲大社の巫女となった。
出雲大社の勧進のため諸国を巡業し「ややこ踊り」を改良し「かぶき踊り」を考案し各地で評判を呼んだ。
かぶき踊りは遊女を描いたもので、自然と遊女の間で流行し、瞬く間に全国へと広まった。
後に公序良俗の面から幕府によって禁止されたが、歌舞伎として形を変え、現代へと伝わった。
阿国は1607年、江戸城での上演を最後に消息が途絶える。
出雲に帰り巫女に戻ったとも、京で没したともされ、没年は1613年説から1658年説まで幅広く、阿国の名が世襲され複数人いたとも考えられる。
また生年が1572年とされるのは、1582年に春日大社で「加賀国八歳十一歳の童」が、ややこ踊りをしたという記録があり、これを「8歳の加賀と11歳の国という少女」と解釈し、そこから国の年齢を逆算したためである。
なお「加賀国八歳十一歳の童」を「加賀出身の8歳と11歳の少女」と読めば阿国とは関係ない人物となる。
余談だが漫画「へうげもの」では彼女と歌舞伎の成り立ちについて大胆な解釈がされており一読を勧めたい。
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井伊直政(いい なおまさ)
遠江の人(1561~1602)
徳川十六神将・徳川四天王・徳川三傑のいずれにも数えられる名将。
直政が生まれた時、井伊家は前年の桶狭間の戦いで当主と主君の今川義元を失い、翌年には父が謀叛の嫌疑を掛けられ誅殺された。
跡を継ぐべき直政はまだ2歳だったため、父の従妹にあたる井伊直虎が女性ながら当主となり直政を養育した。
次期当主として命を狙われた直政は難を逃れるため出家させられたが、15歳の時に徳川家康に見出され、小姓に取り立てられた。
長じると直政は卓越した才能を表し、数々の武功を立て、家康の養女を妻に迎えた。
軍事のみならず政治・外交にも力を発揮し、1582年には北条家との交渉役を22歳にして任された。
さらに織田信長が本能寺の変で討たれた混乱に乗じ信濃・甲斐を奪うと、武田家の旧臣が多く抜擢され、その統率を命じられた。
直政はかつて武田家の精鋭で編成された「赤備え」を受け継ぎ、部隊の軍装を朱色で統一し、小牧・長久手の戦いでは小柄ながら鬼の角をあしらった兜をかぶり奮戦し「井伊の赤鬼」と恐れられた。
家康が豊臣秀吉に降伏すると、直政は秀吉にいたく気に入られ、官位と豊臣姓を賜った。
家康への懐柔策として人質に送られてきた秀吉の母・大政所(おおまんどころ)や侍女たちも、美男子で温厚な直政に惚れ込んだという。
1588年、聚楽第行幸では徳川家の並みいる重臣を差し置いて唯一、昇殿を許される侍従に任官された。
1590年、小田原征伐ではただ一人、城内まで攻め入ったと言われ、その後の九戸政実(くのへ・まさざね)の乱では討伐軍の先鋒を務めた。
家康が関東に移封されると徳川家の家臣団で最高の上野箕輪12万石を得た。直政は箕輪城を廃すと高崎城を新たに改修し、今日の群馬県高崎市の発展の礎を築いた。
しかし直政は家中第一の大名となった後も家康の側近として軍事・政治・外交を全面的に支えていたため箕輪に帰ることは稀で、1598年に秀吉が没すると、豊臣家の旧臣を味方に引き入れる交渉を一手に引き受け、黒田官兵衛父子ら多くの大名を陣営に引き入れた。
1600年、関ヶ原の戦いでは本多忠勝とともに軍監になり、采配を任された。
だが直政は娘婿の松平忠吉(まつだいら・ただよし)とともに前線へ出ると、先陣を切って西軍へ襲いかかった。
先鋒の福島正則に制止されるも偵察と偽り、小勢で仕掛けた抜け駆けとされるが、戦後に正則から抗議がなく、また重大な軍法違反を軍監の直政自ら破ったのも考えづらく、霧の中での遭遇戦とする説も有力視されている。
