三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
※アイコンは馬鉄
上杉景虎(うえすぎ・かげとら)
相模の人(1554~1579)
北条氏康の七男。はじめは北条三郎(さぶろう)と名乗ったとされる。
幼少期は寺に預けられ僧侶として育った。
1569年、一族の長老・北条幻庵(げんあん)の娘をめとり養子になり小机衆を率いたとされるが、北条家時代の彼の事績は判然とせず、北条氏秀(うじひで)の事績と混同されているとも言われる。
同年、武田信玄が北条・今川との三国同盟を破り今川家を攻めると、氏康は信玄を非難し代わって上杉家と同盟した。
翌1570年、三郎は上杉家に人質として送られ、上杉謙信の姪(上杉景勝の姉)をめとり上杉景虎の名を与えられた。なお景虎は謙信の初名である。
1571年、氏康が死去すると跡を継いだ北条氏政(うじまさ)は上杉家との同盟を破棄し武田家と再同盟し、景虎はいったん北条家に帰参したものの結局は上杉家に戻った。
1578年、謙信が急死すると後継者を指名していなかったため、上杉景勝と景虎の間で家督争いが勃発した。
景虎は謙信の叔父・上杉景信(かげのぶ)や謙信の養父・上杉憲政(のりまさ)、重臣の北条高広(きたじょう・たかひろ)らの支持を受け、北条・武田の後ろ盾もあり当初は優勢だったが、景勝はいち早く上杉家の居城・春日山城を占拠し先手を取ると、北信濃の領地を割譲して武田家と和睦した。
そして1579年、景勝は雪に阻まれ北条家の援軍が来られないうちに景虎を強襲した。
景虎の正室(景勝の姉)は降伏勧告を拒否して自害。上杉景信は戦死し、上杉憲政も景虎の子とともに何者かによって暗殺された。
景虎は北条家に落ち延びようとしたが、その途上で家臣の裏切りにあい孤立し、自害を余儀なくされた。享年26。
謙信は生前、景虎に家督を譲り景勝をその補佐に任じる目論見だったとされるが、諸説あり議論は決着していない。
※アイコンは劉繇
上杉憲政(うえすぎ・ のりまさ)
上野の人(1523~1579)
代々関東管領を務める山内上杉家に生まれたが、3歳の時に父が没したため家督は養兄の上杉憲寛(のりひろ)が継いだ。
しかしすぐに家督争いが持ち上がり、1531年、憲寛を追放し憲政が9歳にして家督と関東管領を継いだ。
1545年、勢力拡大する北条家を討つため憲政は関東の大名に号令を掛け8万もの大軍を集めた。
連合軍は北条綱成(ほうじょう・つなしげ)がわずか3千の兵で守る河越城を囲んだが、遠征に出ていた北条氏康は8千の兵を率いて引き返し、降伏を願い出て憲政を油断させると、夜襲を仕掛けて連合軍をさんざんに打ち破った。これが桶狭間、厳島と並び「日本三大奇襲」に数えられる「河越夜戦」である。
憲政は命からがら逃げ出したものの大損害を被り、求心力を失って山内上杉家は以降、一気に衰退していく。
そして1558年、馬廻りにまで離反されると越後の長尾景虎(ながお・かげとら)のもとへ落ち延びていった。
憲政は景虎を養子に迎えると関東管領を譲り(1561年説もある)景虎は改姓して後に上杉謙信を名乗った。
関東侵攻の大義名分を得た謙信は北条方に寝返った旧憲政方をあるいは滅ぼし、あるいは再度寝返らせ、関東に号令を掛けると大軍で北条家の本拠地・小田原城を包囲した。
一方で憲政は隠居・剃髪し表舞台から姿を消した。
1578年、謙信が死去すると2人の養子である上杉景勝(かげかつ)と上杉景虎(かげとら)の間で家督争いが起こった。
憲政は北条家からの養子である景虎方についたが、越後の国人衆や武田家に支持され、参謀の直江兼続に支えられた景勝を相手に劣勢に陥った。
憲政は景虎の嫡子とともに和睦交渉に赴いたが、その途上で景勝方の武士によって2人とも暗殺された。
※アイコンは閻行
柳生宗矩(やぎゅう・むねのり)
大和の人(1571~1646)
徳川将軍家の兵法指南を務め、柳生新陰流の地位を確立させた剣豪大名。
父の柳生宗厳(むねよし)は剣聖・上泉信綱(こういずみ・のぶつな)の免許皆伝を受け新陰流を開いた剣豪だが、太閤検地で隠田を摘発され所領没収のうえ浪人となった。
