三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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杉重矩(すぎ・しげのり)
周防の人?(??~1553)
大内家の臣。豊前の守護代。
初名は重信(しげのぶ)。その後1539年に重矩に改名し、没前の1553年に重将(しげまさ)に改めた。
もともと陶晴賢(すえ・はるかた)とは犬猿の仲だったが、1551年の晴賢の謀叛(大寧寺の変)ではそれに味方して主君の大内義隆(おおうち・よしたか)を殺した。
理由には諸説あるが、義隆が文治派の相良武任(さがら・たけとう)を重用したことへの反発や、その武任が晴賢との暗闘の末に出奔するも、帰参した際に「相良武任申状」を記し弁明した中で「晴賢や杉重矩が謀叛を企んでいる」と讒言したため、それを恨んだとも言われる。
大寧寺の変の後、重矩と晴賢は再び対立した。
重矩は主君への裏切りと、さらに義隆が歓待していた公卿たちも同時に殺したことを悔やみ蟄居していたが、晴賢は先の「相良武任申状」を手に入れると、その中に重矩が義隆へ「陶晴賢は謀叛を企んでいるから殺すべき」と進言していた記述を見つけ激怒した。
1553年、晴賢軍に撃破された重矩は逃亡するも、進退窮まって自害した。
晴賢は重矩を義隆殺害の首謀者として責任転嫁し、首を晒した。
この謀略は奏功し、重矩を晴賢と対立しながら義隆を殺すために寝返った悪人、と評する史料も存在するという。
その後、重矩の子の杉重輔(しげすけ)は報復の機会をうかがい、1555年に厳島の戦いで毛利元就が晴賢を討ち取ると、晴賢の居城である富田若山城を急襲し、晴賢の嫡男や石見守護代の問田隆盛(といだ・たかもり)らを殺した。
晴賢の義弟で重臣の内藤隆世(ないとう・たかよ)は、大内家を継いでいた大内義長(よしなが)の制止を無視して陶家の残党とともに重輔を攻撃し、首尾よく討ち取ったものの、義隆が発展させ「西の京」とまでうたわれた山口の街は炎上した。
この混乱に乗じて毛利元就は周防・長門へ進撃し、大内義長も内藤隆世も自害へ追い込まれ、大内家は滅亡したのであった。
※アイコンは関靖
相良武任(さがら・たけとう)
周防の人?(1498~1551)
大内家の臣。
大内義隆(おおうち・よしたか)に信頼され右筆や奉行を務め、1537年には評定衆に列した。
1541年、陶隆房(すえ・たかふさ 後の陶晴賢)が尼子家の本拠地である出雲への攻撃を唱えるとそれに反対し、激しく対立した。
この月山富田城の戦いが敗戦に終わると、長男が討ち死にした大内義隆は勢力拡大への意欲を失い、武任ら文治派が家中を支配した。
1545年、隆房ら武断派の工作により失脚した武任は九州へ逃げ、出家して隠棲した。
だが1548年、義隆の要請を受けて大内家に復帰。隆房との暗闘は収まらず、1550年には暗殺を図られるも、事前に察知して義隆に密告し事なきを得た。
武任は美貌で知られた娘を、隆房の長男と縁組させる懐柔策を提案したがすげなく断られ、同年に再び出奔した。
翌1551年1月、筑前で守護代の杉興連(すぎ・おきつら)に身柄を拘束され、大内家に戻された。その際に「相良武任申状」を記し義隆に弁明したが、その中で隆房と、同じ武断派の杉重矩(すぎ・しげのり)、内藤興盛(ないとう・おきもり)らが謀叛を企てていると讒言したため決裂し、8月に武任は三度出奔した。
その10日後、陶隆房は杉重矩とともに大内家に反旗を翻し(大寧寺の変)義隆を暗殺。武任も隆房の腹心・野上房忠(のがみ・ふさただ)に捕らえられ、杉興連ともに殺された。享年54。(杉興連には戦死や義隆とともに自害した等の諸説ある)
