三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
本ブログの更新を停止します。
先日の長期間のサーバー落ちを始め、今も頻発するエラーによる記事消失の危険性や、忍者ツールズの機能縮小でブログもいつまでサービス継続されるか不安であり、膨大な時間を掛けて書いた記事が失われる前に、撤退を決意しました。
今後は三国志記事は弊サイト → 小金沢ビルヂング に移行して、1日1人以上のペースで更新していきます。
戦国記事も移行作業中です。
本ブログは忍者ツールズさんの意向次第ですが、閉鎖せずに放置させていただきます。
長い間ありがとうございました。
小金沢
※アイコンは厳綱
杉重矩(すぎ・しげのり)
周防の人?(??~1553)
大内家の臣。豊前の守護代。
初名は重信(しげのぶ)。その後1539年に重矩に改名し、没前の1553年に重将(しげまさ)に改めた。
もともと陶晴賢(すえ・はるかた)とは犬猿の仲だったが、1551年の晴賢の謀叛(大寧寺の変)ではそれに味方して主君の大内義隆(おおうち・よしたか)を殺した。
理由には諸説あるが、義隆が文治派の相良武任(さがら・たけとう)を重用したことへの反発や、その武任が晴賢との暗闘の末に出奔するも、帰参した際に「相良武任申状」を記し弁明した中で「晴賢や杉重矩が謀叛を企んでいる」と讒言したため、それを恨んだとも言われる。
大寧寺の変の後、重矩と晴賢は再び対立した。
重矩は主君への裏切りと、さらに義隆が歓待していた公卿たちも同時に殺したことを悔やみ蟄居していたが、晴賢は先の「相良武任申状」を手に入れると、その中に重矩が義隆へ「陶晴賢は謀叛を企んでいるから殺すべき」と進言していた記述を見つけ激怒した。
1553年、晴賢軍に撃破された重矩は逃亡するも、進退窮まって自害した。
晴賢は重矩を義隆殺害の首謀者として責任転嫁し、首を晒した。
この謀略は奏功し、重矩を晴賢と対立しながら義隆を殺すために寝返った悪人、と評する史料も存在するという。
その後、重矩の子の杉重輔(しげすけ)は報復の機会をうかがい、1555年に厳島の戦いで毛利元就が晴賢を討ち取ると、晴賢の居城である富田若山城を急襲し、晴賢の嫡男や石見守護代の問田隆盛(といだ・たかもり)らを殺した。
晴賢の義弟で重臣の内藤隆世(ないとう・たかよ)は、大内家を継いでいた大内義長(よしなが)の制止を無視して陶家の残党とともに重輔を攻撃し、首尾よく討ち取ったものの、義隆が発展させ「西の京」とまでうたわれた山口の街は炎上した。
この混乱に乗じて毛利元就は周防・長門へ進撃し、大内義長も内藤隆世も自害へ追い込まれ、大内家は滅亡したのであった。
※アイコンは関靖
相良武任(さがら・たけとう)
周防の人?(1498~1551)
大内家の臣。
大内義隆(おおうち・よしたか)に信頼され右筆や奉行を務め、1537年には評定衆に列した。
1541年、陶隆房(すえ・たかふさ 後の陶晴賢)が尼子家の本拠地である出雲への攻撃を唱えるとそれに反対し、激しく対立した。
この月山富田城の戦いが敗戦に終わると、長男が討ち死にした大内義隆は勢力拡大への意欲を失い、武任ら文治派が家中を支配した。
1545年、隆房ら武断派の工作により失脚した武任は九州へ逃げ、出家して隠棲した。
だが1548年、義隆の要請を受けて大内家に復帰。隆房との暗闘は収まらず、1550年には暗殺を図られるも、事前に察知して義隆に密告し事なきを得た。
武任は美貌で知られた娘を、隆房の長男と縁組させる懐柔策を提案したがすげなく断られ、同年に再び出奔した。
