三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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真田家に仕えた忍者。
「真田三代記」に登場する霧隠鹿右衛門(しかえもん)がモデルとされるが、そもそも「真田三代記」は創作色の強い記録で架空の人物と思われる。
父は浅井家に仕えていたが、滅亡すると才蔵は伊賀にかくまわれ、伊賀三大上忍の百地丹波(ももち・たんば)に忍術を学んだ。
その後、山賊となったが猿飛佐助(さるとび・さすけ)と意気投合し真田家に仕え、真田十勇士に数えられた。
十勇士では佐助に次ぐ人気を博し、主役を務める作品も多い。
1615年、大坂夏の陣では徳川軍を撹乱し、家康の本陣に潜入し暗殺を狙うも失敗。佐助とともに豊臣秀頼(とよとみ・ひでより)を大坂城から脱出させた。
加藤段蔵(かとう・だんぞう)
常陸の人(1503?~1569)
武田家に仕えた忍者。常人離れした身軽さと幻術で「飛び加藤」の異名をとった。
はじめ上杉家への仕官を望んだ段蔵は、越後に赴くと人々を集め、牛を丸呑みする幻を見せた。
木の上から見ていたある男が幻術を見破ると、段蔵は種を取り出し地面に植え、あっという間に花を咲かせた。そしてその茎を切断すると、首を斬られた男の死体が木の上から落ちてきた。
評判を聞いた上杉謙信は段蔵を招くと、腕試しのため重臣の屋敷に忍び込み刀を盗んでくるよう命じた。
段蔵はあっさり刀を手に入れると、ついでに屋敷にいた少女も誘拐し、謙信に差し出した。
だがかえって謙信はその並外れた忍術を警戒してしまい、暗殺を命じたため、段蔵は武田信玄に身を寄せた。
武田家で段蔵は活躍したが、信玄もまた警戒を深め、あるいは上杉家や織田家から密命を帯びた刺客と疑い、ついに馬場信春(ばば・のぶはる)に命じて(土屋昌次(つちや・まさつぐ)説もある)厠に入っていたところを襲わせ、殺してしまった。
山本勘助(やまもと・かんすけ)
三河の人(1493~1561)
武田信玄の家臣。伝説的軍師として長らく実在が疑問視されてきたが、近年の研究により山本菅助(読みは同じ)というモデルになったと思われる人物の存在が確認された。
本名は山本晴幸(はるゆき)で武田晴信(たけだ・はるのぶ)と名乗った頃の武田信玄に与えられたとされるが、「晴」の字は信玄が時の将軍から与えられたものであり、それを家臣に又貸しのように与えることは考えられない。
また「ヤマカン」の語源とされる。
以下の記述は内容の信憑性に乏しい「甲陽軍鑑」を基とする。というか勘助の業績は「甲陽軍鑑」以外の史料に見当たらない。
26歳または20歳のとき、武者修業の旅に出た。剣豪・上泉秀綱(こういずみ・ひでつな)の弟子と試合をしたというが、上泉秀綱が旅に出たのは勘助の死後であり、いきなり史実と食い違う。
10年の間、諸国を渡り歩き、兵法を学んだ。勘助の子孫を自称する者が、中国の大内家に仕えていたとするが、矛盾が多くやはり信憑性は低い。
1536年、駿河の今川家に仕えようとしたが、隻眼で足が不自由な、容貌も醜い勘助はあなどられ、仕官はかなわないまま9年の時を悶々と過ごした。
しかし次第に勘助の名声は高まり、1543年(9年の時を過ごしたはずがなぜか7年後である)、武田晴信に仕官がかなった。
同年、武田軍が信濃に侵攻すると、勘助は兵法を駆使し9つの城を落とす大功を立てた。
1544年には諏訪家を降したというが、史実では1542年のことでありここでも矛盾する。