直政は島津義弘軍と戦い、大勢が決し島津軍が撤退にかかると追撃し義弘の甥・島津豊久も討ち取ったが、銃撃を右肩に浴び落馬したため義弘を取り逃がした。猛追していたため家臣がついていけず単騎で追っていたという。
直政は重傷を負いながらも戦後処理に奔走し、特に西軍の総大将を務めた毛利輝元(もうり・てるもと)には直政の尽力もあって改易を免れたのを感謝され、今後の指南役も請われたという。
また西軍に与した長宗我部家の取りなしや、島津家との和睦交渉、西軍につき上田城で徳川秀忠の別働隊を足止めし本戦に合流させなかった真田昌幸(さなだ・まさゆき)・幸村父子の助命嘆願も手掛けた。島津義弘には負傷させられたが、その奮戦ぶりに感心しむしろ擁護に努めたとされる。
これらの功績から西軍を率いた石田三成の旧領である近江佐和山18万石に加増転封された。
だが1602年、関ヶ原で負った銃創からか破傷風を発症し42歳の若さで没した。
家康は嘆き悲しみ、石田三成の呪いだという噂が立つと、佐和山に残る三成の遺物を全て破却させたという。
また娘婿の松平忠吉も関ヶ原で負った傷がもとでか、1607年に28歳で没している。
家督ははじめ長男が継いだが「赤備え」を率いられるほどの軍才に恵まれなかったため、家康は長男を病弱と称して他藩を継がせ、直政に性格・才能ともによく似た次男の井伊直孝(なおたか)に家督を継がせた。
直孝は父にも劣らぬ名将ぶりを見せ、佐和山を廃し新たに近江彦根藩30万石が立てられると、井伊家は東西をつなぐ扇の要、危急の際に京の朝廷へ駆けつける尖兵として幕末まで彦根を任された。
~赤鬼の実像~
年若く新参の外様でありながら、家康からは自宅の庭近くに直政の居宅を建てられるほど絶大な信頼を受け、諸大名との交渉窓口ともなった人当たりの良さで知られるが、公務を離れた実像は「赤鬼」の異名にふさわしい峻烈さが垣間見える逸話が多い。
大政所が秀吉のもとへ返される時、大政所たっての願いで直政が護衛を務めた。
秀吉は自ら茶を点て、直政をもてなそうとしたが、前年に徳川家から豊臣家に寝返った石川数正(いしかわ・かずまさ)がいるのを見るや「先祖より仕えた主君に背き、殿下に仕える臆病者とは同席できない」と言い放った。
まだ小身の頃、家康に名馬をねだり希望が叶えられると、本多重次(ほんだ・しげつぐ)は「直政のような小せがれに名馬をくれてやるとは殿も目が暗くなったものだ」と直政に聞こえるように毒舌を吐いた。
後に直政が家中で第一の大禄を得た時、重次には3千石しか与えられなかった。
直政は重次と顔を合わせるや「あの時は小せがれやなんやと馬鹿にされましたが、名馬に違わぬ働きをしてこのような大身になれました。目が暗かったのは本多殿の方でしたな」と皮肉を浴びせた。
なお重次もまた「鬼作左」と呼ばれた猛将である。
寡黙で自分はもちろん家臣にも厳しく、従わない者は即座に処断したため「人斬り」の異名さえ取った。
筆頭家老ですら直政を恐れて家康の旗本に配属替えを願い出たほどで、戦国最強をうたわれた「赤備え」の強さの秘訣は規律の厳しさにもあった。
また自ら先頭に立って戦うことを好んだため、部隊の指揮はもっぱら家臣にとらせており、負傷が絶えなかった。
毛利家の家老・小早川隆景をはじめ多くの識者は直政を「その気になれば天下を獲れる器」と評していたという。
※アイコンは孫尚香
井伊直虎(いい・なおとら)
遠江の人(??~1582)
戦国時代には稀な女性城主。徳川四天王に数えられる井伊直政(なおまさ)の養母で、はとこにあたる。
父の井伊直盛(なおもり)は男子に恵まれなかったため、娘を井伊家の惣領名を組み合わせた次郎法師(じろうほうし)と名付けた。
直盛の従弟に当たる井伊直親(なおちか)を婿養子に迎え家督を継がせる予定だったが、讒言により直親の父が自害に追い込まれ、直親も信濃へ亡命してしまった。