後世での評価は二分され「大内義隆記」では「よろず才覚は人にすぐれ」と手腕を高く評価する一方で「老臣らを讒訴する奸臣」と評され、また立花道雪(たちばな・どうせつ)は「思慮を欠いた義隆が、道理を説いている陶隆房より、無道を企てた相良武任を贔屓した」と述べている。
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毛利秀元(もうり・ひでもと)
備中の人(1579~1650)
毛利元就の四男で東方面を任された穂井田元清(ほいだ・もときよ)の嫡子。
1585年、実子のない毛利家当主・毛利輝元(てるもと)の養嗣子になった。推薦した伯父の小早川隆景は「眼差しや秘めたるものが父・元就に似ている」と述べたという。
だが1595年に輝元に待望の男子が生まれると、次期当主の座を自ら明け渡した。
1593年、文禄の役では毛利軍を率いた父や伯父の小早川隆景とともに渡海した。当時15歳ながら、碁盤の上に人を立たせ、それを持ち上げることができたと伝わるほどの怪力で早くも武功を挙げた。
1597年、慶長の役の折には父も亡く、19歳の秀元が毛利軍3万を率い黒田長政(くろだ・ながまさ)、加藤清正らの窮地を救う活躍を見せた。
1599年には独立大名として長門一国と周防・安芸の一部に計17万石を領したが、まだ年若いため家老の安国寺恵瓊(あんこくじ・えけい)が後見役に付けられた。
1600年、関ヶ原の戦いでは輝元が西軍の総大将として石田三成に担ぎ上げられた。
当時の毛利家は秀元、恵瓊、吉川広家(きっかわ・ひろいえ)の三人が中枢にいたが、このうち広家は西軍の敗北を予想し、裏では東軍を率いる徳川家康に内通し「毛利軍を参戦させない代わりに所領安堵する」約定を得ていた。
そして本戦では秀元と恵瓊の前に陣取ったまま動かず、彼らの参戦を阻んだ。付近にいた長宗我部軍、長束軍も毛利家の内通を疑って動けず、戦力で上回っていたはずの西軍はこれによりかなりの兵力を奪われた。
また長宗我部軍が毛利軍に進撃をせっついたものの、秀元は動くに動けず「兵に弁当を食べさせている」と苦し紛れの言い訳をし、秀元の官位である参議が中国で宰相と呼ばれることから「宰相殿の空弁当」という言葉が生まれた。
撤退した秀元は大坂城に入っていた輝元に徹底抗戦を呼びかけたが、輝元はそれに応じず国許へ帰った。
秀元もやむなく引き上げ、戦後、安国寺恵瓊は処刑されたものの広家の働きかけにより毛利家は大減封だけに留まり改易を免れた。
以降、秀元は改めて長門に6万石を分けられ西部方面の抑えを任された。
広家の内通に不満を抱き、しばらくは毛利家の運営から離れていたが、やがて和解すると輝元の子・毛利秀就(ひでなり)を後見し、家康の養女を継室として迎えたり、大坂の陣に参戦したりと幕府の信頼を得るべく奔走した。
一方で輝元と共謀し密かに家臣を豊臣方へ送り込み援助させるなど暗躍もしている。
陰謀が発覚すると広家は隠居、重臣の福原広俊(ふくはら・ひろとし)は失脚し、秀元はますます幕府に近づき折衝に努めた。
秀元は内政にも辣腕をふるい、検地や移封で再整備すると、新法の制定や開墾・農地開拓で37万石の長州藩を実質54万石にまで発展させた。
だが苦労知らずで町人の噂の的になるほど放蕩にふけり、不手際や無礼があっても「毛利殿は生まれつき不調法だから」と呆れ半分に目こぼしされるほど浅薄な性格だった秀就との間には軋轢が生じ、秀元は後見役を辞任すると独立の気配を見せ始めた。
秀就は処罰しようとしたが、秀元のこれまでの功績は絶大で、また将軍・徳川家光とも昵懇だったため手出しできずにいたが1636年、事態を重く見た家光が仲裁に入り、ようやく両者を和解させた。
