三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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九戸政実(くのへ・まさざね)
陸奥の人(1536~1591)
九戸家は南部家の分家にあたり、室町幕府からは南部宗家と同格に見られていたとされる。
政実は11代目の当主で武勇に優れ、南部宗家の当主・南部晴政(なんぶ・はるまさ)に協力した。
1565年、晴政は男子に恵まれなかったため、一族で重臣の石川高信(いしかわ・たかのぶ)の子・南部信直(のぶなお)を後継者として長女の婿養子に迎えた。
さらに次女を政実の弟・九戸実親(さねちか)に嫁がせ地盤を固めたが1570年、晴政に待望の男子である南部晴継(はるつぐ)が生まれ、事態はこじれた。
実子に跡を継がせたい晴政と養嗣子の信直は対立し、1576年に信直の妻(晴政の長女)が没すると、信直は嗣子の座を辞して城を退去した。
1582年、晴政が没すると晴継が家督を継いだが、父の葬儀の帰り道に暴漢に襲われるという不自然な死を遂げた。
信直と九戸実親の間で家督争いが繰り広げられ、信直の重臣・北信愛(きた・のぶちか)がまるで晴継の急死を予見していたように事前に八戸家を調略していたため、信直が後継者に決まった。
すでに嗣子の座を自ら退いており、晴継暗殺の疑いも濃い信直が家督を継いだことに政実は大いに不満を抱いた。
その後の政実は独立色を強め、南部宗家の当主を自称し出し、ついには1591年に挙兵した。
政実の用兵は巧みで、また豊臣秀吉による天下統一のなった現在、内乱の鎮圧で活躍しても恩賞は期待できないと考えた家臣は積極的に戦おうとしなかったため信直は苦戦した。
信直はとうとう自力での鎮圧を諦めて秀吉に出兵を要請し、豊臣秀次(ひでつぐ)を総大将に石田三成、蒲生氏郷(がもう・うじさと)、浅野長政(あさの・ながまさ)らの率いる討伐軍が編成され、そこに奥州各地の大名が加わり6万もの大軍に膨れ上がった。
政実・実親は九戸城で十倍以上の敵を迎え撃ち善戦したものの、3日で抗戦を諦め開城降伏した。
当初は助命を約束されたが、結局は秀吉の許しを得られず、城に残っていた実親と重臣は残らず殺され、政実も斬首された。享年56。
九戸一族は老若男女を問わず処刑されたが、他家を継ぎ信直を支持していた政実・実親の弟の中野康実(なかの・やすざね)には累は及ばず、中野家は北家・八戸家らとともに南部家の「三家老」として代々仕えたという。
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大崎義隆(おおさき・よしたか)
陸奥の人(1548~1603)
陸奥の大名で大崎家11代当主の大崎義直(よしなお)の子。
義隆が生まれた時、義直は伊達稙宗(だて・たねむね)の子である大崎義宣(よしのぶ)を養嗣子として迎えていたが、稙宗が息子の伊達晴宗(はるむね)との争いに敗れ失脚したため、義宣を暗殺し、実子の義隆を改めて後継者に据えた。
大崎家は伊達晴宗に味方したため、その子の伊達輝宗(てるむね)の代になっても両家は親しく、また出羽の最上家とは先祖を等しくするためやはり関係は良好で、義隆は妹を最上義光(もがみ・よしあき)に嫁がせていた。
しかし隣国の葛西家とは険悪で、長らく戦いが続いていた。
1586年、大崎家で内紛が起こると、伊達家を継いでいた伊達政宗は、すでに天下を統一しつつあった豊臣秀吉の発した惣無事令(戦闘禁止令)を無視し、内紛に乗じて大崎領に攻め込んだ。
大崎家は氏家吉継(うじいえ・よしつぐ)をはじめ離反者が続出したが、両家と境を接する黒川晴氏(くろかわ・はるうじ)が伊達軍を背後から急襲したため、政宗は撤退した。
政宗は父・祖父が奥州一円に構築した同盟網を破り、周辺諸国のほとんどと敵対していた。
さらに最上家と伊達家が敵対すると、最上家から伊達家に嫁いでいた政宗の母・義(よし)は両家の潰し合いを恐れ、強引に停戦させた。
大崎家も伊達家と和睦し、義隆は「伊達家に従属する」「最上家と縁を切る」「氏家家を攻撃しない」三ヶ条を結んだ。