翌1551年1月、筑前で守護代の杉興連(すぎ・おきつら)に身柄を拘束され、大内家に戻された。その際に「相良武任申状」を記し義隆に弁明したが、その中で隆房と、同じ武断派の杉重矩(すぎ・しげのり)、内藤興盛(ないとう・おきもり)らが謀叛を企てていると讒言したため決裂し、8月に武任は三度出奔した。
その10日後、陶隆房は杉重矩とともに大内家に反旗を翻し(大寧寺の変)義隆を暗殺。武任も隆房の腹心・野上房忠(のがみ・ふさただ)に捕らえられ、杉興連ともに殺された。享年54。(杉興連には戦死や義隆とともに自害した等の諸説ある)
後世での評価は二分され「大内義隆記」では「よろず才覚は人にすぐれ」と手腕を高く評価する一方で「老臣らを讒訴する奸臣」と評され、また立花道雪(たちばな・どうせつ)は「思慮を欠いた義隆が、道理を説いている陶隆房より、無道を企てた相良武任を贔屓した」と述べている。
※アイコンは曹彰
結城秀康(ゆうき・ひでやす)
遠江の人(1574~1607)
徳川家康の次男。
母は家康の正室・築山殿(つきやま)の女中で、懐妊を知った家康は妻の勘気を恐れ、重臣の本多重次(ほんだ・しげつぐ)に預けた。
双子に生まれたが、当時は双子は忌み嫌われており、また母の身分が低いことから家康に疎まれ、父と初対面したのも3歳の時、それも不憫に思った長兄の松平信康(まつだいら・のぶやす)のはからいによるという。
1579年、その信康が父との不仲から自害を命じられ、秀康は後継者の筆頭に躍り出た。
しかし1584年、小牧・長久手の戦い後に豊臣秀吉と和睦した際、家康は人質として(表向きは養子)秀康を差し出したため、三男の徳川秀忠が後継者となった。同年に元服し、秀吉と家康から一字ずつもらい秀康と名乗った。
武勇に優れ14歳で初陣を果たすと、九州征伐、小田原征伐などで次々と武功を立てた。
しかし1589年、秀吉に待望の実子が生まれると立場を失い、実父の家康が関東に移封されると、徳川家への加増の名目で名門・結城晴朝(はるとも)の養子に出され、下総の結城領11万石を継いだ。
1600年、関ヶ原の戦いでは会津の上杉景勝への牽制役となり、その功績により一門衆1位の加増を受け越前北ノ庄67万石に転封された。
だが1607年、34歳の若さで没した。死因とされる梅毒を患い、晩年は鼻が欠けていたという。
武将としては一流で、勇猛ながら謙虚な人柄でも知られ、家康にその豪胆さを感心されることもあった。
旗印として出生時に母をかくまった本多重次の「本」の字をあしらった物を用いており、またその図案を作ったのは家康との対面の場を設けた長兄の信康だという。受けた恩を忘れない秀康の律儀さがしのばれる。
家康が後継者を誰にすべきか重臣に問うた時、実際に跡を継いだ徳川秀忠よりもその名を挙げるものは多かったという。
秀忠が家督を継いだ時、秀康は伏見城代を務めていた。出雲阿国を招き歌舞伎を見物すると「天下に幾千万の女はあれど、天下一の女は阿国だろう。私は天下一の男になるどころか、彼女にすら及ばない」と嘆息したといい、その内には野心を秘めていたことがうかがえる。
死後、家督は長男の忠直(ただなお)が継いだが、間もなく松平姓に復してしまった。
結城家が途絶えるのを恐れた結城晴朝は幕府に必死に訴え出て秀康の五男・直基(なおもと)を養子にもらい受けたものの、晴朝の死後に直基も松平姓に戻し、結局は途絶えてしまった。
また双子の兄弟とされる永見貞愛(ながみ・さだちか)は夭折したことにされ、母の実家の永見家に預けられ、長じると伯父の神職を継ぎ、秀康よりも2年早い1605年に没している。
※アイコンは雅丹
三浦按針(みうら・あんじん)
イングランドの人(1564~1620)
本名はウィリアム・アダムス。
イングランド南東部のケント州ジリンガムに生まれ、船員だった父を亡くすと12歳でロンドンに移り住み船大工に弟子入りした。
