三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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佐々木小次郎(ささき・こじろう)
豊前か越前の人(??~1612)
宮本武蔵との巌流島の戦いで著名な剣豪。佐々木岩流(がんりゅう)あるいは巌流の名でも著名。
ただし姓の「佐々木」は1776年になって初めて現れたもので信憑性は薄い。
富田勢源(とだ・せいげん)あるいは鐘捲自斎(かねまき・じさい)に師事し、いったんは毛利家に仕えたものの、武者修行の旅に出て越前で「秘剣燕返し」を編み出し、流派「岩流」を開いた。
だが1612年、宮本武蔵に九州小倉の舟島で決闘を挑むも敗北し命を落とした。生年は不明だが70歳前後と思われる。
死後、彼の号にちなみ島は巌流島と呼ばれるようになった。
武蔵の養子で決闘に立ち会った宮本伊織(みやもと・いおり)の記録によると、小次郎は三尺(約1メートル)の野太刀を、武蔵は木刀を用いた。
武蔵がわざと遅刻して小次郎を焦らせたと伝わるがこれは吉川英治の創作で、伊織の記録には「両雄同時に相会し」とあり実際は遅刻しておらず、武蔵は「電光すら遅く見える」一撃で勝負を制したという。
時代が下るにつれ逸話に肉付け、あるいは誇張がされていき、小次郎の野太刀は「物干し竿」と名付けられ、武蔵の得物は「船の櫂を削った長短2本の木刀」にされた。
また「武蔵は弟子を連れて行き5人がかりで殴り殺した」「一対一で武蔵が勝ったが小次郎は息を吹き返し、武蔵の弟子にとどめを刺された」など武蔵にとって不名誉な記述も増えた。
簡潔な記述しかなく、武蔵にとっても数多い果たし合いの一つに過ぎないこの決闘が、日本人なら誰でも知っているような逸話に昇華したのは歴史の面白いところである。