三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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細川藤孝(ほそかわ・ふじたか)
京の人(1534~1610)
三淵家の次男に生まれたが、7歳で伯父の和泉半国守護・細川家の養子になったとされる。
養父は別人で将軍・足利義藤(あしかが・よしふじ 後の足利義輝)の側近とも淡路守護とも言われるがいずれにしろ名家で、13歳で将軍から一字拝領し藤孝と名乗り、19歳で従五位下・兵部大輔に叙任された。
生涯にわたり武芸百般や歌道・茶道・蹴鞠・囲碁など無数の教養を学び続け、並ぶ者のない文化的素養を備えた。
また怪力で知られ、突進してきた牛の角をつかみ投げ倒したとも伝わる。
長じると足利義輝(よしてる)の側近として仕えるが1565年、三好三人衆と松永久秀によって義輝は暗殺された。
藤孝は兄や義輝の側近・一色藤長(いっしき・ふじなが)らとともに、幽閉されていた義輝の弟・足利義昭(よしあき)を救出し、付近の大名へ支援を訴えた。逃亡生活は貧窮を極め、神社から油を失敬するほどだったという。
いったんは越前の朝倉家に落ち着くが、当主の朝倉義景(あさくら・よしかげ)に京の奪還や義昭の将軍就任を助けるほどの意欲はなく、藤孝は朝倉家に仕えていた明智光秀を通じ、織田信長に援助を求めた。(信長の正室・濃姫と光秀は親戚にあたる)
まだ尾張・美濃2ヶ国を治めるだけの小身ながら「天下布武」を打ち出していた野心深き信長は即座にこれに応じ、瞬く間に上洛を果たすと三好勢力を畿内から一掃し、義昭を15代将軍に就任させた。
だが室町幕府の再興を目指す義昭と、あくまで幕府を大義名分の旗印に使いたいだけの信長は当然のごとく対立し1573年、義昭は京を追放された。それに先立ち藤孝や光秀は鞍替えして信長に仕えている。
またこの頃、山城長岡に所領を得て長岡藤孝(ながおか)と改姓した。
藤孝は信長の直属、あるいは光秀の与力として各地を転戦し、1578年には信長の勧めで嫡子・長岡忠興(ただおき)に光秀の娘・玉(後のガラシャ)をめあわせた。
1582年、本能寺の変で信長を討った光秀は、藤孝に協力を求めた。
だが上官で親戚で親友でもある光秀の要請を拒絶し、藤孝は剃髪すると幽斎(ゆうさい)と号し、忠興に家督を譲り隠居した。
やはり幽斎と同じ立場の筒井順慶(つつい・じゅんけい)も模様眺めに徹したため、反乱にあたり戦力に数えていた長岡・筒井両家の援軍を失った光秀は、大した軍勢を集められず、中国地方から驚異的な早さで帰還し、畿内方面軍と合流した羽柴秀吉の大軍に敗れ討ち死にした。
長岡家は秀吉に仕え、幽斎は隠居後もたびたび戦に出陣した。
父の薫陶を受けた忠興も千利休の高弟として名を馳せ、また勇猛で多くの武功を立てた。
一方で徳川家康とも親交厚く、1598年に秀吉が没するといち早く家康に接近した。
1600年、関ヶ原の戦いでは忠興が主力を引き連れ家康の下にいたため、幽斎のもとには500足らずの兵しかいなかった。
家康討伐のため挙兵した石田三成は諸大名の妻子を人質に取ろうとしたが、それを拒みガラシャは屋敷に火を放ち自害した。
幽斎の籠る丹後田辺城にも前田茂勝(まえだ・しげかつ)らの率いる1万5千の大軍が迫ったが、寄せ手には幽斎に歌道を学んだ弟子が数多くいたため戦意に乏しく、本格的な城攻めには発展しなかった。
また朝廷とも縁深く、当代随一の教養人で、唯一の古今伝授(古今和歌集の解釈を中心に歌道のあらゆる知識を一子相伝で受け継ぐこと)の伝承者でもある幽斎を惜しみ、後陽成天皇をはじめ多くの公家が停戦を働きかけたため、2ヶ月の籠城戦の果てに幽斎は降伏した。
関ヶ原は家康の東軍の勝利に終わり、活躍した忠興は豊前小倉40万石を与えられた。
長岡家は細川家に復し、細川幽斎と改めると今度こそ悠々自適な隠居生活を送り、1610年に幽斎は没した。享年77。
細川家は加藤家の改易後、肥後熊本に移り幕末まで続いた。