そのため宗矩も仕官の口を求めて放浪し、大きな戦があれば参戦して軍功を求めた。
やがて1594年、父が黒田長政(くろだ・ながまさ)の仲介により徳川家康に招かれ無刀取り(真剣白刃取り)を披露すると、感心した家康は宗厳を剣術指南役に任じようとしたが、老齢のため断り代わりに宗矩を推挙し、ようやく主君を得た。
1600年、関ヶ原の戦いでは家康の命により故郷に戻り、大和の国人衆を指揮して西軍の後方撹乱を行い、さらに家康のもとに戻ると本戦にも参加した。
これにより父が失った旧領を回復し、さらに翌年には二代将軍・徳川秀忠の兵法指南役にも任じられた。
1615年、大坂夏の陣では秀忠の護衛を務め、混戦のさなか敵兵が秀忠にも迫ったが7人を瞬時に斬り伏せたという。なお剣豪で知られる宗矩だが実際に人を斬ったのはこの時だけである。
1616年、坂崎直盛(さかざき・なおもり)は豊臣秀頼(とよとみ・ひでより)に嫁いでいた家康の孫・千姫(せん)を大坂城から救出したものの、救出した者と結婚させるという約束を反故にされたのに激怒し反乱を起こしかけた。
直盛の友人だった宗矩はその説得に赴き反乱は未遂に終わらせたものの、直盛の自害と引き換えに家名は守るという約束もまた反故にされ、坂崎家は取り潰された。
責任を感じた宗矩は直盛の嫡子や家臣を引き取り、さらに坂崎家の家紋を副紋として使ったという。
1621年は三代将軍・徳川家光の兵法指南役となり、初代の大目付として諸大名や老中の監察も務めた。
地位は従五位下・但馬守に上り、ついに1万石を得て大名に列した。一介の剣客から大名にまで上り詰めたのは宗矩ただ一人である。
1646年、病に倒れると家光は自ら病床まで訪ね、没すると1万石の小身には異例の従四位下を追贈しその死を惜しんだという。
家督は「柳生十兵衛」として知られる嫡子の柳生三厳(みつよし)が継いだが、間もなく官を辞してしまったため次男の柳生宗冬(むねふゆ)が継いだ。
また末子には劇画「子連れ狼」のラスボスとして著名な柳生列堂(れつどう 作中では烈堂と書かれる)がいる。
兵法家としては心理的な駆け引きやメンタルトレーニング、心技体を鍛えることの重要さを説き、後世の武道や武士の心構えに多大な影響を与えた。
単なる武術、戦闘の手段でしか無かった兵法を武道の域にまで高めたのは宗矩であるといって過言ではなく、彼なくしては剣道、柔道などあらゆる武道は現代まで残っていなかったか、あるいは全く違った形で伝わっていたことだろう。
だが彼自身は兵法を離れれば人望は薄く、嫡子の三厳は徳川家光の勘気を蒙り一時追放の憂き目にあい、晩年まで親子仲も悪かった。分家の長とは天敵の間柄で、また大名から浪人まで身分を問わず多数の門下を抱え、また徳川家光の絶大な信頼を受け大目付として目を光らせていたためその権勢を恐れられ、諸大名からは敬して遠ざけられていた。
余談ながら大変なヘビースモーカーでもあったという。
※アイコンは孫魯育
早川殿(はやかわどの)
相模の人(??~1613)
北条氏康の娘。今川義元の嫡子・今川氏真(いまがわ・うじざね)に嫁いだ。本名は不明。
氏康の長女で、北条氏政(ほうじょう・うじまさ)の異母姉とされる。一方で氏政と氏真が同い年なことから、早川殿は30代後半の当時としてはかなりの高齢出産で数人の子をもうけたことになり、やや不自然なため血縁には疑問が残る。
1554年、北条・今川・武田の三国同盟が結ばれると、17歳の氏真に嫁いだ。
後に同盟が決裂するとこの時に結ばれた婚姻も次々と破綻したが、氏真夫妻だけは離縁しなかった。
1560年、桶狭間で義元が討たれると今川家は衰退し、1568年には武田家の侵攻により駿河も陥落した。この時、武田家と北条家は同盟していたが、武田家は早川殿の保護を怠り、彼女が徒歩で遠江へ逃亡する羽目になってしまったことに氏康は激怒し、同盟を破棄すると武田家の宿敵・上杉謙信と結び逆に今川家の支援に回ったという。
翌年、氏真は徳川家康に攻められ遠江も放棄すると、氏康を頼って相模早川へ落ち延びた。そのため彼女は早川殿と呼ばれると思われる。