秀元は晩年は江戸に住み、家光の御伽衆を務め、古田織部(ふるた・おりべ)に学んだ茶の湯を披露するなど悠々自適に暮らし1650年に72歳で没した。
戦国武将の気質を残す最後の大名だったともいわれる。
※アイコンは曹爽
三村元親(みむら・もとちか)
備中の人(??~1575)
父・三村家親(いえちか)は備中の大名で戦上手で知られ、宇喜多直家(うきた・なおいえ)を何度も撃退したが、手を焼いた直家によって1566年に暗殺された。(なお当時としては珍しい(暗殺手段としては初の?)銃殺である)
元親は次男だったが兄は庄家を継いでいたため三村家の家督を相続した。
1567年、元親は早速2万の大軍を率い仇討ち合戦に臨むも、5千の宇喜多軍に返り討ちにあった。
その後も毛利家の援軍を得て何度となく宇喜多軍に挑んだが、父から軍才は受け継がなかったようで、連敗を喫しついには兄も戦死した。
1574年、主家にも等しい毛利家が宇喜多家と和睦すると、元親は一族の三村親成(ちかしげ)や重臣の反対を押し切り毛利家と断交した。
毛利家はすぐさま討伐軍を編成。元親の守る備中松山城は手強いと判断し、まず周囲の支城を落としてから松山城を包囲し、さらに麦刈りをし兵糧攻めを行った。
城内からは離反者が続出し、翌1575年、元親は開城し切腹を申し出た。
幼い息子は助命される見通しだったが、毛利家の小早川隆景(こばやかわ・たかかげ)は彼の利発さに舌を巻き、長じれば災いを招くと考え殺害させたため、三村家の嫡流は途絶えた。
一方、三村親成は毛利家との断交後すぐに出奔し、毛利家に仕えたため難を逃れた。
その後は浪人中に世話をした徳川家の重臣・水野勝成(みずの・かつしげ)に招かれ家老となり、子孫も水野家に仕えている。
※アイコンは曹性
穂井田元清(ほいだ・もときよ)
安芸の人(1551~1597)
毛利元就の四男。初名は毛利元清。
元就に男子は10人おり3本の矢で知られる毛利隆元(もうり・たかもと)、吉川元春(きっかわ・もとはる)、小早川隆景らは正室の子だが、元清以下は側室の子で、元就は意図的に両者を差別し側室の子らを「虫けらのような間抜けで無力なもの」と呼んだ。
一方で隆元らには「もし賢い者がいれば哀れんで取り立てて欲しい」とも命じ、元清はすぐ上の兄である隆景とは昵懇だった。
1568年、村上水軍との同盟強化のため村上通康(むらかみ・みちやす)の娘をめとった。
同年、毛利軍が北九州を攻め手薄になった隙に、宇喜多直家(うきた・なおいえ)が反乱し備中を攻めた。
元清は直家に父を殺された三村元親(みむら・もとちか)とともに反撃し、数年にわたり一進一退の攻防を繰り広げた。
1574年、毛利家が宇喜多家と和睦すると、離反した三村元親を隆景とともに攻め自害へ追い込んだ。
元清は褒美として備中猿掛城を望み、そこを居城に東部方面の守備を任された。
その際に猿掛城のある穂田の地名から穂田(穂井田)に改姓した。
1576年、宇喜多家が織田信長に従属し同盟破棄すると、宇喜多・織田軍と戦った。
1578年には孤立した山中鹿之助(やまなか・しかのすけ)ら尼子軍を攻め、上月城を落とした。
1582年、本能寺の変の際には羽柴秀吉の大軍と戦っていたが、信長の死をきっかけにした和睦以来、毛利家は秀吉に従うようになり、後には秀吉の命で隆景とともに四国、九州を攻めた。
1585年、秀吉が毛利家当主の毛利輝元(てるもと)に跡継ぎがいないと聞くと、養子の秀秋(ひであき)に毛利家を継がせようと持ちかけた。
乗っ取りの危機を感じた隆景はとっさに、元清の長男・秀元(ひでもと)が跡継ぎに決まっていると言い、秀秋を自分の養子に迎え入れると申し出た。
