三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
※アイコンは丘力居
本願寺教如(ほんがんじ・きょうにょ)
摂津の人(1558~1614)
石山本願寺第10世・顕如(けんにょ)の嫡子。「信長の野望」などでは諱の光寿(こうじゅ)で登場することも多い。
父のもとで13歳で得度し、織田信長と激しく争った。
1580年、顕如は近衛前久(このえ・さきひさ)の仲介により和睦を受け入れたが、教如は徹底抗戦を主張したため父に絶縁された。
石山本願寺に籠城し5ヶ月にわたり抵抗したが結局は降伏し、直後に失火により石山本願寺は焼失した。
1582年、織田信長が本能寺の変で討たれると後陽成天皇は顕如に赦免を打診し、父子は和解した。
1592年、顕如が没すると跡を継いだが、石山合戦で自分とともに籠城した者ばかりを重用したため、教団内に対立が生じた。
反教如派は豊臣秀吉に訴え、それを受けた秀吉は10年後に弟の准如(じゅんにょ)に法主の座を譲るよう命じた。
それに親教如派が激しく抵抗したため、激怒した秀吉は即時退去を命じてしまい、教如は准如に位を譲り本願寺を去った。
1598年に秀吉が没し、1600年、関ヶ原の戦いを制した徳川家康が天下人に上り詰めると、教如は家康から寄進された京都七条烏丸の寺領に東本願寺を立てた。
一説には若い頃に三河一向一揆に苦しめられた家康が、本願寺の勢力を二分するため教如をそそのかしたと言われるが、確かな証拠はなく、現在の真宗大谷派は「もともと分裂しており、家康の寺社寄進はそれを追認したに過ぎない」と主張している。
1614年、教如は57歳で没した。
本願寺は現在もなお二派に分かれ便宜上、教如の立てた本願寺を「東本願寺」、准如の本願寺を「西本願寺」と呼びならわしている。
※アイコンは蔡邕
細川藤孝(ほそかわ・ふじたか)
京の人(1534~1610)
三淵家の次男に生まれたが、7歳で伯父の和泉半国守護・細川家の養子になったとされる。
養父は別人で将軍・足利義藤(あしかが・よしふじ 後の足利義輝)の側近とも淡路守護とも言われるがいずれにしろ名家で、13歳で将軍から一字拝領し藤孝と名乗り、19歳で従五位下・兵部大輔に叙任された。
生涯にわたり武芸百般や歌道・茶道・蹴鞠・囲碁など無数の教養を学び続け、並ぶ者のない文化的素養を備えた。
また怪力で知られ、突進してきた牛の角をつかみ投げ倒したとも伝わる。
長じると足利義輝(よしてる)の側近として仕えるが1565年、三好三人衆と松永久秀によって義輝は暗殺された。
藤孝は兄や義輝の側近・一色藤長(いっしき・ふじなが)らとともに、幽閉されていた義輝の弟・足利義昭(よしあき)を救出し、付近の大名へ支援を訴えた。逃亡生活は貧窮を極め、神社から油を失敬するほどだったという。
いったんは越前の朝倉家に落ち着くが、当主の朝倉義景(あさくら・よしかげ)に京の奪還や義昭の将軍就任を助けるほどの意欲はなく、藤孝は朝倉家に仕えていた明智光秀を通じ、織田信長に援助を求めた。(信長の正室・濃姫と光秀は親戚にあたる)
まだ尾張・美濃2ヶ国を治めるだけの小身ながら「天下布武」を打ち出していた野心深き信長は即座にこれに応じ、瞬く間に上洛を果たすと三好勢力を畿内から一掃し、義昭を15代将軍に就任させた。
だが室町幕府の再興を目指す義昭と、あくまで幕府を大義名分の旗印に使いたいだけの信長は当然のごとく対立し1573年、義昭は京を追放された。それに先立ち藤孝や光秀は鞍替えして信長に仕えている。
またこの頃、山城長岡に所領を得て長岡藤孝(ながおか)と改姓した。
藤孝は信長の直属、あるいは光秀の与力として各地を転戦し、1578年には信長の勧めで嫡子・長岡忠興(ただおき)に光秀の娘・玉(後のガラシャ)をめあわせた。