1546年、武田軍は北信濃の村上義清(むらかみ・よしきよ)を攻めた。
だが反撃にあい、武田軍は総崩れとなりあわや全滅の危機に陥った。
そこで勘助は50騎を率いて陽動に出ると、巧みな采配で村上軍を迎え撃ち、「摩利支天」のようだと恐れられたというが、史実ではこの戦いは1550年のことであり「甲陽軍鑑」の作者にはもう少ししっかりして欲しい。
1547年、上田原の戦いで大敗した村上義清は国を捨て、越後の長尾景虎(ながお・かげとら 後の上杉謙信)を頼った。
いちいち突っ込むのも面倒だが、史実では村上義清が国を捨てたのは1553年、上田原の戦いは1548年である。
1551年、武田晴信は出家して武田信玄と号し、勘助もそれにならい出家し山本道鬼斎(どうきさい)と名乗ったが、史実での信玄の出家は1559年である。
1553年、上杉家に備え北信濃に海津城を築いた。城主となった高坂昌信(こうさか・まさのぶ)は「武略の粋が極められている」と讃え、対上杉戦での拠点となった。
そして1561年、上杉謙信は川中島に出陣すると、妻女山に布陣し海津城をうかがう素振りを見せた。
それに対し武田信玄は海津城に入ると、勘助と重臣の筆頭格である馬場信春(ばば・のぶはる)に策を求めた。
勘助らは別働隊で妻女山を襲い、上杉軍が山を下りたところで本隊に攻撃させる、世に言う「キツツキ戦法」を立案した。(キツツキがくちばしで木をつつき、驚いた虫が飛び出したところを食べる様にちなむ)
信玄はそれを採り上げ兵を二手に分け、早朝に馬場信春らに妻女山を襲わせ、自身は勘助とともに逃げる上杉軍を待ち構えた。
しかし翌朝、馬場軍が妻女山を襲うと、そこに上杉軍の姿はなく、逆に信玄の本隊の目の前に展開していた。
不意をついた上杉軍の猛攻により、武田軍は潰走した。
信玄の弟・武田信繁(たけだ・のぶしげ)ら多くの重臣が戦死し、その中には勘助の名も含まれていた。
ちなみに上杉謙信が単騎で信玄の本陣に突入して斬りかかり、信玄が軍配で刀を受け止めたとされるのは、この時である。
~山本勘助は実在したか~
「甲陽軍鑑」は1600年代の初頭に書かれ、そこに描かれた勘助の勇姿は大いに人気を集め、講談や浄瑠璃など物語上で脚色されていった。
しかし先に挙げたとおり時系列の誤りが異常に多く、武田家も実際以上に美化されていることから、「甲陽軍鑑」は偽作であるという意見は当初からあった。
史料の研究が進んだ明治時代には、勘助の存在自体が疑問視され、架空の人物と認識されることがほとんどだった。
しかし昭和44年、大河ドラマ「天と地と」の視聴者が、「山本菅助」の名が記された古文書を見つけ、鑑定したところ真物であると判明し、架空人物説に一石が投じられた。
平成20年、「山本菅助」に関する文書がさらに5通確認された。彼が山本勘助と同一人物、あるいはモデルとなったかは見解が分かれているという。今後の研究が待たれる。
ちなみに「天と地と」の原作小説には勘助は登場しておらず、もしドラマ版でも原作準拠で登場していなかったら、「山本菅助」の文書の発見は遅れ、現在でも架空の人物とされていただろう。
飯富虎昌(おぶ・とらまさ)
甲斐の人(1504?~1565)
甲斐武田家の宿老。
はじめは武田家当主・武田信虎(たけだ・のぶとら)に反抗したが、降伏後は家老として重用された。
1538年、村上・諏訪連合軍との戦いでは首級97を挙げ、その勇猛ぶりから「甲山の猛虎」とうたわれた。
だが1541年、同じく宿老の板垣信方(いたがき・のぶかた)、甘利虎泰(あまり・とらやす)と共謀し信虎を今川家へ追放し嫡子の武田信玄を擁立した。