当地で氏真33歳にして初の男子をもうけるなど一時の安寧を得たが、1571年に氏康が死去すると武田家との同盟が復活し、武田の手に落ちていた駿河への帰国は頓挫した。
だが氏真夫妻は諦めきれずに北条家から出奔すると徳川家を頼った。この時、武田信玄が氏真の暗殺を企んだもののそれを察知した早川殿が手勢を集め、夫ともに出奔したという異説も伝わる。
駿河攻略を目指していた家康は、その大義名分の旗印となる旧国主の氏真を歓迎した。浜松に移り住んだ夫妻はさらに数人の男子をもうけ、1575年の長篠の戦いでは氏真の家臣が武田家の名将・内藤昌豊(ないとう・まさとよ)を討ち取る大功を立てた。
また氏真は父の仇である織田信長に招かれ、日本一と言われた蹴鞠の腕を披露したという。
長篠の戦いの大勝を足掛かりに徳川家は駿河に侵攻し、1576年、氏真は駿河牧野城の城主に返り咲いた。
だが原因不明だが1年足らずで解任されると氏真は浜松に戻り、夫妻の行跡はそこから長年にわたり途絶えてしまう。
1591年、氏真は京で再び活動を再開し、公家や徳川家との交流を深めた。家康とは懇意で、和歌について議論を交わしたり、晩年には氏真がたびたび訪ねては長話をするため、辟易した家康は遠くに屋敷を移させたという逸話が伝わる。
早川殿の事績は不明だが存命で、1612年に江戸で没した。
氏真も同地で2年後に没し、後に夫妻の墓は同じ寺に移された。また没後間もなくに描かれた、夫妻で対になった肖像画が現存しているという。
長男は氏真夫妻に先立って没していたため孫の今川直房(なおふさ)が跡を継いだ。
今川家は高家(貴族)として再興され、直房も朝廷との交渉で大役を務め、鎌倉時代から続く今川家で最も高位に上ったという。
※アイコンは黄月英
濃姫(のうひめ)
美濃の人(1535~??)
織田信長の正室。父は蝮(まむし)とうたわれた斎藤道三(さいとう・どうさん)。本名は帰蝶(きちょう)。
道三の三女で、正室から生まれた唯一の子。明智光秀は従兄にあたる。
10歳の時に政略結婚により信長の許嫁となり、15歳で嫁いだ。だが史料はきわめて少なく、結婚後の動向はおろかその最期すら判然としない。
信長に嫁ぐ際、道三は短刀を渡し「信長がうつけならば刺せ」と命じたが濃姫は「この刃は父上に向かうかもしれません」と答えた逸話が有名だがもちろん創作である。
信長との間に子は生まれなかったとされるが、そもそも信長の子の母親は不明な者も多く確証はない。
以下に濃姫のその後の事績として挙げられる諸説を紹介する。
1.離縁説
道三が息子の斎藤義龍(よしたつ)に殺されると、政略結婚の意味がなくなり離縁された。
濃姫は父を殺した義龍を嫌い母の実家の明智家に身を寄せたが、間もなく明智家も義龍に攻め滅ぼされ濃姫は命を落とした。
「信長公記」ら織田家の史料に濃姫の事績がないのは、すでに織田家から離れていたためである。
2.生存説
道三が殺されると、むしろ道三の正室の唯一の子である濃姫は、斎藤家の嫡流となる。その婿である信長は道三の後継者として美濃攻略を有利に進めた。
攻略後も美濃の国人衆は重用され、また信長の嫡子・織田信忠(のぶただ)は濃姫の養子となったという記述も残っている。
3.生存説 2
山科言継(やましな・ときつぐ)の日記に「信長の正室が斎藤義龍の後家をかくまった」や「正室が出産した」とする記述がある。
また「明智軍記」にも美濃攻略後に正室が家臣をもてなしたという記録がある。
4.本能寺死亡説
本能寺の変では薙刀をふるい信長とともに戦ったとする説もあり、また本能寺から脱出した家臣が濃姫の遺髪を埋葬したとする塚が現存している。
5.長寿説
本能寺の変後、織田信雄(のぶかつ)が焼き落とした安土城から脱出した信長妻子の中に「御台所・北の方」という正体不明の人物がおり、これが濃姫とされる。
また信雄の分限帳には信雄の正室、徳姫(とく 信長の長女。徳川家康の長男に嫁いだが切腹させられると実家に戻った)の二人に次いで「安土殿」という正体不明の女性がおり、信長の居城の名が付けられていることから相当の高位にいた人物で、これも濃姫と推測される。
なお安土殿は1612年に没し「信長公御台」と記されている。