あてが外れたものの秀吉は「日本の東は徳川家康に、西は隆景に任せよう」と言うほど隆景を評価しており、秀秋は小早川秀秋として家督を継いだ。
これにより息子の秀元が跡継ぎに決まり毛利姓に復したため、元清も再び毛利元清を名乗った。
以後は次期当主の父としてますます重きを置かれ、豊臣政権で吉川家、小早川家が独立大名となり毛利家を離れていくと、元清は一門衆の筆頭格となり、毛利家の発給文書には必ず元清か安国寺恵瓊(あんこくじ・えけい)のどちらかが筆頭として署名した。
1592年、文禄の役では病床にあった輝元に代わり毛利軍を率いて渡海し、秀吉が所望した虎2頭を生け捕りにして献上し、京で公開され天皇が見物に来るほど話題を呼んだという。
1597年、47歳で没した。
晩年は病を得て、隆景とどちらが先に逝くか語り合い、間もなく隆景が没すると一月も経ずに後を追うように元清も没したという。
※アイコンは金環三結
亀井茲矩(かめい・これのり)
出雲の人(1557~1612)
尼子家に仕える湯家の長男として生まれる。
1566年、毛利元就によって尼子家が滅ぼされ浪人となった。放浪時代の詳細は不明だが、京に潜伏し尼子家残党の山中鹿之介(やまなか・しかのすけ)や尼子勝久(あまご・かつひさ)と合流したと思われる。
長じると尼子家再興を目指す鹿之助、勝久とともに戦い、鹿之介の養女をめとり、妻の実家である亀井家を継いだ。
尼子残党軍は中国地方へ版図を広げようとする織田信長に降伏し、中国方面軍を率いる羽柴秀吉の指揮下に入った。
だが1578年、信長の方針転換により孤立した残党軍は、毛利軍に上月城を包囲され勝久は自害、鹿之介も処刑されてしまう。茲矩は秀吉のもとにいたため無事で、以降は残党軍を率いた。
茲矩は24歳の若さで前線の城を預けられ、中国大返しの際には宮部継潤(みやべ・けいじゅん)とともに毛利家への抑えとして残されるなど早くから秀吉の信任を得た。
その後は豊臣政権で行政手腕も発揮し、文禄・慶長の役では水軍を任された。
1598年、秀吉が没すると機を見て徳川家康に接近し、1600年の関ヶ原の戦いでは東軍に加わった。
本戦の勝利後に鳥取城を攻めたが落とせず、敵将の斎村政広(さいむら・まさひろ)を寝返らせるとその助けを得て城下を焼き落とし、強引に城を陥落させた。
家康はむやみな放火に気を悪くしたが、政広が焼き討ちの首謀者として切腹を命じられたため、茲矩にお咎めはなかった。
これは茲矩の讒言による工作とする説もある。
戦功により因幡鹿野に3万8千石を与えられ、以降は政治手腕を大いにふるい、また日本海側の大名としては異例の南蛮貿易を行うなど、先見性を示した。
1582年のこと、茲矩はかねてから出雲に領地を得ることを所望していたが、中国大返しに際し毛利家と和睦したため、毛利領の出雲を得ることは不可能となった。
秀吉に代わりにどこに領地が欲しいかと問われた茲矩は、琉球を領地にもらいたいと申し出た。当時は島津家の管理下にあったためやはり実現は難しかったが、秀吉は代わりに扇に「亀井琉球守殿」と記し褒美に与えた。
この扇は文禄の役で朝鮮の将・李舜臣(りしゅんしん)が奪った戦利品の中に含まれており、逸話が真実だと確かめられた。
その他にも居城をインドの古代都市と同じ「王舎城」と名づけたり、明領の「台州守」を自称したりと、茲矩の海外への興味や傾倒は昔からのものだったという。
1612年、56歳で没した。
亀井家は息子の代に出雲へ転封となり、茲矩の悲願は死後に叶えられた。
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浦上宗景(うらがみ・むねかげ)
備前の人(??~??)
