三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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結城朝勝(ゆうき・ともかつ)
下野の人(1569~1628)
下野の大名・宇都宮広綱(うつのみや・ひろつな)の次男。
1577年、宇都宮・結城・佐竹家の間で三国同盟が結ばれた際に、男子のない結城家当主の結城晴朝(ゆうき・はるとも)の養子となった。
翌年、北条家が佐竹領の常陸に攻め寄せると三国連合軍はこれを撃退し、10歳の朝勝は初陣を果たしたとされる。
しかし1590年、晴朝は天下人となった豊臣秀吉に取り入るため、秀吉が養子にしていた徳川家康の次男・秀康(ひでやす)を養嗣子としてもらい受けた。
そのため継承権を失った朝勝は、結城家を継ぐことなく宇都宮家へ出戻った。
(ただし近年になって、1587年に発給された文書に晴朝ではない結城家当主の花押が発見され、朝勝がすでに家督を継いでいたとする説が急浮上している)
その後の朝勝は長兄の宇都宮国綱(くにつな)に従うも、1597年に宇都宮家は突如として改易された。
母方の従弟である佐竹義宣(さたけ・よしのぶ)の客将となり、1600年の関ヶ原の戦いに際しては上杉家と佐竹家の間を取り持ったり、宇都宮家の旧臣に挙兵を呼びかけるなど活躍した。
戦後、宇都宮家が出羽秋田に転封になるとそれに付き従うも、1614年からの大坂の陣では大坂方についた。
真田幸村や毛利勝永(もうり・かつなが)とともに、徳川家康の孫娘の婿である小笠原秀政(おがさわら・ひでまさ)を討ち取り、幸村は戦死したが、朝勝は無事に生還。
家康の目を恐れてか、宇都宮姓に復すとともに出家し宗安(そうあん)と名乗り、晩年は武士を辞め神官になったという。
1628年、60歳で没した。
男子がなかったため佐竹家の重臣・真壁家から養嗣子を迎え、宇都宮光綱(みつつな)と名乗らせ、宇都宮家は以降、佐竹家の家臣として存続した。
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結城晴朝(ゆうき・はるとも)
下総の人(1534~1614)
小山家の三男に生まれたが1559年、伯父の結城政勝(まさかつ)が死去し跡継ぎがいなかったため名門・結城家を継いだ。この時、政勝は父との親子の縁を切る起請文を書かせたという。
晴朝は義父の路線を引き継ぎ当初は北条方についたが、上杉謙信が関東管領を譲られると一転して上杉方についた。
北条方についた実家の小山家とは敵対し、たびたび交戦した。1573年に父が没したが立場上駆けつけることが出来ず、父子ともに懇意にしていた住職に焼香に行かせたという。
1576年、実家の小山家が北条家に降ると北条軍の攻勢はさらに強まった。
晴朝は実子がないため宇都宮家から養子を迎え結城朝勝(ともかつ)と名乗らせ、さらに妹を佐竹家傘下の江戸家に、重臣の那須家の娘を佐竹義宣(さたけ・よしのぶ)に嫁がせるなど政略結婚で周辺の大名と同盟し北条家に対抗した。
その後、豊臣秀吉が台頭すると晴朝はいち早く接近し、1590年の小田原征伐にも参戦し所領を安堵された。
さらに秀吉が養子にしていた徳川家康の次男を養女の婿として迎え入れ、その結城秀康(ひでやす)に家督を譲った。
異説としてすでに結城朝勝に家督を譲っていたがそれを退位させたとする説もあるが、いずれにしろ立場を失った朝勝は実家の宇都宮家に戻されている。
1604年、結城秀康が越前に転封になると晴朝もそれに従った。
だが1607年、秀康が没し跡を継いだ忠直(ただなお)は松平姓に復してしまう。実父や養子(朝勝)と縁を切ってまで結城家の存続に努めてきた晴朝は動揺し、徳川家康に懇願して秀康の五男・直基(なおもと)を譲り受け結城家を継がせた。
晩年の晴朝は結城家の家系図や過去帳、家伝の編纂に情熱を捧げ1614年に81歳で没した。
跡を継いだ結城直基もまた1626年、松平姓に復してしまったが、家紋は変わらず結城家の物を用い、祭祀も絶やさなかったという。
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松田憲秀(まつだ・のりひで)
相模の人(??~1590)
後北条家の重臣。
松田家は北条早雲の頃から代々家老を務め、憲秀は母が北条綱成(ほうじょう・つなしげ)の妹、娘が北条氏康の側室と一門衆に連なっていた。