分限帳にはその他「大方殿様」「御局」なる多くの知行を持つ人物もおり、これらのいずれかが濃姫とする説もある。
信長の正室でありながらあまりに謎が多い彼女の生涯は、戦国ファンの興味を刺激してやまない。
※アイコンは趙雲
立花宗茂(たちばな・むねしげ)
豊後の人(1567~1642)
大友家の重臣・高橋紹運(たかはし・じょううん)の長男。はじめは高橋統虎(むねとら)と名乗る。
1581年、同じく男子のなかった大友家の重臣・立花道雪(たちばな・どうせつ)こと戸次鑑連(べっき・あきつら)は、やむなく娘の立花誾千代に家督を継がせていたが、宗茂を養嗣子に迎え入れたいと申し出た。
紹運は長男を養子に出すことを渋ったが、父にも等しい道雪の頼みを断り切れず、誾千代の娘婿となり立花家を継いだ。
しかし誾千代とは不仲だったとされ、子供にも恵まれず、道雪の死後には別居状態となったという。
宗茂は二人の父に劣らず勇猛で若くして多くの武功を立てた。
だが1585年、道雪が病死し、紹運もまた島津家の大軍に城を囲まれた末に玉砕を遂げると、大友家の命運は風前の灯となった。
だが紹運の決死の防戦により時間を稼いだ結果、豊臣秀吉率いる九州征伐軍が間に合い、島津軍は撃破された。
この時、宗茂は先鋒として多くの城を落とし、秀吉に「その忠義、鎮西(九州)一。その剛勇、鎮西一」と讃えられ筑後柳川に13万石を与えられた。
1587年、佐々成政(さっさ・なりまさ)の治める肥後で国人衆の隈部親永(くまべ・ちかなが)が大規模な一揆を起こした。
成政は独力で鎮圧できず、秀吉に援軍を要請するとともに、付近の大名にも救援を呼びかけた。
それに応じた宗茂は1千2百の兵を率いて駆けつけ、ある時は奇襲を仕掛け、またある時は乱戦の中で自ら槍を振るい敵将の首を挙げと、目覚ましい活躍を見せた。
また援軍に現れた小早川隆景(こばやかわ・たかかげ)を義父とし、その弟で養子の小早川秀包(ひでかね)と義兄弟の契りを結んだという。
隈部親永ら一族12人は捕らえられ、宗茂に預けられた。本来なら処刑のところを、武士の名誉を守るため家臣12名と果たし合いをさせ、最後に切腹させる配慮を見せ秀吉を感服させた。
秀吉には目を掛けられ、豊臣姓を許された他、小田原征伐の際には諸大名の前で「東の本多忠勝、西の立花宗茂、東西無双」と紹介したという。
1592年からの文禄の役では、小早川隆景の指揮下で秀包とともに奮戦し「立花家の兵3千は他家の兵1万に匹敵する」と讃えられた。
1600年、関ヶ原の戦いを前に徳川家康から莫大な恩賞で誘われたが「秀吉公の恩を忘れるくらいなら死を選ぶ」と拒絶し、家臣も西軍に勝ち目は無いと進言したが宗茂は「勝敗にこだわらず」と意に介さず、秀包ら九州勢とともに大津城攻めに加わった。
しかし守る京極高次(きょうごく・たかつぐ)は5~10倍とされる西軍を相手に頑強に抵抗し、7日間の足止めに成功した。
その間に関ヶ原の本戦は終結し、宗茂はやむなく大坂城に引き上げた。西軍の名目上の大将を務める毛利輝元(もうり・てるもと)に籠城戦を進言するも、輝元は家康に降伏してしまい、宗茂も撤退した。
その途上、父の仇である島津義弘と同行した。家臣は仇討ちの好機と勧めたが宗茂は「敗軍を討つは武家の誉れにあらず」とむしろ島津軍の護衛をさせ、義弘は感謝した。
また柳川に帰り着いた時、別居中の誾千代が出迎えたという。
国許でも戦が起こっており、西軍は黒田官兵衛、加藤清正、鍋島直茂(なべしま・なおしげ)らの大軍を相手に劣勢だった。
宗茂は果敢に抗戦したが文禄・慶長の役で友軍だった官兵衛、清正らに説得され開城した。その際には彼を慕う領民が徹底抗戦を呼びかけたものの、戦火に巻き込みたくないと宗茂は断ったという。
改易された宗茂は浪人となり、仕官の誘いも全て断ったため、清正から客将として招き入れられた。
しかしそこも間もなく離れ、江戸に上がり本多忠勝の庇護を受けた。
1604年、忠勝は家康に推挙し、さらに徳川秀忠の御伽衆となり1万石を得て大名に復帰した。1610年には3万5千石に上りこの頃に「宗茂」と名乗り始めたという。
1614年、大坂の陣を前に家康は宗茂が西軍に加わるのを恐れ、懸命の説得の末、徳川秀忠の参謀につけた。宗茂の予測は常に正しく勝利に大いに貢献した。