1582年、本能寺の変で信長を討った光秀は、藤孝に協力を求めた。
だが上官で親戚で親友でもある光秀の要請を拒絶し、藤孝は剃髪すると幽斎(ゆうさい)と号し、忠興に家督を譲り隠居した。
やはり幽斎と同じ立場の筒井順慶(つつい・じゅんけい)も模様眺めに徹したため、反乱にあたり戦力に数えていた長岡・筒井両家の援軍を失った光秀は、大した軍勢を集められず、中国地方から驚異的な早さで帰還し、畿内方面軍と合流した羽柴秀吉の大軍に敗れ討ち死にした。
長岡家は秀吉に仕え、幽斎は隠居後もたびたび戦に出陣した。
父の薫陶を受けた忠興も千利休の高弟として名を馳せ、また勇猛で多くの武功を立てた。
一方で徳川家康とも親交厚く、1598年に秀吉が没するといち早く家康に接近した。
1600年、関ヶ原の戦いでは忠興が主力を引き連れ家康の下にいたため、幽斎のもとには500足らずの兵しかいなかった。
家康討伐のため挙兵した石田三成は諸大名の妻子を人質に取ろうとしたが、それを拒みガラシャは屋敷に火を放ち自害した。
幽斎の籠る丹後田辺城にも前田茂勝(まえだ・しげかつ)らの率いる1万5千の大軍が迫ったが、寄せ手には幽斎に歌道を学んだ弟子が数多くいたため戦意に乏しく、本格的な城攻めには発展しなかった。
また朝廷とも縁深く、当代随一の教養人で、唯一の古今伝授(古今和歌集の解釈を中心に歌道のあらゆる知識を一子相伝で受け継ぐこと)の伝承者でもある幽斎を惜しみ、後陽成天皇をはじめ多くの公家が停戦を働きかけたため、2ヶ月の籠城戦の果てに幽斎は降伏した。
関ヶ原は家康の東軍の勝利に終わり、活躍した忠興は豊前小倉40万石を与えられた。
長岡家は細川家に復し、細川幽斎と改めると今度こそ悠々自適な隠居生活を送り、1610年に幽斎は没した。享年77。
細川家は加藤家の改易後、肥後熊本に移り幕末まで続いた。
※アイコンは靳詳
別所長治(べっしょ・ながはる)
播磨の人(1558~1580)
東播磨の大名。父が39歳で急死したため13歳で跡を継いだ。
別所家は父の代から織田信長に従属していたが1578年、織田軍による虐殺や、中国方面の司令官に足軽上がりの羽柴秀吉が就いたことに不満を抱き、義兄(妻の兄)で丹波の大名・波多野秀治(はたの・ひではる)とともに謀叛を起こした。
荒木村重(あらき・むらしげ)や小寺家が呼応して謀叛するなど当初は優勢だったが、数で勝る織田軍が反撃に転じると不利に陥り、秀吉軍に三木城を囲まれた。「三木の干殺し」とうたわれた実に2年にわたる兵糧攻めの末、長治は城兵の助命と引き換えに開城し、妻子兄弟とともに自害した。
享年23、ただし「信長公記」では26とされる。
辞世の句「今はただ うらみもあらじ 諸人の いのちにかはる 我身とおもへば」はとみに著名である。
※アイコンは蹋頓
波多野秀治(はたの・ひではる)
丹波の人(??~1579)
丹波の大名。
祖父の代から三好家に従属していたが、三好長慶(ちょうけい)が没し三好家が衰退すると1566年に独立を果たした。
1568年、織田信長が上洛するとそれに従い、1575年の丹波侵攻では明智光秀に協力し国人衆を討った。
だが裏では国人衆と内通し反抗の機会をうかがっており、1576年1月、光秀を急襲し丹波から追い出した。
これに激怒した信長は光秀に大軍を与え再侵攻させたが、秀治は丹波の険阻な山岳地帯を活かしたゲリラ戦で光秀を翻弄し、石高から見て数十倍と思われる相手を1年半にわたり苦しめた。
しかし長期戦で兵糧が底をつき、味方の国人衆も各個撃破され1579年に降伏。赦されず磔刑に処された。
その際、光秀は自分の母を人質に出して秀治を信用させ、降伏を促したものの、信長は助命の約束を反故にして秀治を処刑し、激怒した波多野家の家臣によって光秀の母は殺された。光秀はそれを深く恨み本能寺の変の遠因となった、とする説がよく知られているが一次史料に見当たらず創作と思われる。