追放の理由は信虎の悪政、信玄の廃嫡、今川家の指示など諸説あり判然としない。
1548年、村上義清(むらかみ・よしきよ)との戦いで板垣信方、甘利虎泰がそろって戦死すると、虎昌は武田家の中核として信玄を支えた。
戦では常に先陣に立ち、信玄の嫡子・武田義信(よしのぶ)の傅役も務めた。
だが1565年、義信とともに信玄暗殺を企んだとして自害を命じられた。密告したのは弟(甥ともされる)の山県昌景(やまがた・まさかげ)だという。
背景には単純に信玄・義信父子の不和や、今川家との関係が悪化し、今川家から迎えた母を持つ義信が邪魔になった、虎昌の権力が強まりすぎて信玄に疎まれた等、様々な説があり、虎昌は義信をかばい進んで死を選んだともいう。
だが結局は義信も自害を命じられ、飯富家も断絶した。
家臣団は弟の昌景が山県家の家督とともに引き継ぎ、飯富軍の代名詞だった「赤備え(装備を赤で統一した軍)」も踏襲した。
昌景もまた武田軍を代表する勇猛さでその名を轟かせ、昌景が長篠の戦いで戦死後も井伊直政(いい・なおまさ)や真田幸村らが赤備えを受け継いでいった。
内藤昌豊(ないとう・まさとよ)
甲斐の人(1522~1575)
武田四天王に数えられる名将。
武田信玄の父・武田信虎(のぶとら)に背き父は逃亡したが、後に信虎が信玄らによって追放されると昌豊は信玄に召し抱えられた。
川中島の戦いで一隊を指揮し、主に上野方面で活躍し、国人衆の統率も任された。
もともとは工藤家の出身だが1570年頃に断絶していた武田家譜代の内藤家を継いだと見られる。
武田家の主要な戦の全てに参戦するなど信玄からの信頼厚かったが「昌豊ほどの弓取りならば、常人を抜く働きがあって当然」と感状を与えることはなく、昌豊も「合戦は大将の軍配に従い勝利を得るもので、いたずらに個人の手柄にこだわることはない」とそれを気にも掛けなかった。
感状は主君を変える際の再就職に用いられる側面もあり、主君を変えるつもりのない昌豊には、わざわざ与える必要が無いという主従の強固な信頼関係も垣間見える。
また四天王の筆頭格に挙げられる山県昌景(やまがた・まさかげ)は「武田信繁(のぶしげ 信玄の弟)と内藤昌豊こそは真の副将」と賞賛したという。
1575年、長篠の戦いでは山県昌景、原昌胤(はら・まさたね)とともに左翼を任されたが3倍近い圧倒的な戦力差を覆せず大敗。
武田勝頼(かつより)を逃がすため奮闘し、徳川家の兵に首を獲られた。
家督は養子の内藤昌月(まさあき)が継いだ。
昌月は養父と同じく箕輪城代として上野を守り、国人衆の調略を担当した。
1582年、武田家が滅亡すると信濃を追われた実父の保科正俊(ほしな・まさとし)を保護し、素早く滝川一益(たきがわ・かずます)に降り地位を保ったが、間もなく本能寺の変が起こり一益も撤退したため北条家に鞍替えした。
その後、徳川家との戦いで劣勢になると保科正俊は徳川家に寝返った。
昌月は北条家に残ったが1588年に39歳の若さで没した。
1590年、北条家が滅びると昌月の子は保科家に仕え、子孫は家老となった。また昌月の下の子は箕輪城を預けられた井伊家に仕えたという。
高坂昌信(こうさか・まさのぶ)
甲斐の人(1527~1578)
武田四天王に数えられる重臣。
高坂昌信の名で著名だが近年の研究により本名は春日虎綱(かすが・とらつな)が正しく、高坂は一時的に名籍を継いだ香坂家から、昌信は出家名(とすれば読みは「しょうしん」か)と考えられる。
16歳で父を失い、姉夫婦に遺産を奪われ路頭に迷いかけたところを武田信玄に拾われた。