11年後、直親は帰参したがすでに信濃で正室を迎えており、次郎法師との結婚は反故にされた。
1560年、桶狭間の戦いで直盛が戦死し、主家の今川家も当主の今川義元を失い衰退した。
井伊家は直親が継ぐも、1562年に小野道好(おの・みちよし)の讒言によって処刑されてしまい、一族も危機を迎えたが伯父(直虎の母の兄)新野親矩(にいの・ちかのり)が擁護したため事なきを得た。
だが1563年、一族をまとめていた曽祖父が急死(毒殺とも言われる)、翌年には新野親矩と主だった重臣まで戦死し、やむなく直親の遺児でわずか2歳の直政は出家させられ、残された次郎法師が1565年、直虎と男性名に改名し家督を継いだ。
1568年、ついには小野道好に居城を追い出されるも、国人衆が徳川家康の後ろ盾を得て反抗し、小野道好を直親讒言の罪で処刑に追い込むとともに井伊家の実権を奪い返した。
なおも苦難は続き1572年に武田軍に城を奪われ、徳川家も連敗し窮地に陥ったが1573年、武田信玄が急死すると武田軍は撤退し、直虎は三度、居城を取り戻した。
直虎に養子として育てられた直政は、15歳で家康に見込まれて小姓に取り立てられた。
長じるにつれ文武両道に才を示した直政は1582年、直虎が亡くなると跡を継ぎ、やがて徳川四天王に数えられるほどに頭角を現した。
直虎は生涯未婚だったが、没後は許嫁の直親の隣に葬られたという。
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綾御前(あやごぜん)
越後の人(1524~1609?)
上杉謙信の姉。法名の仙洞院(せんとういん)でも著名。
長尾政景(ながお・まさかげ)に嫁ぎ、後に謙信の跡を継ぐ上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)を産んだ。
14歳の頃に嫁ぎ、2男2女に恵まれた。長男は早逝したが次男の景勝は後に上杉家の家督を継ぎ、長女はその景勝と家督争いの末に敗死した上杉景虎(かげとら)に嫁いでいる。
1564年、夫の政景が溺死すると(上杉家の軍師・宇佐美定満(うさみ・さだみつ)による心中とささやかれる)謙信に庇護された。
謙信死後の1578年、景勝と景虎の間で家督争いが起こると、綾御前は娘婿の景虎に味方しともに籠城したが、景勝方に敗れて娘と景虎は自害し、その子らは殺害された。
景勝の片腕として策謀を凝らし勝利に貢献した直江兼続は、皮肉にも綾御前が景勝に推挙したと伝わる。
その後は景勝の庇護を受け、関ヶ原の戦い後に転封された後も付き従い、1609年に没した。享年は86か82とされる。
荒木村重(あらき・むらしげ)
摂津の人(1535~1586)
はじめは池田勝正(いけだ・かつまさ)に仕え、勝正の父ともされる池田長正(ながまさ)の娘をめとり一門衆に列した。
だが長正の死後、三好家の調略により長正の子・池田知正(ともまさ)とともに寝返り、勝正を追放した。
1571年、臣従する織田信長に見出され、池田家から引き抜かれた。
その際に信長は刀に饅頭を刺して顔先に突きつけ「食え」と命じたが、村重は臆せず一口に食べ、感心させたという逸話が伝わる。
織田家で数々の武功を立て、やがて知正も村重の配下に付けられ、1574年には摂津一国を任された。
しかし1578年、突如として摂津有岡城で反旗を翻した。明智光秀らの説得により一時は信長のもとへ釈明に赴こうとしたが、道中で家臣の中川清秀(なかがわ・きよひで)に「信長公は一度疑いを持てばいつか必ず滅ぼそうとする」と進言されたため、有岡城へ戻り立て籠もった。
羽柴秀吉は旧知の黒田官兵衛を向かわせ再度説得を試みたが、村重は官兵衛を幽閉し籠城戦を開始した。