また光秀の苦戦は信長を失望させ、以降は冷遇されるようになり、それに不満を抱き後の本能寺の変につながったとする説もあるが、これも光秀の不遇を示す確かな史料はない。
※アイコンは徐商
中川清秀(なかがわ・きよひで)
摂津の人(1542~1583)
はじめは池田勝正(いけだ・かつまさ)に仕え、勝正が織田信長に降るとそれに従ったが、池田家に内紛が起こり勝正が追放され池田知正(ともまさ)が当主になると、一転して織田家と戦った。
1572年には荒木村重(あらき・むらしげ)とともに織田方の和田惟政(わだ・これまさ)を討ち取った。
やがて摂津の有力国人衆が衰退していき、池田家にも陰りが見えると清秀は村重や従弟の高山右近(たかやま・うこん)とともに独立し、村重が信長の傘下に入り摂津を任されるとその家臣となった。
1578年、村重が信長に突如として反旗を翻すと、はじめはそれに従ったが、織田軍の猛攻にさらされると右近とともに寝返った。
村重は妻子を捨てて毛利家に亡命し、清秀と右近は以後、近畿・四国方面軍の丹羽長秀(にわ・ながひで)や池田恒興(いけだ・つねおき)の麾下に入った。
なお村重の謀叛の理由として清秀が石山本願寺へ兵糧を横流ししていたため処罰を恐れたという説があり、また清秀は一時は謀叛を取りやめようとした村重を「信長公は一度疑いを持てばいつか必ず滅ぼそうとする」と説得して翻意させており、村重の謀叛の原因を作り、取りやめを翻意させ、最後は寝返って敗因になるという絵に描いたようなマッチポンプぶりである。
1582年、信長が本能寺の変で討たれると近畿・四国方面軍は内紛に明け暮れ身動き取れなかったが、羽柴秀吉が「中国大返し」で引き返してくるとそれに合流し、山崎の戦いで明智光秀を撃破した。
戦後、秀吉は清秀の陣の前を通りがかると上機嫌で「瀬兵衛(せべえ 清秀の名)、骨折り」と呼びかけた。気に障った清秀は「猿め、はや天下を獲った気でおるわ」と大声で言い返し、秀吉は聞こえぬふりをして去っていったという。
翌1583年、賤ヶ岳の戦いでも秀吉のもとで参戦したが、佐久間盛政(さくま・もりまさ)の猛攻にさらされ討ち死にした。享年42。
家督は16歳の嫡子・中川秀政(ひでまさ)が継ぎ播磨三木13万石まで昇進したものの、文禄の役で鷹狩り中に奇襲を受け25歳で戦死した。
この不用意な戦死は本来ならば改易処分だが、清秀の武功に免じて弟の中川秀成(ひでなり)への相続が許され、中川家は後に豊後岡7万石へ移され幕末まで続いた。
また清秀の妹は古田織部(ふるた・おりべ)に嫁いだため、織部が主役を務める漫画「へうげもの」にも兄妹は重要な役どころで登場しており、徐々に知名度を上げている。
※アイコンは曹純
筒井定次(つつい・さだつぐ)
大和の人(1562~1615)
分家の次男に生まれたが、本家の当主で叔父(母の弟)の大和の大名・筒井順慶(じゅんけい)に男子が無かったため養嗣子となった。
1582年、織田信長が本能寺で討たれると、順慶は縁戚の明智光秀から味方に誘われたがそれを拒絶し、敗北の要因となった。
戦後、光秀を討った羽柴秀吉に降り、定次は人質として送られたものの2年後に順慶が病没したため家督を継いだ。
武勇に優れた定次は紀州、四国、九州、小田原征伐と続く豊臣家の主要な戦で活躍した。「絵本太閤記」には二尺七寸の大太刀を振りかざす勇姿が描かれているという。
しかしそのさなかの1585年、大坂城を居城に定めた秀吉は、畿内を一族や重臣で固めるため大和を弟の豊臣秀長(ひでなが)に任せ、筒井家を伊賀へ転封とした。