1620年、旧領の筑後柳川10万石に復帰した。関ヶ原の敗戦後に改易されるも大名に復帰した者は数名いるが、旧領に返り咲いたのは宗茂ただ一人である。
だが晩年は三代将軍・徳川家光に絶大な信頼を受け側近くに仕えたため、柳川に帰ることはめったに無かった。
1637年、島原の乱では総大将の松平信綱(まつだいら・のぶつな)を往時と変わらぬ戦術眼で補佐した。有馬城攻めでは71歳にして一番乗りを果たし「武神再来」とうたわれた。
最後に一花咲かせると翌年に隠居し、甥で養嗣子の立花忠茂(ただしげ)に家督を譲った。誾千代の没後に二人の正室を迎えたがとうとう実子には恵まれなかった。
1642年、江戸で76歳で没した。戒名には異例のことながらあまりに高名だったため宗茂の名がそのまま使われたという。
~~完璧超人・立花宗茂~~
宗茂は戦国最強の男を選ぶならば確実に名前の上がる一人である。
生涯を通じて敗戦はほぼ皆無。剣術は丸目長恵(まるめ・ながよし)からタイ捨流の、弓術は日置流の免許皆伝を受け、自らも抜刀術の流派を開いた。
武芸だけではなく茶道、連歌、書道、香道から狂言、能、笛、舞からはては蹴鞠や料理まで修め、上は旧領に復帰されるほど幕府から信頼され、下は家臣はもちろんのこと領民からも慕われる人格者でもあった。
立花道雪、高橋紹運という九州で一、二を争う名将の父らに劣らぬ、いやむしろ二人の長所を併せ持ったような、文武両道全てに優れた人物である。
※アイコンは張燕
長宗我部元親(ちょうそかべ・もとちか)
土佐の人(1539~1599)
土佐の大名。幼い頃はおとなしく、人に何か言われても答えずにいたためうつけ者と疑われ、少女のように色白だったことから「姫若子」と揶揄された。
しかし22歳で迎えた遅い初陣で、自ら槍を振るい勇猛果敢に突撃して以来「鬼若子」と呼ばれるようになった。
同年、父が急死し家督を継いだ。
元親は父が考案した一領具足(半農半兵制度)をさらに発展させ精強な兵を鍛え上げ、宿敵の本山家を破り土佐中部を制圧。
毛利家の侵攻で土佐国司の一条家が衰退すると独立色を増し、弟の親貞(ちかさだ)を吉良家へ、親泰(ちかやす)を香宗我部家へ(親泰の縁組は父の代で行われた)、さらに次男の親和(ちかかず)を香川家へ養子として送り込み地盤を固めた。
そして無能とさげすまれた一条家の当主・一条兼定(いちじょう・かねさだ)が家老らに追放されると、娘を次期当主に嫁がせ一条家を傀儡化し、1575年には土佐を統一した。
その頃、中央では織田信長が台頭していたが、元親の母は美濃斎藤家の生まれで、信長の正室・濃姫の親戚にあたる縁から同盟を結び、長宗我部家は伊予、阿波、讃岐へと侵攻を始めた。
信長に畿内を追われ本拠地の阿波・讃岐へ逃げ帰っていた三好家は激しく抵抗したが、やがて内紛を起こして自壊し、1580年には阿波・讃岐も元親の手に落ちた。
しかし伊予では毛利家と結んだ伊予守護の河野家が善戦し、家老の久武親信(ひさたけ・ちかのぶ)が討ち死にするなど苦戦し、信長もまた元親を「鳥無き島の蝙蝠」と揶揄して評価せず、土佐と南阿波のみ領有を認め臣従を迫った。
元親がそれを拒絶すると、信長は降伏していた三好家の旧臣を援助して阿波・讃岐で反抗させ、さらに次男・織田信孝(のぶたか)を総大将に四国討伐軍を編成し、一転して長宗我部家は窮地に追い込まれた。
だが1582年、その直前で信長は本能寺に斃れ、元親は九死に一生を得た。
元親は信長の跡を継いだ羽柴秀吉が柴田勝家、徳川家康らと覇権争いをする隙に讃岐を奪回した。
伊予では秀吉と結んだ毛利家に手を焼くも、1585年にようやく制圧し四国統一を成し遂げた。
だが勝家を討ち、家康も降した秀吉は元親に伊予と讃岐の返還を迫った。元親は伊予の割譲で手を打とうとしたが秀吉は許さず、弟の羽柴秀長(ひでなが)に10万の大軍を預け四国攻めに踏み切った。
秀吉は娘婿の宇喜多秀家(うきた・ひでいえ)と黒田官兵衛を讃岐へ、毛利家を伊予へ、秀長と養子の三好秀次(みよし・ひでつぐ)を阿波へと向かわせ三方から侵攻し、元親の布いた防衛線を次々と破った。