信長は信頼していた村重の謀叛を信じられず説得に努めたものの、諦めると官兵衛も反乱したと思い込み、官兵衛の子で後の黒田長政(ながまさ)の処刑を命じたが、秀吉の軍師・竹中半兵衛は別の子供の遺体を探し、それを官兵衛の子だと偽ったため、事なきを得たという。
籠城は一年余り続いたが、重臣の中川清秀や高山右近(たかやま・うこん)らが織田家に寝返り、援軍も得られず孤立を深めると、村重は単身で有岡城を脱出し息子の守る尼崎城へと逃れた。
信長は代わって有岡城を守る池田知正と「尼崎城と花隈城を明け渡せば妻子を助ける」という約定を交わし、知正は妻子を人質に残し村重の説得に向かったが、村重はそれを受け入れず、進退窮まった知正は出奔してしまった。
信長は見せしめとして村重、知正や家臣らの妻子百数十人を処刑した。
その後も信長は各地にちらばっていた荒木一族の者を見つけ次第殺し、匿った者も同じく殺した。
しかし村重は息子とともに尼崎城も離れ、毛利家に亡命した。
1582年、信長が本能寺の変で討たれると、堺に戻り茶人として第二の人生を歩み始めた。
千利休の十哲(十大弟子)に数えられるが、籠城戦のさなかに高山右近らキリシタンに裏切られたことを憎悪し讒言して回ったり、天下人となりつつあった豊臣秀吉を罵ったため処罰を恐れて出家した。
家族を捨て生き長らえたことを自嘲し荒木道糞(どうふん)と名乗ったが、後に秀吉に許され荒木道薫(どうくん)と改名させられた。
1586年、堺で52歳で没した。
妻子はほとんどが処刑されたが直前で乳母に逃がされたり、村重と行動をともにしていたため助かった子供が数人いる。
~謀叛の理由~
信長に謀叛した理由は諸説あり今もって定かではない。
親交のあった将軍・足利義昭(あしかが・よしあき)や石山本願寺に調略された説。
中国方面軍の司令官に秀吉が任じられ、出世が望めないと悲嘆した説。
刀に刺した饅頭を食わされたことを実は恨んでいた説。
黒田官兵衛との謀略説。
など様々だが中でも面白いのが、中川清秀が石山本願寺へ兵糧を横流ししていたため処罰を恐れた説で、もしこれが事実ならば清秀は村重の謀叛の原因を作り、釈明しようとしたのを翻意させ、最後は信長に寝返って敗因を作るという絵に描いたようなマッチポンプぶりである。
フランシスコ・ザビエル
ナバラ王国の人(1506~1552)
日本に初めてキリスト教を伝えた宣教師。
地方貴族に生まれ、父はナバラ国王の信頼厚い宰相だった。しかし1515年、ナバラは強大なスペインに併呑され、そのさなかに父も命を落とした。
ザビエルは19歳でパリ大学に進学し哲学を学んだが、母と姉の死や友人からの影響で聖職者を志し、1534年に「イエズス会」を創設した。
全世界への布教を掲げたイエズス会はローマ教皇やポルトガル国王の援助を取り付け1541年、当時ポルトガル領だったインド西部のゴアへ出発した。
翌年にゴアに到着するとそこを拠点にインド各地で布教活動を行い、1547年、マラッカで薩摩出身のヤジロウに出会った。
ヤジロウは確かな事績はわからないものの元海賊で、殺人の罪を逃れてマラッカまで来たものの、ザビエルらの噂を聞き懺悔に赴いたという。
ザビエルはヤジロウの人柄に共感し、日本でも布教は進むだろうという彼の観測を信じ、1549年、ヤジロウら日本人3人を含む8人で日本へ向かった。
ヤジロウの故郷・薩摩に到着したザビエルは大名・島津貴久(しまづ・たかひさ)に謁見し布教の許しを得た。
友人で仏僧の忍室(にんじつ)と宗教論争を交わし、後に日本人初のヨーロッパ留学生となる鹿児島のベルナルドにも出会ったが、仏教徒の反発を受け次第に風当たりが厳しくなったため、薩摩を去った。
1550年、肥前に拠点を築くと、ザビエルはベルナルドとともに京へ向かった。