しかし造船術よりも航海術に興味を抱き、奉公を終えると15歳で海軍に入隊した。
やがて家庭を築き一男一女をもうけたが、軍を離れ商会の航海士となり多忙を極めたため、家にはほとんど寄り付かなかったという。
1598年、オランダから極東を目指す船団が航海士を探していると聞き、興味を覚えたアダムスは弟とともにそれに応募した。
しかし航海は船団5隻のうち2隻が他国に拿捕され、1隻は途中で帰還、もう1隻は沈没と惨憺たる結果で、アダムスの乗ったリーフデ号も1600年に豊後の黒島に漂着し、途上で赤痢や壊血病、インディオの襲撃により110人の乗組員のうち86人が脱落し、弟もインディオに殺害されていた。
乗組員は衰弱し自力で上陸すらできず、長崎奉行の寺沢広高(てらさわ・ひろたか)はアダムスらの身柄を拘束し武器を奪うと、豊臣家に判断を仰いだ。
五大老筆頭の徳川家康が裁定を下すこととなり、重体で身動きの取れない船長に代わりアダムスやヤン=ヨーステンらが大坂に護送された。
オランダやイングランドと敵対するイエズス会の宣教師は彼らを海賊と断定し処刑を求めていたため、家康もはじめは警戒したが、直接引見すると、アダムスらの理路整然とした説明と堂々たる態度に感心し、居城のある江戸に招いた。
アダムスは帰国を望んだが、彼らを気に入った家康は俸禄や家を与えるなど慰留に努め、外国使節との通訳や助言役に用い、数学や航海術など知識の提供を求めた。
やがて帰国を諦めたアダムスは、1602年頃に家康の御用商人でもあった馬込勘解由(まごめ・かげゆ)の娘をめとり、一男一女をもうけた。
さらにアダムスの船大工だった過去を知ると家康は西洋式の帆船の建造を求めた。
造船の経験は浅く、当初は難色を示したが断り切れず、大型船の建造に成功し、このガレオン船は1610年に上総に漂着した前フィリピン総督ドン・ロドリゴに貸し出され、彼を無事にエスパーニャ(スペイン)に送り届けたという。
この功績により家康はアダムスを旗本に取り立て、相模逸見に所領を与え帯刀を許し、アダムスは異国人ながら武士となった。
家康はあわせて所領のある三浦半島から「三浦」姓を、水先案内人という意味の「按針」という名の日本名を与えた。
1613年、東インド会社の交易船が来航し、按針は家康への仲介や通訳を務めた。
交易船が帰国する際、家康からもイングランドからも按針に帰国の許可が下りたが、船長のジョン・セーリスは何事も日本式を強要する按針を厭い、按針も年若く横暴なセーリスと馬が合わなかったため、それを見送り日本に残った。
1616年、家康が没すると徳川幕府は鎖国政策を強めたため、按針は天文官を務めるだけの不遇な日々を送り、1620年に55歳で没した。
日本でもうけた息子のジョセフが三浦按針の名とともに武士の身分を受け継ぎ、鎖国後も交易を許されたという。
時は下り1982年、按針の所領があった横須賀市は、その縁から生まれ故郷のジリンガム市と姉妹都市提携を結んでいる。
※アイコンは太史慈
水野勝成(みずの・かつしげ)
三河の人(1564~1651)
徳川家。全国を放浪し各地に伝承を残す豪傑風の人物で、後に初代福山藩主となった。
母は本願寺の法主・教如(きょうにょ)の妹とされる。徳川家康の母は勝成の伯母にあたり、自身も二代将軍・徳川秀忠の乳兄弟だったが、父の水野忠重(ただしげ)が織田信長に引き抜かれはじめは織田家に仕えた。
1580年、父とともに武田家の高天神城を攻め初陣を飾った。その際に城内に祀られた天神像を強奪し、本尊として身につけたという。
1582年、父のもとを離れ徳川軍に加わり北条家と戦った。勝成は抜け駆けした徳川家の重臣・鳥居元忠(とりい・もとただ)に激怒し「今日より貴殿の指図は受けず、自らの才覚により戦を行う」と言い放ち、敵陣に突入し多くの首級を挙げたという。