当初は徹底抗戦を考えた元親も、家老の谷忠澄(たに・ただすみ)の決死の諫言に折れ、秀吉に降伏し土佐一国のみを安堵された。
1586年、元親は秀吉の九州征伐に参戦した。
しかし四国勢の軍監・仙石秀久(せんごく・ひでひさ)の失策により島津軍に包囲され、嫡子の長宗我部信親(のぶちか)が戦死した。
寵愛する信親の戦死により元親は錯乱し、後追い自殺をしかけたという。
新たな後継者の指名を迫られた元親は、次男と三男を差し置き四男の長宗我部盛親(もりちか)を選んだ。すでに次男・三男は養子に出て他家を継いでおり、また元親たっての希望で後継者には信親の未亡人をめとらせようとしたが、それには次男・三男は高齢だったため盛親を選んだのだが、粗暴な盛親は家臣からの信望薄く猛反対にあった。
すると元親は反対派で甥の吉良親実(きら・ちかざね)らを粛清し、家督相続を強行した。余談だがこの時に粛清された親実ら主従が四国で著名な妖怪「七人みさき」になったという。
以降、元親は秀吉に従い小田原征伐や文禄・慶長の役にも兵を出したが、佞臣の久武親直(ちかなお)を重用し、三男を無実の罪で幽閉するなど素行は不安定だった。なお久武親直は伊予平定で戦死した久武親信の弟で、親信はかつて「私が死んでも無能な弟を重用するな」と言い遺している。
四国のうち三国を奪われながらも秀吉とは懇意で、饅頭を与えられると一口だけかじって仕舞いこみ「殿下にもらい光栄だから家臣にも分けたい」と言ったり、ある時まだ四国の覇者になりたいかと問われ「天下人になりたい」と答え秀吉に「お主の器量では無理だろう」と言われると「殿下がいなければ天下を望めたのに、悪い世に生まれました」と語り、秀吉を大いに喜ばせたという。
1599年、61歳で没した。
跡を継いだ盛親は関ヶ原の戦いで西軍につき、戦後に幽閉されていた無実の兄を殺したこともあり改易された。
盛親は再起を狙い大坂の陣でも豊臣家についたが捕らえられ「命あるかぎり家康の首を狙う」とうそぶき一族とともに処刑され、長宗我部家の嫡流は途絶えた。
しかしかつて元親に粛清された吉良親実の子孫が加藤家の肥後藩に仕えた(皮肉にも讒言で親実を殺させた久武親直も肥後藩に仕えている。あるいは反省した親直が親実の遺族を呼んだのだろうか)他、元親の娘は伊達家に保護され、その子らは仙台藩に仕え、長宗我部家の血を残している。
※アイコンは朱桓
真田信之(さなだ・のぶゆき)
信濃の人(1566~1658)
真田昌幸(まさゆき)の長男。真田幸村は弟。はじめは真田信幸(のぶゆき)の字を用いた。
策謀家で知られる父、日本一の兵とうたわれた弟にも劣らぬ勇猛さで「信濃の獅子」と呼ばれ、残された羽織などから当時としては並外れた長身の185センチと推定される。
真田家は武田家に臣従していたため幼少期は人質として育った。
1582年、武田家が織田信長に滅ぼされると、同じく人質だった母を伴い父の待つ上田城へと逃れた。
昌幸は織田家に鞍替えしたものの3ヶ月後に信長が本能寺の変で討たれ、東部戦線が崩壊。信濃は北条・上杉・徳川の三者による争奪戦に巻き込まれた。
はじめは北条家に従い川中島で上杉軍と戦ったが、徳川家に仕える昌幸の弟・真田信尹(のぶただ)の説得により寝返り、沼田城を奪った。
北条軍の反撃にあい手子丸城を奪われると、800の兵を率いた17歳の信幸は城兵を挑発しておびき出し、伏兵でさんざんに叩いた。守る富永主膳(とみなが・しゅぜん)は5千の兵で籠城したが、信幸は一部隊を城内へ潜入させると反乱と偽り同士討ちを誘い、混乱の隙に自ら決死隊を率いて突入し、見事に陥落させた。
後に徳川家に仕えた富永主膳は、若き信幸の巧みな采配ぶりを酒席でたびたび披露したという。
その後、上杉家に鞍替えしたが台頭する豊臣秀吉に上杉家も降伏したため道を同じくし、1589年に家康とも和睦すると、真田家は徳川家の与力大名に付けられた。
父のもとでたびたび小勢ながら北条軍を撃退してきた信幸を家康は大いに気に入り、重臣の本多忠勝の娘・稲姫をめとらせ側近くに仕えさせた。
稲姫との初対面では、平伏する諸将のまげをつかみ無理やり頭を上げさせる稲に立腹し、手を扇子ではたき叱責したところ一目惚れされた、という逸話が広く知られるが創作である。
