三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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中川清秀(なかがわ・きよひで)
摂津の人(1542~1583)
はじめは池田勝正(いけだ・かつまさ)に仕え、勝正が織田信長に降るとそれに従ったが、池田家に内紛が起こり勝正が追放され池田知正(ともまさ)が当主になると、一転して織田家と戦った。
1572年には荒木村重(あらき・むらしげ)とともに織田方の和田惟政(わだ・これまさ)を討ち取った。
やがて摂津の有力国人衆が衰退していき、池田家にも陰りが見えると清秀は村重や従弟の高山右近(たかやま・うこん)とともに独立し、村重が信長の傘下に入り摂津を任されるとその家臣となった。
1578年、村重が信長に突如として反旗を翻すと、はじめはそれに従ったが、織田軍の猛攻にさらされると右近とともに寝返った。
村重は妻子を捨てて毛利家に亡命し、清秀と右近は以後、近畿・四国方面軍の丹羽長秀(にわ・ながひで)や池田恒興(いけだ・つねおき)の麾下に入った。
なお村重の謀叛の理由として清秀が石山本願寺へ兵糧を横流ししていたため処罰を恐れたという説があり、また清秀は一時は謀叛を取りやめようとした村重を「信長公は一度疑いを持てばいつか必ず滅ぼそうとする」と説得して翻意させており、村重の謀叛の原因を作り、取りやめを翻意させ、最後は寝返って敗因になるという絵に描いたようなマッチポンプぶりである。
1582年、信長が本能寺の変で討たれると近畿・四国方面軍は内紛に明け暮れ身動き取れなかったが、羽柴秀吉が「中国大返し」で引き返してくるとそれに合流し、山崎の戦いで明智光秀を撃破した。
戦後、秀吉は清秀の陣の前を通りがかると上機嫌で「瀬兵衛(せべえ 清秀の名)、骨折り」と呼びかけた。気に障った清秀は「猿め、はや天下を獲った気でおるわ」と大声で言い返し、秀吉は聞こえぬふりをして去っていったという。
翌1583年、賤ヶ岳の戦いでも秀吉のもとで参戦したが、佐久間盛政(さくま・もりまさ)の猛攻にさらされ討ち死にした。享年42。
家督は16歳の嫡子・中川秀政(ひでまさ)が継ぎ播磨三木13万石まで昇進したものの、文禄の役で鷹狩り中に奇襲を受け25歳で戦死した。
この不用意な戦死は本来ならば改易処分だが、清秀の武功に免じて弟の中川秀成(ひでなり)への相続が許され、中川家は後に豊後岡7万石へ移され幕末まで続いた。
また清秀の妹は古田織部(ふるた・おりべ)に嫁いだため、織部が主役を務める漫画「へうげもの」にも兄妹は重要な役どころで登場しており、徐々に知名度を上げている。