後顧の憂いを除いた政宗は南進し、摺上原の戦いで蘆名家を滅ぼした。
政宗はさらに和睦の裏で大崎家の家臣に調略を仕掛けていたが1590年、秀吉が小田原征伐のため全国の大名に参戦を呼びかけた。
政宗は去就を迷ったが土壇場で呼びかけに応じたものの、義隆は伊達家の意向を図りかね家臣を送るだけに留めたため、戦後に秀吉は義隆ら自ら馳せ参じなかった大名を取り潰した。
義隆は奥州仕置を担当する石田三成に泣きつき、所領の3分の1の安堵を許されたものの、大崎・葛西家の旧臣が処分に不服と蜂起し、葛西大崎一揆と呼ばれる大規模な反乱を起こしたため、所領安堵は取り消されあえなく大崎家は滅亡した。
義隆のその後は定かではないが、表舞台から姿を消した後に蒲生家、次いで上杉家に大崎左衛門(さえもん)なる人物が現れており、これが義隆と推測される。
左衛門は石田三成の父に手紙を送っており、同一人物説を補強している。
左衛門ははじめ蒲生家に仕えたが、蒲生家が減封により会津から去ると代わって会津に入った上杉景勝に仕え、直江兼続の指揮下に配された。
1600年、関ヶ原の戦いで上杉軍は伊達軍と戦い、この時に左衛門の子が戦死したと伝わる。
伊達家の史料によると1603年、義隆は会津で没した。
上杉家は会津を追われ蒲生家が当地に戻っていたため、最期は蒲生家に仕えたと思われる。
しかし義隆の子と思われる人物が1612年頃に最上家の家臣に見えることから、最上家に移ったとする説もある。
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秋田実季(あきた・さねすえ)
出羽の人(1576~1660)
出羽に一大勢力を築き、その繁栄ぶりを北斗七星にたとえられた安東愛季(あんどう・ちかすえ)の次男。
1587年、父が没したため12歳で家督を継いだ。
もともと安東家は檜山系と湊系の二家に分かれ争っていたが、和解のため両家の子女の間で婚姻が交わされ、そうして生まれた愛季が父方の檜山系が母方の湊系を吸収する形で安東家を統一していた。
しかし愛季の死を好機と、実季の従兄で12歳年長の安東通季(みちすえ)が、湊系の再興を掲げて反乱を起こした。
通季は日本海沿岸部への領土拡大を目論む内陸部の勢力や、陸奥に広大な領地を持つ南部信直(なんぶ・のぶなお)と結び、兵力差では圧倒していたが、檜山城に籠城した実季は、わずか300挺の鉄砲を駆使し十数倍の敵から5ヶ月にわたり城を守り抜いた。
南部領の北部では大浦為信(おおうら・ためのぶ 後の津軽為信)が反乱し、戦乱は東北一円を巻き込んだが、為信との連携も功を奏し、実季が勝利を収め、通季は南部家へ落ち延びていった。
1590年、豊臣秀吉の小田原征伐に応じ参戦した。
安東家の内乱は惣無事令(戦闘禁止令)への違反として問題視されかけたが、実季の根回しもあり所領8万石のうち3分の2は安堵され、残り3分の1は蔵入地ながら実季が代官に任じられる寛大な処置が取られた。
実季は新たに湊城を築いて居城に定め、姓も秋田に改めた。
1591年の九戸政実(くのへ・まさざね)の乱、翌年からの文禄・慶長の役にも出兵し武功を立てた。
1600年、関ヶ原の戦いでは徳川秀忠の正室・江姫(ごう)の従姉妹をめとっていたこともあり東軍についた。
最上義光(もがみ・よしあき)は実季が裏で西軍方の大名と通じていたと謀略を仕掛けたが、実季は徳川家康に自ら弁明し疑惑を晴らした。
1602年、関ヶ原で西軍についた佐竹義宣(さたけ・よしのぶ)が秋田へ減転封されたことを受け、実季は常陸宍戸に移された。
実質的に処罰に等しく、蔵入地となっていた旧来の領地を豊臣家の領地と見なされ没収されたことに不満を抱いたことが原因と思われる。
1615年、大坂夏の陣では快進撃で家康の本陣にまで迫った毛利勝永(もうり・かつなが)と相対してしまい、大損害を被った。
1630年、泰平の世でも戦国大名の気質の抜けない実季は幕府ににらまれ、突如として蟄居を命じられた。
嫡子で徳川家の縁戚にあたる秋田俊季(としすえ)との確執や、依然として残る檜山系と湊系の家臣の対立なども背景にあったと考えられる。