内政・外交で辣腕を振るい、また伯父の綱成とともに籠城戦を行うなど軍事でも重きを置かれた。
広大な領地を持つ北条家の重臣として、文書発給に印章を用いるなど大名に等しい扱いを受けた。
しかし1590年、豊臣秀吉の小田原征伐において当初は徹底抗戦を主張するも、堀秀政(ほり・ひでまさ)の調略により、長男の笠原政晴(かさはら・まさはる)とともに寝返りを画策した。
だが次男の松田直秀(なおひで)の密告により露見し、政晴は処刑され憲秀は投獄。北条家の降伏後は秀吉によって不忠者として切腹を命じられた。
また筆頭家老の憲秀の裏切りを知り、北条氏政(うじまさ)ら主戦派は抗戦を諦めたとされる。
死の経緯については異説があり、勝ち目がないと悟った憲秀は、独断で秀吉に相模・伊豆を残し他の領地を割譲することで和睦交渉を進めたが、それを知った北条家は憲秀を幽閉した、とするものもある。
また長男の笠原政晴は生き長らえ、僧侶になったとする伝承も残る。
次男の直秀は許され、後に北条氏直(うじなお)の偏諱を受けた名を捨て松田憲定(のりさだ)と改名し、豊臣秀次(とよとみ・ひでつぐ)、次いで前田利長(まえだ・としなが)に仕え、血統は残った。
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正木頼忠(まさき・よりただ)
安房の人(1551~1622)
勝浦正木家の当主・正木時忠(ときただ)の五男。
1564年、父の時忠は正木宗家の勢力が弱まると独立を目論見、従属していた安房里見家を裏切り、相模の後北条家に鞍替えした。
頼忠は人質として小田原城に送られ、北条氏康の弟・北条氏尭(ほうじょう・うじたか)の娘をめとった。
しかし1573年頃に時忠は再び里見家に帰参してしまい、頼忠は一門衆とあって処刑こそされなかったが、北条家の厳しい監視下に置かれた。
1578年、父や兄らが相次いで亡くなったため、頼忠は妻子を小田原に残し勝浦正木家に戻り家督を継いだ。
その後は里見義頼(さとみ・よしより)の家督相続に協力し、反乱した正木宗家を滅ぼしたため信任を受け、義頼の姉妹をめとると、北条家と交渉し2人の息子を引き取った。
1590年、豊臣秀吉の小田原征伐で北条家が滅亡すると、徳川家康が関東に移封された。
里見家が秀吉の逆鱗に触れ上総を失ったため、正木家も所領を奪われ、頼忠は安房一国の大名となった里見家の下に移り出家した。
この件で秀吉と里見家との間を取り持った家康に、頼忠の娘の於万(おまん)が見初められ側室となったため、1598年には出仕を求められたが、頼忠はそれを辞退し代わりに2人の息子を家康に仕えさせた。
1612年、家康から改めて出仕を促されたがやはり固辞し、1614年に里見家が改易となり安房を去ると、次男の三浦為春(みうら・ためはる)の庇護を受けた。
1619年、於万の子で為春が仕える徳川頼宣(よりのぶ)が紀伊へ移封となると、頼忠も紀伊に移り住み、同地で72歳で没した。
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北条綱成(ほうじょう・つなしげ)
相模の人(1515~1587)
駿河の今川家に仕えた福島家の生まれで、父とされる福島正成(ふくしま・まさなり)の没後に北条家に仕えた。
その経緯としては1521年に正成が武田家と戦い討ち死にし、一族は(敗戦の責任を問われるのを恐れ?)相模に落ち延びた、とする説と1536年、今川家の家督争いで玄広恵探(げんこう・えたん)を支持したものの今川義元に敗れ、正成も戦死したため一族が北条家に亡命した、とする説の2つがある。
当主の北条氏綱(うじつな)は勇猛な綱成を気に入り、娘婿に迎えるとともに北条姓を与えた。
綱成より年若い北条為昌(ためまさ)の後見役に任じられ、為昌が没すると代わって玉縄城を任された。
北条家は精鋭部隊にそれぞれ五色の色を振り分け兵装を同色で統一し「五色備え」と称したが、綱成は黄備えを率い、朽葉色の旗に信仰する八幡大菩薩の「八幡」の字を記したことから地黄八幡(じきはちまん)の異名で知られた。
これには直八幡(じきはちまん)と読み、八幡大菩薩の直系だという意味も含まれるとされる。
氏綱の没後、跡を継いだ北条氏康からの信頼も厚く1546年、かの河越夜戦では上杉憲政(うえすぎ・のりまさ)の発した8万もの大軍を相手に半年あまり籠城戦で持ちこたえ、氏康の援軍が到着すると城門を開いて突撃を仕掛け「日本三大奇襲」の一つに数えられる大逆転劇に貢献した。