父の戦死後、兄の浦上政宗(まさむね)が幼くして家督を継いでいたが1551年、侵攻してきた尼子家に従属しようとした兄と意見が対立し、宗景は反尼子派の家臣とともに独立した。
宗景は安芸の毛利元就に従属し、備中の三村家親(みむら・いえちか)とは同盟し、1560年頃までに尼子・政宗勢力を破り備前の支配権を得た。
だが毛利家に従属した立場に不満を抱き1563年、一転して政宗と和睦すると毛利・三村両家と断交した。
翌1564年、赤松家の内紛に巻き込まれた政宗が息子の結婚式のさなかに暗殺されたものの、跡を継いだ浦上誠宗(なりむね)との関係は良好で、ともに協力し1567年には毛利・三村勢力を備前から駆逐し名実ともに備前を平定した。
宗景はこの機とばかりに誠宗や有力国人衆を暗殺し、さらに地盤を固めた。
だがそうした強引な統治は他の国人衆の反発を招いた。もともと浦上家と他家は主従関係というよりも寄り合い所帯に近く、中でも有力者の宇喜多直家(うきた・なおいえ)は野心深く反抗の機会をうかがっていた。
1569年、播磨の赤松義祐(あかまつ・よしすけ)を救援する名目で兵を動かし、義祐と敵対する赤松政秀(まさひで)を攻撃した。
ところが政秀は懇意にしていた将軍・足利義昭(あしかが・よしあき)に救援を要請。義昭の命で織田信長が援軍を出し、それに乗じて宇喜多直家も反旗を翻し、宗景は挟撃を受け窮地に陥った。
しかし織田軍は背後を三好家に突かれるとすぐに撤退し、宗景はすかさず政秀を攻め立てて降伏させ、孤立した宇喜多直家もやむなく浦上家に帰参した。
1571年、宗景は三好家や山中鹿之介(やまなか・しかのすけ)に率いられた尼子残党と連携し、毛利軍を相手に優勢に戦いを進めた。
しかし毛利元就は北九州での大友宗麟(おおとも・そうりん)との争いに見切りをつけると、兵を本州に引き上げ浦上軍に対して反転攻勢に転じた。
そこで宗景は(赤松政秀を通じて?)足利義昭に仲介を頼み毛利家と和睦し、さらに織田信長からは備前・播磨・美作の支配権を認める朱印状を得た。
浦上家はここに最盛期を迎えたが、それはここまで宗景に協力してきた小寺家や、信長の手先として激しく争ってきた別所家ら東播磨の大名らを臣下扱いにすることを意味し、彼らの反感を招いた。
1574年、宇喜多直家は小寺政職(こでら・まさもと)に預けられていた浦上政宗の孫に目を付け、擁立すると再び謀叛を起こした。
直家は前回の反省を活かし、美作や備前の国人衆に事前に根回ししており、次々と浦上家から離反させた。
さらに毛利軍も兵を挙げ三村家を滅ぼすと、もはや宗景に抗す術はなく、居城を捨てて逃亡した。
宗景は一族や旧臣とともに備前でゲリラ戦を展開し、さらに幾度となく上洛し織田信長に支援を請うたが色好い返事は得られなかった。
そして1578年、味方勢力を結集しいったんは居城を奪回したものの、すぐに鎮圧され、以降は表舞台から姿を消した。
宗景の最期も判然としないが、かつて小寺家に仕えていた黒田官兵衛に招かれ、黒田家の治める筑前に移り80歳前後で没したと思われる。
※アイコンは陳敗
安国寺恵瓊(あんこくじ・えけい)
安芸の人(1537?~1600)
毛利家に仕えた僧侶。
安国寺は住持した寺の名で、禅僧としての正しい名は瑶甫恵瓊(ようほ・えけい)。
父は安芸武田家に仕えたが、5歳の時に毛利元就によって滅ぼされたため、恵瓊は安国寺に逃れ出家した。
師が元就の嫡子・毛利隆元(もうり・たかもと)と親交があったため、その縁で毛利家に仕えるようになった。
