三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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正木頼忠(まさき・よりただ)
安房の人(1551~1622)
勝浦正木家の当主・正木時忠(ときただ)の五男。
1564年、父の時忠は正木宗家の勢力が弱まると独立を目論見、従属していた安房里見家を裏切り、相模の後北条家に鞍替えした。
頼忠は人質として小田原城に送られ、北条氏康の弟・北条氏尭(ほうじょう・うじたか)の娘をめとった。
しかし1573年頃に時忠は再び里見家に帰参してしまい、頼忠は一門衆とあって処刑こそされなかったが、北条家の厳しい監視下に置かれた。
1578年、父や兄らが相次いで亡くなったため、頼忠は妻子を小田原に残し勝浦正木家に戻り家督を継いだ。
その後は里見義頼(さとみ・よしより)の家督相続に協力し、反乱した正木宗家を滅ぼしたため信任を受け、義頼の姉妹をめとると、北条家と交渉し2人の息子を引き取った。
1590年、豊臣秀吉の小田原征伐で北条家が滅亡すると、徳川家康が関東に移封された。
里見家が秀吉の逆鱗に触れ上総を失ったため、正木家も所領を奪われ、頼忠は安房一国の大名となった里見家の下に移り出家した。
この件で秀吉と里見家との間を取り持った家康に、頼忠の娘の於万(おまん)が見初められ側室となったため、1598年には出仕を求められたが、頼忠はそれを辞退し代わりに2人の息子を家康に仕えさせた。
1612年、家康から改めて出仕を促されたがやはり固辞し、1614年に里見家が改易となり安房を去ると、次男の三浦為春(みうら・ためはる)の庇護を受けた。
1619年、於万の子で為春が仕える徳川頼宣(よりのぶ)が紀伊へ移封となると、頼忠も紀伊に移り住み、同地で72歳で没した。