長らくこれは左遷、大減封(大和の総石高は44万石、伊賀は10万石)とされたが、処罰される理由が薄く、近年の研究では他に伊勢、山城にも所領を与えられており計20万石となり、もともとの筒井家は18万石であるから加増となり、また伊賀は交通の要衝であることから、伊賀への転封はむしろ秀吉の信頼の証とする説もある。
一方で転封の後に重臣の島左近、松倉重信(まつくら・しげのぶ)らが家臣の間での諍いから相次いで筒井家を去っており、定次の影響力は衰えを見せていたとも思われる。
1600年、関ヶ原の戦いでは徳川家康率いる東軍に属し所領安堵となった。
しかし1608年、突如として改易を命じられ大名としての筒井家は滅亡した。
改易の理由は諸説あり、たびたび大坂城に通い豊臣秀頼(ひでより)らとの内通を疑われた、酒色に溺れ政務をないがしろにした等が挙げられるがいずれも決め手に欠け、要衝の伊賀から筒井家を追い出すための陰謀ともされる。(なお筒井家の代わりに伊賀には家康と昵懇の藤堂高虎が入っている)
定次の身柄は鳥居家に預けられたとも、皮肉にも藤堂高虎に預けられたともされ判然としないが1615年、大坂冬の陣で豊臣家と内通した罪により嫡子とともに切腹を命じられた。
冬の陣の際に大坂城から放たれた矢の中に筒井家の物が含まれていたため、とされるがこれもやはり難癖に等しいものに思えてならない。
筒井家は従弟の筒井定慶(さだよし)が継いだが、大坂夏の陣で大和郡山城を落とされる失態を演じ、自害した。
※アイコンは周魴
筒井順慶(つつい・じゅんけい)
大和の人(1549~1584)
はじめは筒井藤勝(ふじかつ)と名乗った。
大和の大名・筒井家に生まれたが父を亡くしてわずか2歳で家督を継いだ。
死の間際、父は木阿弥(もくあみ)という自分に面差しの似た僧侶を影武者に仕立て、健在だと敵の目を欺いたといい、数年後に死が露見すると木阿弥は大名から僧侶に戻ったことから「元の木阿弥」という言葉が生まれた。
叔父の筒井順政(じゅんせい)が後見役として実質的に大名の役割をこなしたが、彼も1564年に没してしまうと、大和の覇権を争う松永久秀はすかさず筒井家を襲い、順慶は翌年に居城の筒井城を追われた。
しかし一族の布施家に身を寄せ力を蓄えると、松永久秀と敵対する三好三人衆と結び、1566年に筒井城の奪回を果たした。
1568年、織田信長が足利義昭(あしかが・よしあき)を擁し上洛すると、三好三人衆ら畿内の勢力を一掃した。
松永久秀はいち早く信長に降ったが、順慶は久秀を憎みそれに同調できなかった。
信長の後ろ盾を得た久秀は再び筒井城を奪ったが、順慶は新たな城を次々と築き、3年後には松永軍を撃破し城を奪い返した。
1571年、筒井城に落ち着いた順慶は信長に降伏した。
一方の松永久秀は足利義昭の号令に応じ信長包囲網の一角に加わるも、筒井家とは和睦し、順慶は久秀父子を招いて猿楽を催すなどしばらくは良好な関係を築いたが、それも長くは続かなかった。
順慶が一向一揆や雑賀衆との戦いに駆り出され、その功で大和守護に任じられるなど織田家での地位を固めていく中、1577年に久秀は再び信長に背いた。
順慶は松永攻めの先鋒を務め、追い詰められた久秀父子は自害。一説には久秀の遺体を引き取り手厚く葬ったとされる。
その後も織田軍として多くの戦に参陣し、手柄を立てた。
1580年には信長より本城を除く全ての城の破却を命じられ、低地にありしばしば水害に見舞われた筒井城を打ち壊し、大和郡山城を居城に定めた。
また天正伊賀の乱では織田信雄(のぶかつ)の指揮下で戦うも、伊賀衆の夜襲を受け手勢4千のうち半数を討たれた。
1582年、明智光秀は本能寺で信長を討った。
光秀は順慶が織田家に降る際に仲介を務め、教養深く親友の間柄で、縁戚関係にもあったため真っ先に味方になるよう誘ってきた。
しかし順慶は島左近、松倉重信(まつくら・しげのぶ)ら重臣と評定を重ねた末、それを拒絶した。