以降、実季は30年の長きにわたり伊勢の草庵で蟄居生活を余儀なくされ、同地で85歳で没した。
秋田家は1645年に陸奥三春5万5千石へ転封となったが、幕末まで存続している。
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北条氏照(ほうじょう・うじてる)
相模の人(1540~1590)
北条氏康の三男。
はじめは大石家に婿入りし大石氏照を名乗ったが、後に北条姓に復し大石家を傘下に入れた。
弟の北条氏邦(うじくに)は同じく藤田家に入り、家を乗っ取ると藤田一族を粛清したが、氏照は逆に大石一族を手厚く遇したという。
武勇と外交戦術に優れ、主に東方面軍の指揮や東北・下野の大名の調略や交渉を担当した。
1568年、武田軍に守る滝山城を囲まれ三の丸まで落とされたが、二の丸で踏みとどまり武田軍を撤退させた。その際に武田勝頼(たけだ・かつより)と一騎打ちをしたとも伝わる。
氏照は平地にある滝山城の不利を悟り、代わって山城を築いた。山頂に八王子社が祀られたため八王子城と名付け、これが現在も残る八王子の由来である。
1569年には戦国最大の山岳戦と言われる三増峠の戦いで武田軍に敗北。
1578年、上杉謙信没後の上杉家の家督争いでは、弟の上杉景虎(かげとら)を援護するため越後に出撃した。
しかし上杉景勝と降雪に阻まれ、足止めされるうちに敗れた景虎は自害を遂げた。
北条家は織田家に対しては従属路線を歩んでいたが1582年、本能寺の変で織田信長が討たれると、混乱に乗じて織田領の上野を奪い取り、以後は信長の後釜に座った豊臣秀吉からは距離を置き、徳川家、上杉家らと信濃・甲斐を争った。
1590年、秀吉が北条家征伐のため全国から20万もの大軍を集めるも、小田原城を頼みに徹底抗戦を主張。
しかしさしもの戦国一の巨城も地を埋め尽くすような大軍には抗し切れず、降伏開城すると主戦派として兄で前当主の北条氏政(うじまさ)や筆頭家老・大道寺政繁(だいどうじ・まさしげ)らとともに切腹を命じられた。享年51。
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北条氏直(ほうじょう・うじなお)
相模の人(1562~1591)
後北条氏の第5代当主。
北条氏政(うじまさ)の次男で、兄が早逝したため後継者となった。母は武田信玄の娘。
1568年、今川家が事実上の滅亡を遂げると、当主・今川氏真(いまがわ・うじざね)の正室・早川殿の甥に当たる氏直が今川家の家督を継いだ。
1580年に父が隠居し北条家の家督も継ぎ、戦で名目上の総大将を務めることは多々あったが、実権は氏政が握っていた。
また氏直の発給した文書は264通見つかっているが、いずれも北条姓を用いておらず、その傀儡的立場と関係があるやも知れない。
1582年、織田信長が本能寺で横死すると氏直の率いる北条軍は織田領の上野を奪い、さらに信濃・甲斐に攻め込んだ。
甲斐では徳川家康と対峙し兵力では勝っていたが、真田家や木曽家の離反、徳川軍による補給線の切断により五分以上の体勢に持ち込まれると、織田家の調停を受けて和睦し、家康の娘・督姫(とく)を氏直がめとった。
信長の後釜に座った豊臣秀吉は惣無事令(戦闘禁止命令)を全国に発し、領土拡大を狙う北条家は氏政やその弟の北条氏照(うじてる)・氏邦(うじくに)ら主戦派と、さらにその弟の氏規(うじのり)・氏直ら穏健派の二派に分かれた。
氏直は軍備増強に務める一方で1588年には家康と旧知の氏規を秀吉のもとへ送り交渉に務めた。またこの頃から氏政は実務を離れ氏直に実権が渡ったと見られる。
しかし1589年、氏邦が真田家の名胡桃城を攻め落とし、北条家討伐の口実を秀吉に与えてしまう。
翌1590年、秀吉は全国に号令を掛け20万超の大軍で小田原城を囲んだ。
3ヶ月にわたる籠城の末、氏直は降伏し自身の切腹と引き換えに家臣の助命を嘆願したが、家康の娘婿ということもあり氏直は助命、主戦派の氏政・氏照らに切腹を命じられた。
氏直は氏規ら一族や重臣とともに高野山への蟄居を命じられるも、翌年には赦免され1万石を与えられ大名に復帰した。