綱成の率いる玉縄衆は常勝軍団として恐れられ、綱成自らが先頭に立ち「勝った!」と叫びながら斬り込み、上杉謙信や武田信玄、太田資正(おおた・すけまさ)ら名だたる軍略家をも幾度となく打ち破った。
義兄にあたり同い年の氏康とは兄弟同然の仲で、氏康の名代として軍事や外交の全権を託されることもたびたびあった。
また幼い頃は訓練を見て卒倒するなど臆病なところのあった氏康に代わり、綱成を当主に推す動きもあったという。
1571年に氏康が没したのを機に、綱成は息子の北条氏繁(うじしげ)に家督を譲って隠居・出家し、そのまま復帰することなく1587年に73歳で没した。
綱成が用いた「地黄八幡」の旗指物は現存し、真田家が所持している。
これは北条家と武田家の和睦後、明け渡された北条家の城に残されていた旗を武田信玄が持ち帰り、綱成の武勇にあやかるようにと真田家に与えたものだという。
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北条氏規(ほうじょう・うじのり)
相模の人(1545~1600)
北条氏康の五男。
幼少期は人質として今川義元に預けられた。一時は養子として迎えられ義元の次男に等しい扱いを受けたという。
またこの頃に同じく人質だった徳川家康とは、家が隣同士で親交を結んだと言われる。
兄の北条氏照(うじてる)、氏邦(うじくに)らと同じく武勇に優れ水軍を率いた他、外交手腕に長け上杉家や武田家、徳川家や伊達家など大大名たちの間を取り持った。
特に家康とは旧交を温め、家康から氏規に宛てた書状が多く残されている。
1590年、豊臣秀吉の小田原征伐を招くと、前当主の北条氏政(うじまさ)、氏照、氏邦らが徹底抗戦を唱える中、氏規は降伏を主張。
家康の仲介により上洛し秀吉と交渉を重ねたが、苦労は報われず攻撃が開始されると、居城の韮山城に籠った。
押し寄せる4万の大軍を相手に、たった300の小勢で4ヶ月にわたり防戦したが、家康の説得により降伏し、以後は抵抗を続ける家臣や兄らに降伏を勧める使者を務めた。
戦後、氏政、氏照は主戦派として切腹を命じられ、氏邦も前田利家の臣下に甘んじる中、氏規は秀吉の許しを得て河内に知行を与えられた。
1600年に56歳で没し、嫡子の北条氏盛(うじもり)が跡を継いだ。
氏盛は先に養父・北条氏直(うじなお 氏政の子)の遺領も与えられており、あわせて1万石で大名に連なり河内狭山の藩祖ともなった。
父の死後、間もなく起こった関ヶ原の戦いでも東軍に属し、明治期まで家名存続している。
※アイコンは焦触
北条氏邦(ほうじょう・うじくに)
相模の人(1541~1597)
北条氏康の四男。
若い頃に調略工作として藤田家に婿入りし藤田氏邦を名乗った。逆に北条氏邦を名乗る記録は残されておらず、生涯を藤田姓で通した可能性も高い。
また養父が没すると家を乗っ取り、藤田一族を粛清している。
次兄の北条氏照(ほうじょう・うじてる)と同様に武勇や統治能力に優れ、氏照は主に東方面、氏邦は北方面を任された。
三増峠の戦い、御館の乱、本能寺の変後の上野侵攻など主要な戦では氏照とともに主力を率いて戦っている。
政治面では養蚕に特に力を注ぎ、上野での産業発展の立役者とされる。
1589年、真田家の名胡桃城を攻め落とし豊臣秀吉の発した惣無事令(戦闘禁止命令)に背いたため、北条家征伐の口実を与えてしまう。
翌年、秀吉率いる20万超の大軍が攻め寄せると、氏照は小田原城を頼みに籠城戦を主張したが、氏邦は全軍を率いての野戦を主張。
それを却下されると居城の鉢形城に籠城したが、前田利家に攻められ降伏した。
敗戦後、氏照や前当主の北条氏政(うじまさ)らは主戦派として切腹を命じられたが、氏邦は利家の助命嘆願や剃髪により許され、以降は前田家に仕えた。
1597年、加賀金沢で57歳で没する。妻の眠る武蔵正龍寺に遺骨を移され、法要の際には、参列客が山一つを越えるほどの長蛇の列をなし、北条家の往時の偉容をしのばせたという。
妻は鉢形城に残され正龍寺で出家したが1593年に病死か自害を遂げた。
末子は前田慶次の娘をめとったが孫の代に無嗣断絶し、甥(氏政の子)で養子に迎えた北条直定(なおさだ)は紀州徳川家に仕えるも数代後に系図から消えてしまっている。
※アイコンは沮授
大道寺政繁(だいどうじ・まさしげ)
相模の人(1533~1590)