1584年、小牧・長久手の戦いでは織田信雄(のぶかつ)に仕える父に従い、羽柴秀吉軍と戦った。
その際、勝成は結膜炎で眼を痛め兜をかぶれず、鉢巻を巻いていた。忠重が「お前は兜を小便壺にしたのか」とからかうと勝成は激昂し、兜なぞ不要とばかりにそのまま敵陣に突入し一番首を挙げた。また敵将で「鬼武蔵」とうたわれた森長可(もり・ながよし)を討ち取ったのも水野家の兵である。
だが忠重は息子の抜け駆けに怒り、さらに同年、自分の不行状を父に密告したかどで忠重の部下を斬り殺したため、ついに奉公構(他家への仕官禁止処分。死罪に次ぐ重罰)を出し勝成を勘当した。
勝成は京に流れると寺で寝泊まりし、無頼漢と交わっては喧嘩に明け暮れ、相手を殺すことも多々あった。
1585年、四国征伐で仙石秀久(せんごく・ひでひさ)の軍に加わり手柄を立て、秀吉から知行を与えられたものの、間もなく出奔し改名すると中国地方に潜伏した。
秀吉に刺客まで放たれたというから相当の怒りを買ったと思われるが、詳細は不明である。
1587年、佐々成政(さっさ・なりまさ)に招かれ肥後国人一揆の鎮圧で活躍したが(一揆の首謀者・隈部親永(くまべ・ちかなが)を討ったのも勝成とされる)成政は単独で鎮圧できなかった責任を取り切腹。
隣国を治める黒田官兵衛に仕えたものの、官兵衛の子・黒田長政(ながまさ)とともに大坂に船で向かう途上でまたも出奔した。長政に操舵の手伝いを命じられ憤慨したとも、秀吉に会うのを嫌がったともされる。
その後は小西行長(こにし・ゆきなが)、加藤清正、立花宗茂ら九州各地の大名のもとを転々としたがいずれも長続きしなかった。
放浪生活を再開した勝成は、各地に様々な伝承を残した後、1594年に備中の三村親成(みむら・ちかなり)に仕えた。
だがここでも茶坊主を無礼討ちして出奔したり、出戻るもすぐに世話役の娘に手を付け子供を産ませたりと問題行動を繰り返した。(その娘・お登久(とく)は正室として迎えた)
1599年、秀吉が没すると勝成は妻子を残し単身で徳川家に帰参し、父とも15年ぶりに和解した。
だが翌1600年、関ヶ原の戦い直前に父の忠重は、石田三成の密命を帯びた加賀井重望(かがのい・しげもち)に西軍に誘われるも、拒絶したため暗殺された。
勝成は遺領の三河刈谷3万石を継ぎ、関ヶ原本戦には加わらなかったが西軍の拠点・大垣城を攻め落とした。
その際に加賀井重望の息子を殺して父の仇討ちをし、また守将の福原長堯(ふくはら・ながたか)が三成から与えられた名刀を奪い、勝成の日向守の官位にちなみ「名物日向正宗」と名付け、これは現存し国宝にも指定されている。なお日向守は明智光秀の没後、名乗る者がいなかったが勝成はむしろ自らそれを望んだという。
関ヶ原で敗れた三成、小西行長らは道端に晒され、諸大名は無視するか侮蔑の言葉を浴びせたが、勝成は彼らに編笠をかぶせてやり、旧主の行長の恩に報いた。
1608年、ようやく備中に残してきた妻子を迎え入れ、息子の水野勝俊(かつとし)は徳川秀忠に仕えるようになった。
しかし妻・お登久は1634年に幕府から人質を求められた際、他に身寄りがなかったため人質に差し出し、嫁ぎ先を探してやった後に別の正室を新たに迎えている。
1615年、大坂夏の陣では勝成の気性をよく知る家康は「昔のように自ら先頭に立って戦うな」と厳命したが、当然のようにそれを無視して自ら偵察まで行い、かつてともに黒田家に仕えた後藤又兵衛(ごとう・またべえ)の軍に先陣切って襲いかかり一番槍をつけた。
後藤軍を破るとさらに渡辺糺(わたなべ・ただす)、薄田兼相(すすきだ・かねすけ)も撃破し、兼相を討ち取った。