光秀は洞ヶ峠まで兵を進め順慶を牽制したものの、筒井軍は最後まで事態を静観し続けた。後年、順慶が洞ヶ峠まで兵を進めたが山崎の戦いを傍観したと歪曲され「洞ヶ峠を決め込む」という言葉が生まれた。
光秀は娘婿の細川家にも協力を断られ、筒井・細川ら光秀の縁戚で多くの兵力を有する彼らが参戦しなかったことで、他の大名も光秀に味方することに二の足を踏んだため、やがて「中国大返し」で全軍挙げて引き返してきた羽柴秀吉に大きく兵力差で劣ることとなり、滅亡の要因となった。
戦後、順慶は秀吉に臣従を申し出たが、参戦の遅れた彼を秀吉は叱責し、動揺のあまり病を得たと伝わる。
1584年、無理をおして小牧・長久手の戦いに出陣するも、それが祟ったか帰還後に間もなく36歳の若さで没した。
家督は男子が無かったため甥の筒井定次(さだつぐ)が継いだが、秀吉の本拠地・大坂城に隣接する所領が災いしてか、伊賀に転封させられ、徳川家康の代には難癖をつけられついに改易された。
大名家としての筒井家は滅びたが、旗本として幕末まで存続した。
なお筒井順正(じゅんせい)なる毛利家の家臣が順慶の実子とされるが、後世の人々による後付け設定と考えられる。
※アイコンは蘇飛
池田勝正(いけだ・かつまさ)
摂津の人(1539?~1578?)
摂津の国人衆・池田長正(ながまさ)が没すると、家督を継いだ。
長正との関係は親子とも、ただの一族だが文武両道に優れたため長正が跡を継がせたとも言われる。
当時の池田家は富に恵まれ、ルイス・フロイスは「畿内で最も卓越し、最も装備の整った兵1万をいつでも供出できた」と記している。
池田家は三好家に従属していたが1568年、織田信長が侵攻してくると抗し切れずに降伏した。
信長は勝正の武勇を気に入り、抵抗したにも関わらず加増した上で本領安堵とし、摂津守護の地位を与え和田惟政(わだ・これまさ)、伊丹親興(いたみ・ちかおき)とともに摂津を統治させた。
1569年、三好三人衆が将軍・足利義昭(あしかが・よしあき)を襲撃すると、勝正はわずかな手勢を率いて救援に駆けつけ、敵陣にただ一騎で切り込む勇猛ぶりを発揮した。
翌1570年、金ヶ崎の戦いでは反乱した浅井長政に背後を襲われた織田軍の殿軍を務め、信長を無事に撤退させた。羽柴秀吉の出世試合として知られ、明智光秀も参戦していたこの戦で彼らを指揮したのが勝正である。
しかし同年6月、長正の娘婿の荒木村重(あらき・むらしげ)と長正の嫡子(勝正の弟ともいう)池田知正(ともまさ)が結託し、勝正を追放し織田家に反逆した。
異説として勝正は一族と反目した末に数人を斬り捨て出奔したともいうが、いずれにしろ池田家を離れ織田家に仕え、足利義昭と信長が敵対すると幕府に仕えるようになった。
その後、織田方に転じた荒木村重に敗北し、高野山へ追放された。
勝正は隠居したとも、旅に出て九州に渡ったとも、細川家や有馬家に仕えたとも言われ、また1574年に「池田カツマサ」なる人物が石山本願寺に協力したとする記録があり、同一人物だろうか。
池田家の史料では1578年に没した。
同年、荒木村重と池田知正は突如として信長に反旗を翻し、1年余りの抵抗の後に妻子を捨てて逃亡した。
1582年、信長が本能寺の変で討たれると知正は秀吉に仕え、大名にこそ列しなかったが旗本となり、関ヶ原の戦いでもうまく立ち回り徳川家に仕えたものの、没すると2代後の当主が家臣の横領の罪で改易となり、以降の池田家が再興することはなかった。
※アイコンは孫策
足利義輝(あしかが・よしてる)
京の人(1536~1565)
室町幕府第13代将軍。
第12代将軍・足利義晴(よしはる)の嫡子として生まれる。この頃の足利家は衰退し、管領の細川晴元(ほそかわ・はるもと)に敗れては近江へ逃れ、和睦しては京に戻りを繰り返していた。