大変な美男子で信玄とは衆道の関係にあり、他の男を寵愛するのに嫉妬した昌信へ信玄が弁解する手紙が残っている。
長じると知勇兼備の名将に育ち、最前線の海津城を任され、五度に渡る川中島の戦いではまず昌信の海津城が攻撃にさらされた。
三方ヶ原の戦いなど武田家の主要な戦には必ず参陣し、特に撤退戦が得意で官名から「逃げ弾正」の異名で呼ばれた。
また記述の信憑性は怪しいが武田家にまつわる様々な逸話を収めた軍学書「甲陽軍鑑」の原本を手掛けたのも昌信とされる。
1573年、信玄が没すると殉死を願ったが、重臣や後継の武田勝頼(かつより)に慰留された。
しかし1575年、長篠の戦いの頃には昌信ら旧臣は疎まれており、彼らの慎重論を退けて決戦を挑んだ勝頼は大敗を喫し、他の四天王らをはじめ多くの重臣が討ち死にした。昌信は参戦していなかったが嫡子が戦死している。
その後は上杉家との同盟締結のため死の間際まで働き、1578年に没した。
家督は次男の高坂信達(のぶたつ)が継ぎ、1582年の武田家滅亡も生き延び上杉家に仕えたものの、北条家や真田家との内通を疑われ誅殺された。
またそれに先立ち森長可(もり・ながよし)の撤退を妨害した報復として、森家を継いだ森忠政(ただまさ)によって1600年、一族皆殺しの憂き目にあい嫡流は途絶えたが、江戸期に甲府の豪商が昌信の子孫を自称している。
真田家に仕えた。
1582年、武田家が織田信長に滅ぼされると、旧臣の真田昌幸(さなだ・まさゆき)は独立した。
彼の妻子は甲斐で人質に取られていたが、城を脱出し昌幸のもとへ向かった。
その途上、昌幸の子の真田信幸(信之)・幸村兄弟は追手を振り切ると、雁ヶ沢で一息ついた。
雁ヶ沢には急な断崖があり、雁でも下りていったら上がれないことから名付けられており、兄弟が「ここから飛び降りられる者はいないだろう」と話していると、嘉兵衛が名乗り出て、止める間もなく断崖に身を投げてしまった。
昌幸のもとにたどり着いた兄弟が顛末を話すと、昌幸は「赤沢ほどの勇士を下らんことで失わせるとは」と叱責した。
ところがそこに嘉兵衛が平然と現れた。この程度では死なないと自慢気に語るのを見るや昌幸の怒りは嘉兵衛に向かい「大事の折に命を粗末にする分別のない者など必要ない」と追放してしまった。
嘉兵衛はその後、徳川家康との戦いで首級を2つ挙げ帰参を許された。武勇に優れ生涯で自ら25もの首級を挙げたという。
月日は流れ、嘉兵衛の息子が嫁を迎えることになった。しかし主君・真田信之の側室(厳密に言えば信之は側室を置かなかったので愛人である)の姪だと聞き、嘉兵衛は「今後お前が出世しても妻のおかげと言われるだろう。侍たる者は志の良し悪しで評価されるべきだ。わしが槍一本で稼いだ百六十石はお前のような者にはもったいない。今後は加増は受けまい」と激昂した。
それからというもの、嘉兵衛は出仕をさぼりがちになり、たまに目覚ましい働きを見せれば翌日から仮病で引きこもり、言葉通り加増されないまま没してしまった。
死後、信之は嘉兵衛の息子に「あれほどの武士にはもっと禄を与えてやりたかったが、その隙を見せなかった」と嘆いたという。
嘉兵衛の武辺者ぶりは人外にも発揮される。
ある葬儀の折、棺を運んでいるとにわかに空がかき曇り、棺が宙に浮かび上がった。
死体を動かしさらってしまう妖怪・火車の仕業だと驚き、一人の武者が棺に飛びついた。そこに嘉兵衛も加勢し、棺に飛び乗り蓋を踏みつけ押さえ込んだ。
彼らの働きで無事に棺を取り戻し、この時嘉兵衛が火車を突き刺した槍が今も伝わっているという。