しかしそのわずか3ヶ月後、急病により30歳で没した。
男子はなく、二人の娘も若くして没したが、北条家は氏規の子が河内狭山で1万石ながら大名に復帰し、幕末まで存続している。
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宇都宮国綱(うつのみや・くにつな)
下野の人(1568~1608)
宇都宮広綱(ひろつな)の子。
長く患っていた父が病死し9歳で家督を継いだ。
当時は居城を家臣の皆川家に奪われ、北条家の侵攻を受け宇都宮家は窮地に立たされていた。
1590年には居城は取り戻していたが周辺の城をほとんど落とされ、国綱は平地にある居城を放棄して山城の多気城に籠もり、間近に迫った豊臣秀吉の小田原征伐を待つことしかできなかった。
全国各地から20万以上の大軍を集めた秀吉が北条家を駆逐すると、国綱は下野18万石を安堵され、生涯で初めての安寧を得た。なお小田原征伐では石田三成のもとで忍城攻めに加わったという。
秀吉の信任を得て豊臣姓を賜り、家中の反乱分子も粛清するなど順風満帆に見えたが1597年、突如として改易された。
理由は諸説あるが有力視されているのは、跡継ぎのいない国綱が秀吉の重臣・浅野長政(あさの・ながまさ)の三男を養子に迎えようとしたところ、国綱の弟である芳賀高武(はが・たかたけ)が猛反発し、交渉を進めていた家臣を暗殺してしまい、これに激怒した浅野長政が秀吉に讒言した、というものである。
下野を追われた国綱は秀吉の娘婿である宇喜多秀家(うきた・ひでいえ)に預けられた。
慶長の役で活躍すれば再興させると約束され奮戦したが、そのさなかに秀吉が没したため反故となった。
その後は諸国を放浪し失意のうちに病死したと伝わる。
※アイコンは劉琦
宇都宮広綱(うつのみや・ひろつな)
下野の人(1545~1576)
鎌倉時代から続く名家に生まれたが、5歳の時に父が戦死し、宿老の壬生綱房(みぶ・つなふさ)に居城を奪われた。
広綱は家臣の芳賀高定(はが・たかさだ)に守られて辛くも城を脱出し、彼に養育された。
高定は謀略を駆使して反撃に乗り出し、壬生方についた家臣を次々と暗殺。広綱に味方する勢力を徐々に集めながら外交戦略で北条家の援助を取り付けると1557年、北条家の命を受けた佐竹軍5千とともについに居城を奪い返した。
高定はさらに佐竹義昭(さたけ・よしあき)の娘を広綱の妻に迎えさせ、侵攻してきた上杉謙信軍を多功長朝(たこう・ながとも)の奮戦で撃退すると、逆に上杉家と同盟し、北条家と対立した。
だが役目を終えた高定が引退し、生まれつき病弱だった広綱の容態も花押すら押せないほどまで悪化すると、1572年、重臣の皆川俊宗(みながわ・としむね)が反乱しまたも居城を乗っ取られてしまう。
1576年、失意のうちに広綱は32歳で没した。晩年は長く病床に伏しており、実際にはそれ以前に亡くなっていた可能性も高い。
※アイコンは凌統
猿飛佐助(さるとび・さすけ)
信濃の人(??~??)
真田十勇士の筆頭に挙げられる忍者。本名は井辺武助(いべ・ぶすけ)。
架空の人物だがモデルになった人物は実在するという説もある。
父の鷲尾佐太夫(わしお・さだゆう)は森長可(もり・ながよし)に仕えたが、小牧・長久手の戦いで討ち死にしてしまい、佐太夫は信濃に隠棲し、小夜(さよ)と武助の姉弟をもうけた。
武助は山中で猿と遊んでいたところ、甲賀忍者の戸沢白雲斎(とざわ・はくうんさい)に素質を見込まれ、3年の修行で甲賀忍術を会得した。
武助は後に真田幸村に仕え、猿飛佐助幸吉(ゆきよし)と名付けられ真田十勇士の筆頭格として活躍。
1615年、大坂夏の陣では徳川家康を苦しめるも衆寡敵せず敗北し、幸村とともに薩摩へ逃れた。
江戸時代には早くも伝記を描かれ庶民の間で愛され、現在もなお数々の創作に登場し人気を博している。
~~二人の佐助~~
モデルとされる人物が二人いる。
一人は1570年、金ヶ崎の戦いで木下藤吉郎が殿軍を務めたおり、3千の配下を率いて襲撃した盗賊の猿飛仁助(さるとび・にすけ)である。