快進撃の水野軍に対し大坂方からは真田幸村、毛利勝永(もうり・かつなが)、明石全登(あかし・てるずみ)ら主力が現れにらみ合いになると、勝成は隣に陣を構える伊達政宗にも進軍を促したが、被害を最小限に留めたい政宗は弾薬不足や負傷者多数と偽り二度にわたりこれを拒否。三度目には政宗自ら勝成のもとに出向き断ったため、やむなく勝成もこれ以上の進撃をあきらめた。
翌日、真田幸村が家康の本陣に斬り込み乱戦になると、勝成は茶臼山を落としてその後方を遮断。さらに真田軍の背後を襲い家康の窮地を救った。
また最期が判然としない明石全登の死亡説の一つは水野軍が討ち取ったとされ、勝成も自ら明石軍から2つの首級を挙げており、水野軍にはかの宮本武蔵もいたという。
勝成は大坂夏の陣において戦功第二と激賞されたものの、大和郡山に3万石の加増に留まった。
約束を破り先頭に立って戦ったことに家康が激怒した、石高に関わりなく大坂に近く反乱の懸念の強い要地を任された、など諸説あり、また水野家の伝承では石高の低さに激昂した勝成を秀忠は「家康の隠居後に10万石与える」となだめたとされる。
1619年、福島正則が改易されると代わって勝成に備後福山10万石が与えられた。
備後には勝成の放浪時代の伝承が多く残っており、地の利があると考えられたと見られる。
すでに新規の築城は禁じられていたが、特例として認められ勝成は福山城を築いた。これは近世城郭として築かれた最後の城で、また10万石の城としては破格の巨城である。
勝成は旧主の三村親成を家老として迎え入れるなどかつての人脈を活かし、画期的な施策を多く打ち出し福山を発展させた。
目付役を置かず法度も設けなかったが家臣の統制も堅く、隣国の池田光政(いけだ・みつまさ)は「良将の中の良将」と勝成を讃えた。
徳川家からの信頼も厚く、他大名の家中の騒動を調停したり、将軍の不興を買った者を預けられたりもした。
1638年、島原の乱では九州以外の大名で唯一、幕府から直々に参戦を要請された。
75歳の勝成は「知恵伊豆」の異名で知られる松平信綱(まつだいら・のぶつな)、戸田氏鉄(とだ・うじかね)と並ぶ軍師格に置かれ、包囲陣の最後尾に布陣したものの、総攻撃が始まるとすかさず前に出て(さすがに老齢の勝成は後方に残ったが)水野勝俊が本丸の一番乗りを競った。
翌年、家督を勝俊に譲ったが意欲は衰えず、隠居料の1万石は藩政につぎ込み、80歳にして仏門修行を始めた。87歳の時に鉄砲を撃ち的に命中させて周囲の者を驚かせたと伝わる。
1651年、88歳で没した。徳川二十八神将として日光東照宮にも配祀され、水野家は5代目が2歳で夭折しいったん途絶えたものの、勝成の名を惜しみ勝成の孫が代わって藩主となり存続した。
※アイコンは曹植
松平信康(まつだいら・のぶやす)
三河の人(1559~1579)
徳川家康の長男。本来は徳川姓だが江戸時代に「徳川姓は将軍家と御三家に限る」と制定されたため松平姓に格下げとなった。
幼少期は父と同じく今川家の人質として育ったが、1560年、桶狭間の戦いの後、徳川軍の捕虜となった今川一族の者と交換で家康のもとに戻った。
1567年、同盟する織田信長の娘・徳姫(とく)と、ともに9歳で結婚した。同年6月に家康は浜松城に移り、岡崎城は信康に与えられた。
同年7月、元服し信長と家康から一字ずつもらい受け信康と名乗った。
勇猛で知られ15歳で初陣を飾ると、1575年、長篠の戦いでは17歳にして一軍を率い、武田家との戦いで武功を重ねた。
しかし1579年、母の築山殿(つきやま)とともに自害を命じられ21歳で没した。
切腹の理由は諸説あり、最も知られているのが家康との不仲と、母の武田家との内通疑惑である。
1579年、かねてより姑の築山殿と不仲で、夫とも不和になった徳姫は父の信長へ夫の不行状と姑が武田家に内通していることを訴えた。