1546年、義輝は11歳で将軍職を譲られた。父の義晴も同じく11歳で将軍となったことにちなみ、また自分が健在のうちに義輝を後見したいとの狙いがあったと見られる。
京を追われていたため近江坂本で将軍に就任し、はじめは足利義藤(よしふじ)と名乗った。2年後に細川晴元と和睦し京へ戻った。
1549年、細川家の重臣・三好長慶(みよし・ちょうけい)が、晴元に父を殺された細川氏綱(うじつな)を抱え上げ(なお長慶もやはり父を晴元に殺されている)反旗を翻した。
晴元は連敗し京から逃れ、義輝もいつも通り近江坂本へ逃げたが潜伏中に義晴が病死した。
1552年、細川氏綱を管領にするという条件で長慶と和睦したが、義輝は傀儡の立場に置かれた。翌年に晴元と協力して三好軍と戦うも敗北し、おなじみの近江坂本に逃れ5年を過ごし、名を義輝に改めた。
そのさなかに年号が永禄に改元されたが、義輝はそれを知らずに3ヶ月間、以前の年号を使い続けてしまい、朝廷に抗議したという不遇過ぎる逸話が伝わる。
1558年、近江守護・六角承禎(ろっかく・じょうてい)の援軍を得た義輝は、晴元ともに反撃に転じた。
序盤は優勢だったが四国から三好家の本隊が駆けつけると戦況は逆転し、六角軍も進撃をやめてしまった。
同年、六角承禎の仲介により長慶と和睦し、義輝は5年ぶりに京に戻った。
長慶も前回の反省を活かしてか、義輝を名目上は将軍として推戴し、自身は幕臣として仕えた。
義輝は幕府と将軍の権威復活のため、全国の大名の争いを調停し、また各地方の有力者に守護職や自分の名を一字与えて回った。
一字拝領した者は義藤の頃に与えた細川藤孝(ふじたか)を皮切りに、毛利輝元(もうり・てるもと)、伊達輝宗(だて・てるむね)、上杉輝虎(うえすぎ・てるとら 上杉謙信)、島津義久(しまづ・よしひさ)、武田義信(たけだ・よしのぶ)など東北から九州まで非常に多い。
義輝の奮闘は功を奏し、上杉謙信や織田信長らが上洛し、彼らに将軍の名を大義名分として利用される程度にまで権威は回復した。
1562年、長慶の弟・三好実休(じっきゅう)が六角・河内畠山軍に敗れ戦死すると、先に勇猛で知られた下の弟・十河一存(そごう・かずなが)も失っていた長慶は弱気に陥り、三好家に衰退の兆しが見え始めた。
長慶と政所執事の伊勢貞孝(いせ・さだたか)が対立すると、義輝はその機に乗じすかさず長慶に肩入れし伊勢貞孝を更迭。
貞孝が反乱を起こすと長慶に命じて殺させ、実に200年近く続いた伊勢家の政所支配に終止符を打った。
1564年、長慶は錯乱し末弟で三好家の重臣・安宅冬康(あたぎ・ふゆやす)に死を命じた挙句、後を追うように病死した。
長年の宿敵が消えた義輝はいよいよ幕府再興の好機と喜んだが、長慶の死後に三好家、引いては幕府を牛耳ろうと考えていた松永久秀と三好三人衆が暗躍を始める。
まず義輝の叔父・足利義維(よしつな)と結託すると、義維の嫡子・足利義栄(よしひで)を新たな将軍候補として擁立した。
細川晴元、細川氏綱もすでに亡く、六角家もお家騒動で傾いており、義輝に味方する有力者はもはやいなかった。
そして1565年、松永久秀と三好三人衆は、三好家当主の三好義継(よしつぐ 長慶の養嗣子)とともに二条御所を襲撃した。
戦国の世に二人きりの剣聖・上泉信綱(こういずみ・のぶつな)と塚原卜伝(つかはら・ぼくでん)に師事し、卜伝からは奥義「一之太刀」を伝授されたという義輝は自ら刀を振るい奮戦したが衆寡敵せず、最期は刺客たちが四方から畳を盾として槍で突き掛け、刺し殺されたという。享年30。