再三にわたり浅井・朝倉軍の追撃を受け疲労困憊だった木下軍に抵抗する気力はなかったが、藤吉郎の腹心・蜂須賀小六(はちすか・ころく)の家臣に仁助と旧知の者がおり、彼の説得によって仁助は逆に藤吉郎に降り、天下取りに裏で協力したという。
ただし見ればわかる通り仁助の存在自体が甚だ怪しい。
もう一人が伊賀忍者の下柘植木猿(しもつげ・きざる)で彼の本名が上月佐助(こうづき・さすけ)であり、あわせて猿飛佐助と3文字かぶっている。
また大坂夏の陣の後、服部半蔵(時期から見て5代目の服部正吉(はっとり・まさよし)か)が伊賀の柘植野に侵攻し残党狩りを行っており、下柘植木猿が猿飛佐助である傍証ともされる。
※アイコンは呂範
真田幸隆(さなだ ゆきたか)
信濃の人(1513~1574)
武田二十四将に数えられ、武田信玄の参謀を務めた。真田幸村の祖父。
幸隆は晩年の名乗りで、真田幸綱(ゆきつな)の名を長年にわたり用いたとの説もある。
北信濃の国人衆・海野家か、その娘婿の真田家の生まれとされる。
関東管領・上杉憲政(うえすぎ・のりまさ)に従属していたが1541年、武田信虎(たけだ・のぶとら)に敗れて国を追われ、上野の長野業正(ながの・なりまさ)を頼った。
同年に信虎は嫡子の武田信玄らによって追放され、1545年前後に幸隆は武田家に従ったと見られる。
またその際に身命を賭して戦う覚悟で、三途の川の渡し賃である「六文銭」を旗印に用いだしたという。
信濃の国人衆を調略し、1553年に村上義清(むらかみ・よしきよ)を破り旧領に復すと、以後は関東の調略に回る他、上杉謙信との戦いの最前線にさらされた。
武田家には遅く加わった外様ながら信玄には信頼され、譜代の家臣と同様の扱いを受け、官位から「戦国三弾正」の一人として「攻め弾正」の異名で呼ばれたというが、19世紀に編まれた真田家の記録に依るところが大きく、真偽の程はいささか怪しまれる。
1567年、嫡子の真田信綱(のぶつな)に家督を譲るが、隠居後も防衛戦や策謀には加わったとされる。
1574年、62歳で没した。
翌年、長篠の戦いで信綱と次男の真田昌輝(まさてる)が戦死し、三男の真田昌幸(まさゆき)が跡を継いだ。
孫の真田幸村を含め父子三代にわたるいずれもが名将として知られている。
※アイコンは関羽
斎藤朝信(さいとう・とものぶ)
越後の人(1527?~1592?)
上杉謙信に仕え武神になぞらえ「越後の鍾馗」とうたわれた名将。
上杉家屈指の名将として謙信からの信頼も厚く、謙信の関東管領への就任式では柿崎景家(かきざき・かげいえ)とともに太刀持ちを務めたとされる。
武勇に優れたのはもちろん奉行職も務めるなど内政手腕に長け、卓越した戦術眼も持っていたため、謙信は最も困難と思われる戦場には必ず朝信を差し向けたという。
1578年、謙信の没後に家督争いが起こると、上杉景勝を支持した。
対抗馬の上杉景虎(かげとら)を支持する武田家と交渉し、領土の割譲と引き換えに兵を撤退させたのも朝信である。
家督争いを制した景勝は深く感謝し、景虎の旧領を恩賞として朝信に与えたという。
1582年、本能寺の変後に隠居した。
子の斎藤景信(かげのぶ)は病を得て隠棲した(直江兼続の逆鱗に触れ追放されたとする説もある)が、後にその子は会津米沢に移封となった上杉家から招聘され、子孫は藩士として幕末まで続いた。
~武田信玄との逸話~
明らかに創作だが朝信と信玄との逸話が面白いので紹介する。
朝信は釈迦の十大弟子で才知に長けた富樓那(ふるな)になぞらえ「富樓那の斎藤」と呼ばれていた。
武田家に使いした時、引見した信玄は知行を尋ねると意地悪く「その方は小兵で隻眼なのに600貫ももらっているのか」とからかった。
朝信は「武田家はともかく当家では隻眼になっても禄を減らされません。それどころかやはり隻眼だった先祖になぞらえ武功の印と主は喜んでいます。聞けば御家にも山本勘助(やまもと・かんすけ)殿なる隻眼で片足まで不自由な小兵がいるそうではないですか。それゆえ恥じることなどありません」と堂々と受け答えた。
信玄は「富樓那と聞いていたが晏子(あんし 中国春秋時代の名宰相)のようだ」と感心し褒美を与えたという。