信長が徳姫の使者を務めた酒井忠次(さかい・ただつぐ)を問いただすと、全く釈明せずに事実を認めたため、信長は信康の切腹を家康に求めた、とするものである。
しかし信康がしばしば農民や周囲の者を無益に殺した、とするのは風説に過ぎず、また築山殿は今川義元の姪にあたり、今川家から独立した家康と不仲だったのは事実ながら、武田家と内通したとするのも無理がある。
長男を死に追いやっておきながら、酒井忠次はその後も徳川家の重臣として遇されているのも不自然である。
近年の研究では、この件に信長は関わっておらず、単純に家康と信康父子の不仲が原因と目されている。
不仲の末に信康が謀叛を企んだため、信康の岳父で同盟相手の信長に相談したところ「家康の思い通りにせよ」と答えられ、家康の判断により妻と息子に自害を命じたのが事の経緯であろうか。
余談だが後年、六男の松平忠輝(ただてる)を引見した家康は、あまりに信康の幼い頃に酷似しているのに驚き、極端なほど忠輝を遠ざけている。
一方で1600年、関ヶ原の戦いで三男の徳川秀忠が遅参し本戦に間に合わなかった時、家康は激怒するとともに勇猛だった長男を思い出し「信康がいればこんな思いをしなくて済んだ」と語ったという。
なお関ヶ原の戦いが起こったのは奇しくも信康の命日である。
※アイコンは楊齢
松平忠吉(まつだいら・ただよし)
遠江の人(1580~1607)
徳川家康の四男。
徳川秀忠と母が同じで幼い頃から将来を期待され、2歳で早くも三河東条1万石を領し、3歳で駿河沼津4万石に上った。
長じると武勇に優れた美男子に育ち、徳川四天王の井伊直政(いい・なおまさ)の娘をめとった。
1600年、関ヶ原の戦いでは井伊直政とともに偵察と偽って福島正則の陣をすり抜けると、わずかな手勢でそのまま敵陣に襲いかかり一番槍を飾った。
だが撤退する島津義弘を追撃したところ猛反撃にあい、義弘の甥・島津豊久は討ち取ったものの忠吉と直政は揃って重傷を負った。
戦後、尾張清州や美濃に52万石を与えられたが負傷がもとで(悪性腫瘍ともされる)1607年、28歳の若さで没した。
また直政もやはり戦傷がもとで1602年に没している。
※アイコンは孫桓
松平忠直(まつだいら・ただなお)
摂津の人(1595~1650)
徳川家康の次男・結城秀康(ゆうき・ひでやす)の嫡子。
父は家康に疎まれ他家へ養子に出されたが、忠直は家康の三男で叔父に当たる徳川秀忠に大いに気に入られ、秀忠は9歳の彼を名前ではなく官名の「三河守」と親しく呼びそばに置いた。
1607年、父が没すると越前75万石を継ぎ、1611年には秀忠の娘を正室に迎え「忠」の字も譲り受けた。
しかし年若い忠直では家中をまとめ切れず、重臣たちの対立を招き、武力をもって鎮圧するまでの騒動に発展した。
二度にわたり騒動が持ち上がると、幕府は忠直では荷が重いと判断し、家老の本多富正(ほんだ・とみまさ)に国政を任せ、さらに富正の一族の本多成重(なりしげ)を補佐に付けた。
1614年、大坂冬の陣に参戦するも采配ミスを家康に叱責された。
薬が効き過ぎたのか翌1615年、大坂夏の陣では「命知らずの越前兵」とうたわれるほど果敢な突撃を仕掛け、真田幸村を討ち取り大坂城へも一番槍で侵入する戦功を立てた。
だが論功行賞に不満を抱き幕府への反感を募らせると、1621年からは仮病で出仕を断り、翌年には妻の殺害未遂、さらに意に沿わない家臣に兵を差し向けて殺すなど素行不良が目立ちだした。
1623年、徳川秀忠は忠直に隠居を命じた。
母の説得もあり忠直はおとなしく出家し、豊後に流され謹慎の身となった。
はじめは海沿いの町に住んだが逃亡の恐れがあったため内陸に移され、1650年に当地で没した。