1600年、関ヶ原の戦いが起こると、昌幸の妻は西軍の指揮官・石田三成の妻の姉妹、幸村の妻は三成の腹心・大谷吉継の娘、信之の妻は東軍総大将・家康の腹心の娘と、真田家は複雑な立場に置かれた。
信幸は父を説得したが、昌幸と幸村は西軍に、信幸は東軍に付くことが決まった。
昌幸は引き上げる途中、信幸の沼田城に立ち寄り孫の顔が見たいと稲に申し入れたが、乗っ取りを危惧した稲は城門を閉ざし、家臣の家族を歓待と称して人質に取ったため「さすが本多忠勝の娘」と笑い昌幸は手出しせず帰ったという逸話が伝わる。
昌幸父子は上田城に籠り、大軍を率いて関ヶ原へと向かう徳川秀忠を足止めし多大な被害を与え、悪天候も重なり本戦に間に合わせなかった。
戦後、昌幸は改易となり、秀忠軍に同行していた信幸に父の旧領とあわせ9万石が与えられた。
信幸は父と弟の助命嘆願をし、本多忠勝もそれに同調したため死罪は免れ流罪と蟄居に留められた。
父との訣別を示すため真田信之に改名し、破却された上田城に代わり自身の治める沼田城を居城に定めた。
1614年からの大坂の陣には病気で出陣できず、二人の息子が名代として参戦した。
昌幸はすでに亡く、幸村は大坂方として奮戦し、家康を窮地に追いやる意地を見せ討ち死にした。
また無事に帰った息子らに母の稲は「実家の本多家で戦死者(稲の弟である)が出たのだから、あなた達のどちらかが戦死していれば忠義も示せて釣り合いが取れたのに」と言い放ったという。
戦後、信濃松代13万石に転封となった。加増ながら任地を変えられた(徳川秀忠による関ヶ原の意趣返しとされる)ことに信之は怒り、引き継ぐべき重要書類を全て焼き捨て、灯籠や植木さえ抜かせて持ち去ったと伝わる。
その後も第一線で働き続け1656年、実に91歳でようやく隠居し、長男もその子もすでに没していたため次男に家督を譲った。
ところが2年後に次男も没してしまい2歳の孫が当主になったため、信之は復帰し自ら政務をとった。
同年10月に93歳で逝去。文字通りに最後の最後まで生涯現役を貫いた。
真田家は松代藩で幕末まで続いた。
明治時代、信之が家康から拝領したと伝わる短刀が収められた箱が初めて開かれると、中には短刀ではなく、石田三成と内通する機密書類が入っていた。
温厚な人柄と伝わる信之の、父と弟を奪い故郷からも遠ざけた徳川家に対する静かな怒りがしのばれる。
※アイコンは陳到
佐々木小次郎(ささき・こじろう)
豊前か越前の人(??~1612)
宮本武蔵との巌流島の戦いで著名な剣豪。佐々木岩流(がんりゅう)あるいは巌流の名でも著名。
ただし姓の「佐々木」は1776年になって初めて現れたもので信憑性は薄い。
富田勢源(とだ・せいげん)あるいは鐘捲自斎(かねまき・じさい)に師事し、いったんは毛利家に仕えたものの、武者修行の旅に出て越前で「秘剣燕返し」を編み出し、流派「岩流」を開いた。
だが1612年、宮本武蔵に九州小倉の舟島で決闘を挑むも敗北し命を落とした。生年は不明だが70歳前後と思われる。
死後、彼の号にちなみ島は巌流島と呼ばれるようになった。
武蔵の養子で決闘に立ち会った宮本伊織(みやもと・いおり)の記録によると、小次郎は三尺(約1メートル)の野太刀を、武蔵は木刀を用いた。
武蔵がわざと遅刻して小次郎を焦らせたと伝わるがこれは吉川英治の創作で、伊織の記録には「両雄同時に相会し」とあり実際は遅刻しておらず、武蔵は「電光すら遅く見える」一撃で勝負を制したという。
時代が下るにつれ逸話に肉付け、あるいは誇張がされていき、小次郎の野太刀は「物干し竿」と名付けられ、武蔵の得物は「船の櫂を削った長短2本の木刀」にされた。
また「武蔵は弟子を連れて行き5人がかりで殴り殺した」「一対一で武蔵が勝ったが小次郎は息を吹き返し、武蔵の弟子にとどめを刺された」など武蔵にとって不名誉な記述も増えた。
簡潔な記述しかなく、武蔵にとっても数多い果たし合いの一つに過ぎないこの決闘が、日本人なら誰でも知っているような逸話に昇華したのは歴史の面白いところである。
※アイコンは馬雲緑
甲斐姫(かいひめ)
上野の人(1572~??)