北条家の筆頭家老。
大道寺家は「御由緒家」と呼ばれる重臣で、代々北条家の家老を担った。
政繁も河越城代を務め、「河越衆」と呼ばれる部隊を率いて主要な戦のほとんどに参戦した他、鎌倉代官や寺社奉行、河越・坂戸の統治に卓越した政治手腕を発揮したという。
1546年、かの河越夜戦では剛勇で知られた本間近江守(ほんま・おうみのかみ)を討ち取り、死の間際に近江守が旗指物に付けていた「九つ提灯」を託された。以来、北条家の武士は政繁と近江守の武勇にあやかって提灯を飾るようになり、これが馬印の発祥とされる。
1582年、織田信長が本能寺の変で討たれると、織田家の関東方面軍は総崩れとなった。
北条家はその隙に上野を奪取し、さらに徳川家・上杉家と甲斐・信濃の争奪戦を繰り広げた。その際に信濃小諸城を預かり最前線に立ったのも政繁である。
1590年、豊臣秀吉の小田原征伐では前田利家、上杉景勝、真田昌幸(さなだ・まさゆき)らの圧倒的な大軍を碓氷峠で迎え撃つも敗北を喫した。
上野松井田城に籠もり防戦に努めたが、玉砕を覚悟し幼い孫らを密かに逃がした。真田昌幸らはそれを捕捉したが、あえて見逃したという。
兵糧攻めにあい、水の手も断たれ、本丸に敵が迫るとやむなく降伏した。
その後は豊臣軍に積極的に協力し、特に八王子城の攻略戦では城の弱点を教えたり、手勢を突入させたりもしたが、小田原城が陥落すると北条氏政(うじまさ)、北条氏照(うじてる)、松田憲秀(まつだ・のりひで)らとともに主戦派と見なされ切腹を命じられた。享年58。
徳川家康は次女の督姫(とくひめ)が嫁いでいた北条氏直(うじなお)、さらに政繁の子らの助命嘆願をし認められた。
長男の大道寺直繁(なおしげ)は徳川秀忠に仕え、次男の直昌は前田利家に、三男は出家し四男の直次(なおつぐ)は黒田官兵衛らに仕えた後に徳川秀忠の旗本となり、五男(ただし養子で最年長)の直英(なおひで)はかねてより築城の名手として知られており、名古屋城や弘前城の築城に携わるなど、政繁の内政手腕を受け継いだ兄弟は各地の大名に重用されている。
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里見忠義(さとみ・ただよし)
安房の人(1594~1622)
安房の大名・里見義康(よしやす)の嫡子。
1603年、父が没したため10歳で家督と安房・常陸12万石を継いだ。
将軍・徳川秀忠から「忠」の字を拝領し、江戸幕府老中を務める大久保忠隣(おおくぼ・ただちか)の孫娘を妻に迎えるなど、幕府から厚遇された。
だが家中は度重なる当主の早逝で混乱し、年若い忠義には収めきれず分裂を招いていた。
1614年、重陽の節句にあたり江戸城へ祝賀の挨拶に出向いたところ、突如として謹慎を言い渡された。
大久保忠隣の失脚に連座させられ安房9万石を没収、さらに間もなく伯耆倉吉3万石への転封を命じられた。
異説として伯耆倉吉の所領はわずか4千石で、1617年にはそれすらも没収され百人扶持の身分にまで落とされたという。
1622年に29歳の若さで没し、嗣子がなく里見家は滅亡した。
曽祖父の里見義弘(よしひろ)以来、当主の早逝が相次いだ末の悲劇であった。
また8人の側近が忠義に殉死し「八賢士」と讃えられ、彼らが「南総里見八犬伝」の「八犬士」のモデルとされる。
※アイコンは金禕
里見義康(さとみ・よしやす)
安房の人(1573~1603)
安房の大名・里見義頼(よしより)の長男。
1587年に父が没したため15歳で家督を継いだ。
父の路線を引き継ぎ豊臣秀吉に従ったが、1590年の小田原征伐で秀吉の逆鱗に触れ、上総・下総を没収され安房4万石に減封された。
理由は長らく小田原への遅参とされたが、近年の研究では惣無事令(戦闘禁止令)に背き小弓公方の足利頼淳(あしかが・よりあつ)を擁立し、旧領回復のため北条領を攻撃したこと、鎌倉公方の再興を掲げ勝手に禁令を発したことなどが原因と考えられている。
またこの際に仲裁役を務めた徳川家康と親交を深めたとされる。
1600年、関ヶ原の戦いでは東軍に加わった。
中山道から進軍する徳川秀忠への従軍を願い出たが、結城秀康(ゆうき・ひでやす)の下に付けられ、上杉景勝の南下を阻んだ。
この功により戦後、常陸鹿島を与えられ、太閤検地による石高見直しとあわせ12万石に加増された。
1603年、父や祖父と同じように31歳の若さで没し、家督は10歳の嫡子・里見忠義(ただよし)が継いだ。