途中で周防の大名・大内義隆(おおうち・よしたか)に謁見したものの、キリスト教で重罪とされた衆道(男色)を好む義隆の怒りを買い、すぐに同地を去った。
ザビエルは日本全国での布教の許可を「日本国王」から得るため天皇や将軍・足利義輝(あしかが・よしてる)への拝謁を望んだが、献上品が無いためすげなく断られた。比叡山延暦寺との論戦も断られ、目的を失ったザビエルらは失意のうちに肥前に戻った。
キリスト教への理解が乏しかった他、当時は天皇・将軍家ともに権威を失墜しており、京の町も荒廃していたという。
ザビエルは肥前に残していたポルトガル国王から託された献上品を携え、再び周防へ向かった。
前回は質素な衣装で謁見に臨み、侮られた苦い経験を活かし、華美な服装に身を包み、天皇に渡す予定だったインド総督の親書や献上品を惜しみなく差し出すと、大内義隆はおおいに喜び布教を許した。
与えられた廃寺を改装し日本初の教会を築き、2ヶ月で500人の信徒を集め、その中には後にイエズス会の中心人物となるロレンソ了斎(りょうさい)もいた。
1551年、豊後にポルトガル船が着いたと聞くと、ザビエルは当地に飛び、大名の大友宗麟(おおとも・そうりん)に布教の許しを得た。
宗麟は自身の洗礼名にザビエルにちなみフランシスコを選び、キリスト教に傾倒し熱心に布教に務めたものの、それが仏教の迫害へとエスカレートし家臣の反発を招くなど大友家の滅亡の遠因となった。
日本滞在も2年に及び、インドからの情報が途絶えたことを気に病んだザビエルは、日本での布教に区切りをつけ、他の宣教師に後を任せると1551年11月、日本を発った。
翌1552年、ゴアに無事戻ったザビエルは、日本全土へ布教するためには日本文化に大きな影響を与えた中国での布教が必要だと考え、上川島に渡った。
だが入国を拒まれ足止めされるうちに病を得て、同年12月に46歳で神に召された。
ザビエルの遺体はいったんは海岸に埋葬されたものの、翌年にゴアへ移された。
1614年、聖遺物として右腕が切り落とされると、死後50年を経ながら鮮血がほとばしり奇跡と認定され、後にザビエルは聖人に列した。
ザビエルは遺した書簡で日本人について「今までに発見された人々の中で最高であり、彼らより優れた人々は異教徒の中にいない。彼らは親しみやすく善良で悪意を持たず、一方で他の何よりも驚くほど名誉を重んじる」と述べている。
杉谷善住坊(すぎたに・ぜんじゅぼう)
出身地不明(??~1573)
鉄砲の名手で織田信長を狙撃したことでとみに有名。
しかし素性は不明で甲賀忍者、伊勢の国人衆、雑賀衆、根来衆からはては賞金稼ぎやただの猟師ともいう。
信長を狙った理由も六角家の依頼、個人的な恨み、腕試しと諸説ある。
1570年、朝倉家を攻めるも、裏切った浅井家に背後を襲われた信長は京に逃れ、そこから岐阜城へと帰途についていた。
そして近江に差し掛かった時、善住坊に狙撃された。20数メートルの距離から2発撃たれたものの、名人のはずの善住坊の弾丸は逸れ、信長はかすり傷を負っただけだった。
これを信長は天の守護と感じ、人々も信長の運の強さを恐れ敬ったという。
ともあれ激怒した信長は徹底的に犯人探しをし3年後、善住坊は磯野員昌(いその・かずまさ)によって捕らえられた。
信長は善住坊を首から上だけを出させて地面に埋めると、竹のノコギリでじわじわと首を切断させたという。
ルイス・フロイスの記録に「反乱を扇動しようとした仏僧が生き埋めにされノコギリで首を斬られた」と残されており、それが善住坊の可能性がある。
また関ヶ原の戦い後に、家臣の早合点で父を失った九鬼守隆(くき・もりたか)が、同様の方法で家臣を処刑しているが、あるいは善住坊の一件にならったか、恨み深い相手への処刑法としてノコギリ曳きは有名だったのかもしれない。