豊臣秀吉の側室。
半ば伝説的な人物でその事績は信憑性が薄く、史料から確認が取れるのは「秀吉の側室に甲斐姫という人物がいた」という一点だけである。
武蔵国忍城の城主・成田氏長(なりた・うじなが)の娘。
祖母の妙印尼(みょういんに)は1584年、71歳の時に息子を人質に取られ城を北条軍に囲まれるも、降伏勧告も人質の安否も無視して籠城戦を続け、最後は和睦したものの譲歩を引き出し息子も取り戻したという女傑で、甲斐の母とあわせ女三代いずれも武勇に優れた。
両親の実家が関係悪化し2歳で母と別れたものの、継母となった太田資正(おおた・すけまさ)の娘に育てられた甲斐は長じると東国無双の美人と評され、知勇兼備でもあったため「男子であれば成田家を中興させ天下に名を轟かせたろう」と惜しまれた。
1590年、豊臣秀吉による小田原征伐が始まると、北条方に与していた成田家の忍城も2万3千の豊臣軍に囲まれた。
総大将に石田三成、麾下に大谷吉継、真田昌幸(まさゆき)・幸村父子、直江兼続、雑賀孫市、長束正家(なつか・まさいえ)、浅野長政(あさの・ながまさ)、佐竹義宣(さたけ・よしのぶ)とそうそうたる面子が並び、対する成田軍はわずか5百。しかも城主の成田氏長は出征中で、留守を務める城代は籠城戦のさなかに病死と、逆境に立たされていた。
三成は水攻めを仕掛け、城内は水で満たされた。さらに浅野軍が攻め寄せると、新たに大将となった城代の息子・成田長親(ながちか)は自ら迎え撃とうとしたが、甲斐はそれを押しとどめると甲冑をまとい、成田家の伝家の宝刀「浪切」を手に打って出て浅野軍を撃退した。
翌日、三成は三方からの一斉攻撃を命じたが、これも甲斐が迎撃し「我が妻にしてやろう」と挑発した敵将を射殺したという。
その翌日、北条家は秀吉に降り戦は終わった。忍城はなおも籠城を続けたが、氏長が秀吉の使者として戻り開城を指示したため、ようやく城を明け渡した。
余談ながらこの時、祖母の妙印尼は息子らが北条方についたため家名存続(成田家ではなく嫁いだ由良家)のために自ら兵を率いて前田利家の傘下に入り、秀吉から息子の助命を許されており、その際の朱印状は息子ではなく妙院尼に宛てられたという。
成田家の身柄は蒲生氏郷(がもう・うじさと)に預けられ、蒲生家が会津に転封になるとそれに従った。
葛西大崎一揆の折、氏長は出陣し甲斐らは福井城を守った。すると家臣の浜田十左衛門(はまだ・じゅうざえもん)・浜田将監(しょうげん)兄弟が謀叛を起こし、氏長の妻らを殺した。浜田勢は2百、甲斐に味方するのは十数人だったが「逆賊の非人め。忠義のためなら命を惜しまぬ関東武士の手並みを見よ」とひるまず斬り付けると浜田勢の動揺を呼び、馬で逃げる十左衛門を追撃し首を獲った。
さらに謀叛を知って引き返してきた氏長と合流すると城を包囲した。浜田将監は逃走を図ったが甲斐に見つかり、右腕を斬り落とされた上に捕らえられ、磔となった。
甲斐の武勇と美貌を伝え聞いた秀吉は側室として招いた。
その後の事績は不明だが1598年、醍醐の花見の際に甲斐が詠んだと思われる歌が残っており、同年に没した秀吉の側にいたと思われる。
一説にはその後の豊臣家を牛耳る淀殿(よど)の信頼を得て隠密を務めたとも、豊臣秀頼(ひでより)の娘・天秀尼(てんしゅうに)の養育係を務めたともされる。
特に天秀尼は1615年、大坂城の落城の際に何者かに助けられ脱出しており、没後に葬られた墓の隣には女性の従者の墓があるのだが、形状や戒名から高貴な身分の人物と思われ、その従者こそが甲斐だとも推測されている。