大友宗麟(おおとも・そうりん)や朝廷への交渉役を務める他、軍勢を率いることもあった。
将軍・足利義昭(あしかが・よしあき)は後に毛利家のもとへ落ち延びるが、恵瓊は再三にわたりそれに反対し、織田信長との同盟を主張したという。
一方で1573年、毛利家の家臣に宛てた手紙で「信長の世は3年から5年は続くが、その後は高転びするだろう。木下藤吉郎という者は大した人物だ」と記しており、後の信長の失墜と秀吉の躍進を見事に言い当てている。
1582年、毛利軍が羽柴秀吉と備中高松城でにらみ合いをするさなか、信長が本能寺で討たれた。
秀吉はその事実を隠し毛利家との和睦を結び撤退した。その際に毛利家の窓口として積極的に和睦をまとめ上げたのが恵瓊である。
秀吉が明智光秀を討ち、対抗勢力を次々と下し天下人への道を上り始めると、1585年、毛利家はいち早く秀吉への臣従を決めた。恵瓊はその時も交渉役を務めている。
大いに秀吉に気に入られた恵瓊は毛利家から離れ秀吉の側近になり、四国制圧後には伊予和気2万3千石を与えられ、1586年の九州制圧後には6万石に加増され僧侶ながら大名となり、外交、検地、戦と全面的に活躍した。
特に肥後国人一揆では毛利軍を率いて第二陣として出撃し、国人衆をあるいは調略し、あるいは暗殺し一揆を迅速に鎮圧した。
文禄・慶長の役でも小早川隆景とともに参戦。戦働きの他、僧侶らしく現地の子供に日本語を教えたりもしたという。
恵瓊は豊臣家と毛利家の橋渡し役もしていたが秀吉、小早川隆景が没すると毛利家は吉川広家(きっかわ・ひろいえ)ら反豊臣派が台頭した。
しかし1600年、関ヶ原の戦いでは懇意にしていた石田三成にいち早く通じ、西軍の総大将として毛利輝元(てるもと)を担ぎ上げることに成功。
本戦にも出陣したが、吉川広家は裏で徳川家康と内通しており、毛利・安国寺軍の前に布陣したまま動かず、両軍は参戦できずに合戦は終結した。
恵瓊は逃亡したが家康の娘婿・奥平信昌(おくだいら・のぶまさ)の兵に捕らえられ(捕らえたのは長篠の戦いで著名な鳥居強右衛門(とりい・すねえもん)の子だという)石田三成、小西行長(こにし・ゆきなが)ら西軍の主力とともに斬首された。
なお戦後、毛利家はいったんは取り潰されかけたが、吉川広家が奔走し安芸一国への減封で存続させている。
※アイコンは万秉
尼子義久(あまご・よしひさ)
出雲の人(1540~1610)
出雲の大名・尼子晴久(はるひさ)の嫡子。
1560年、父が急逝したため家督を継いだ。晴久は当時、地盤固めのため有力な親族を暗殺し、国人衆にも強硬な態度をとっており、死を契機に抑圧されていた不満が一気に噴出した。
また毛利元就とは石見銀山を争っていたが、晴久の死を伏せて和睦を結んだものの、元就は晴久の死を察知しており、あえて和睦を受け入れ、裏で尼子家の不穏分子に調略を仕掛けた。
さらに元就は和睦の条件として、石見への不干渉を受諾させた。これにより石見で毛利家に反乱していた国人衆が、尼子家の後ろ盾を失い孤立。反乱を支援していた尼子家の家臣らも援軍を望めなくなった。
義久は北九州の大友宗麟(おおとも・そうりん)と同盟を結び元就に対抗したものの、1562年には重臣の本城常光(ほんじょう・つねみつ)が毛利家に寝返り、牛尾久清(うしお・ひさきよ)らは出雲に撤退。赤穴家、三刀屋家などの国人衆は戦わずして次々と毛利家に降った。
外堀を埋められるように尼子家は孤立を深めていき1565年、ついに居城の月山富田城を包囲された。