足利家に伝わる名刀を十数本持ち出し、抜き身で畳に刺しておき、何人か斬り捨てては刀を取り替え戦い続けたとも言われ、この逸話は「日本刀は数人斬ったら血と脂で切れ味を失う」とする説の傍証(剣豪で知られる義輝があらかじめ刀を十数本も用意しておいたのは、数人斬っただけで使えなくなるとわかっていたからだ、というもの)として使われることがある。
またルイス・フロイスは「はじめは薙刀を振るい後に刀を使った」と記しており、剣術のみならず薙刀術も身に着けていたことがうかがえる。
義輝の死後、弟の足利義昭(よしあき)も幽閉されたが、義輝に仕えた細川藤孝らが救出し、付近の大名に支援を求めた。
それに応じた織田信長が決起し三好一派を駆逐すると、足利義昭を第15代将軍に据えたものの、やがて仲違いし信長は義昭を追放した。
義昭は毛利家のもとに流れ、後に豊臣秀吉と和解し京へ帰還を果たしたが、没すると子や孫はみな出家してしまい、血筋は途絶えた。
他にも義昭の子孫を自称する者が数名いるがいずれも出自の確認は取れない。
三好三人衆に推戴された足利義栄は第14代将軍となるが、病弱で庇護されていた四国から出られず、とうとう京へ足を踏み入れないまま没し、三好一派も信長に敗れ散り散りになっていった。
また公式記録では義輝には生後3ヶ月で没した長男以外に男子はないが、非公式に義輝の息子とされる人物が2人いる。
一人は尾池義辰(おいけ・よしたつ)で、細川藤孝の孫・細川忠利(ただとし)が藩主になると、彼を探し出して召し抱えたという。
もう一人は義輝暗殺の際に家臣によって救出された足利義高(よしたか)で、丹波波多野家に養育され、のちに僧侶になったという。
※アイコンは袁尚
赤松義祐(あかまつ よしすけ)
播磨の人(1537~1576)
播磨の大名。長じると父で播磨守護の赤松晴政(はるまさ)とともに政務に当たったが1558年、浦上政宗(うらがみ・まさむね)の後ろ盾を得て父を追放し守護の座を奪った。
晴政は娘婿の赤松政秀(まさひで)と協力して義祐に対抗し1564年、浦上政宗の息子の結婚式を襲撃し政宗父子を討ち取るなど内紛は長く続いた。
翌1565年、晴政が病没すると政秀は義祐と和解したが、その後も当時京の都を追われ放浪していた足利義昭(あしかが・よしあき)に接触するなど勢力拡大に動き、東播磨の別所安治(べっしょ・やすはる)もまた独立の気配を見せ、赤松家の衰退は誰の目にも明らかだった。
1568年、足利義昭が織田信長の庇護を得ると、政秀は娘を義昭の侍女として仕えさせようとした。
義祐は宗家を無視した行動に怒り、その娘を拉致させると浦上宗景(むねかげ 政宗の弟)とともに政秀を挟撃した。
政秀はたまらず足利義昭に救援を求め、義昭の要請で織田信長が援軍を出した。それに勢力拡大の好機と別所安治も加わり、さらに宇喜多直家(うきた・なおいえ)の謀叛で浦上軍も撤退し、義祐は窮地に立たされた。
だが幸運にも織田軍に畿内から追われながらもいまだ抵抗を続けていた三好家が後方で蜂起すると、信長は撤退を指示した。
義祐はすかさず信長に臣従を申し出ると、政秀と戦闘を続けていた浦上家を一転して攻撃した。
一方の政秀は黒田官兵衛父子に大敗し、浦上軍によって捕らえられた挙句に暗殺された。
宇喜多直家も孤立し浦上家に出戻ると義祐は兵を引き上げ、一連の動乱は終息した。
1570年、義祐は息子の赤松則房(のりふさ)に家督を譲り、その6年後に没した。
則房は織田・豊臣政権下でも名家の当主として一目置かれ豊臣秀吉の御伽衆を務めた他、賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦い、四国攻め、朝鮮出兵など秀吉の主要な戦のことごとくに参戦し、1598年に没した。
しかし「参戦した」以外の記録がほとんどなく、播磨の他に与えられた阿波での事績も謎に包まれ、関ヶ原の戦いで西軍に属し切腹したとする異説もあり則房の、そして赤松家の最期は判然としない。