城の守りは固く、元就は力攻めを早々に諦めると、兵糧攻めに切り替えた。
兵糧が減るにつれ、尼子家に代々仕えてきた家老らも一人また一人と毛利家に降っていき、義久も疑心暗鬼にかられ宇山久兼(うやま・ひさかね)を謀叛の疑いで誅殺するなど、混乱に拍車を掛けた。
そして1566年11月、義久はついに開城降伏し、戦国大名としての尼子家は滅亡した。
義久と2人の弟は助命され、当初は幽閉されたものの、後には客将扱いを受けた。
後年、山中鹿之助(やまなか・しかのすけ)らがかつて晴久が粛清した一族の末裔である尼子勝久(かつひさ)を擁立し挙兵した時も、義久ら三兄弟は沈黙を守った。
1610年、義久は71歳で没した。
男子がなかったため、毛利家の意向により甥が跡を継ぎ、尼子家は幕末まで毛利家の家臣として存続した。
山中鹿之介(やまなか・しかのすけ)
出雲の人(1545~1578)
尼子家の家臣。実名は山中幸盛(ゆきもり)。
滅亡した尼子家の再興に尽くし「尼子十勇士」など講談に描かれ半ば伝説化した人物で、前半生ははっきりしないが、山中家は尼子家の一門衆で家老を務めたとされる。
三日月に「我に七難八苦を与えたまえ」と祈った逸話は「ドラえもん」などでも触れられ特に著名である。
毛利元就は勢力の衰えた尼子家の本拠地・出雲へ兵を進め、1563年に白鹿城を包囲した。
幸盛は尼子倫久(あまご・ともひさ)の下で救援に赴くが、敗北を喫し退却した。幸盛は200の兵で殿軍を務め、吉川元春(きっかわ・もとはる)、小早川隆景(こばやかわ・たかかげ)の追撃を7度にわたり撃退したという。
その後も尼子軍は劣勢を覆せず連敗したが、幸盛は戦のたびに一騎打ちで敵将の首を挙げたと伝わり、ますます記述が怪しい。
そして1567年、ついに尼子義久(よしひさ)は居城を明け渡して毛利軍に降伏した。
義久、倫久ら三兄弟は幽閉されることとなり、幸盛も随行を申し出たが許可されず、出雲大社で主君と別れると、以降は尼子家再興のための戦いを始めた。
2年間、幸盛の足取りは不明となり、巡礼姿で東へ向かい武田家や上杉家の軍法を、朝倉家で文化を学んだともいう。
1568年、幸盛はかつての尼子家の宿敵・山名家から援助を引き出すと、尼子家旧臣の立原久綱(たちはら・ひさつな)らとともに、京の東福寺で僧をしていた尼子勝久(かつひさ)を還俗させ、主君として担ぎ上げた。
(勝久の父・尼子誠久(さねひさ)は尼子家の重臣だったが、義久の父・尼子晴久(はるひさ)に地盤固めのため粛清された人物で、勝久は助命され僧侶となっていた)
1569年、毛利元就が北九州へ出兵した隙をつき、幸盛ら尼子軍は蜂起すると出雲へ進撃した。
丹後・但馬国から数百艘の船で上陸し、まずは近隣の砦を占拠。尼子家再興の檄を飛ばすと、旧臣が次々と呼応し3千あまりの軍勢が集まった。
尼子家の居城・月山富田城を包囲したが、石見方面の別働隊が窮地に陥ったため、幸盛は包囲を解き救援に向かい、毛利軍を蹴散らすとその勢いのまま出雲の諸城を16落とし、兵力は6千に膨れ上がった。
毛利元就は三刀屋久祐(みとや・ひさすけ)ら出雲の国人衆を戻して対処させようとしたが、幸盛は逆に彼らを降伏させ、とうとう出雲の奪還に成功。(しかし三刀屋久祐は間もなく尼子軍を離脱し以降は毛利家に従った)
さらに神西元通(じんざい・もとみち)を寝返らせ伯耆、因幡、備後、備中、美作ら毛利家の東方面全域に勢力を伸ばした。
それに加え大内輝弘(おおうち・てるひろ)がかつて毛利家に奪われた周防の奪回を目指し挙兵すると、毛利元就は反乱を捨て置けず、九州から兵を引き上げることを決断した。
反撃に乗り出した毛利軍は、挙兵から半月足らずで大内輝弘を自害に追い込むと、全軍を率いて東進。対する尼子軍はいまだ月山富田城を落とせずにいたため、布部山に陣を張り迎え撃ったものの大敗を喫した。
毛利の大軍を前に尼子軍は為す術もないまま各個撃破されていったが、1570年9月、毛利元就が重病に陥り主力が撤退すると息を吹き返した。
幸盛は長く争っていた隠岐弾正(おき・だんじょう)を味方につけ日本海側の制海権を得ると、再び出雲に侵攻。しかし病の癒えた元就は児玉就英(こだま・すけひで)に毛利水軍を率いさせ、制海権を奪い返すと、ついに反乱は鎮圧され、尼子勝久は隠岐へ逃亡。幸盛は吉川元春に捕らえられ、幽閉された。
だが幸盛は間もなく幽閉先から脱走し、毛利家に因幡を支配されつつあった山名豊国(やまな・とよくに)の協力を取り付け、1573年に再び蜂起した。
因幡武田軍5千が籠もる鳥取城を1千の兵で攻略し、10日で因幡の15の城を落とす快進撃を見せたが、肝心の山名豊国が毛利家に懐柔され、鳥取城を明け渡してしまった。
幸盛は近くは浦上家、遠くは大友家や織田家とわたりを付け戦線維持に務めたものの、但馬の山名祐豊(すけとよ)までもが宿敵の毛利家と和睦してしまい後ろ盾を失った。
それでも幸盛は5万近い毛利軍を一時は撃退して見せたが、三村家、浦上家、三浦家ら反毛利勢力が次々と敗れ、やむなく因幡から撤退した。
1576年、幸盛は織田信長に降り、織田軍の力を借りて尼子家再興を目指す。
明智光秀の丹波攻略や、反乱した松永久秀(まつなが・ひさひで)討伐戦に幸盛の名が見える。
羽柴秀吉が中国方面へ侵攻すると、尼子軍もそれに加えられた。
しかし1578年、別所長治(べっしょ・ながはる)が反乱すると、それを好機と毛利軍は反撃に出て尼子軍を包囲した。秀吉は救援に向かおうとしたが緒戦で敗北し、また信長から別所家の討伐を優先するよう命じられたため断念。
孤立した尼子軍は、勝久の切腹と引き換えに城兵を解放することを条件に毛利家へ降伏した。
その際、勝久は幸盛らに僧侶で人生を終えるはずだった自分を大将にしてくれた礼を述べたというが、これは創作と思われる。
幸盛は毛利輝元(てるもと)のもとへ送られる途中で暗殺された。
勝久と幸盛の死をもって、尼子家再興の道は閉ざされたが、尼子家残党は旧臣の亀井茲矩(かめい・これのり)にまとめられ、亀井家は1617年に石見に転封となり、幸盛の悲願は間接的に叶えられたとも言えるだろうか。
また幸盛の長男とされる山中幸元(ゆきもと)は、父の死後に帰農すると摂津の鴻池村で酒造業を始めて財をなし、豪商・鴻池財閥の始祖となったという。
尼子家再興に生涯を捧げた幸盛の忠誠心は後世の人々に称賛され、江戸時代には数々の講談を作られた。
やがて悲運の英雄・山中鹿之助は明治以降の国民教育の題材として採り上げられ、彼の名は広く人口に膾炙することとなった。
ちなみに幸盛らが御家再興に奔走する中、毛利家に幽閉されていた尼子宗家の義久ら三兄弟は何をしていたかというと、反乱には一切関知せず、やがて毛利家の客将となり全員が1600年代まで生きながらえている。
そして倫久の子が尼子家を継ぎ、別の形でも尼子家の再興はなった。彼らの生涯もまた面白いものだが、それと比べれば幸盛らの孤軍奮闘ぶりがさらに際立ち、創作での美化に一層の拍車が掛かったと言えるかもしれない。