三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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松田憲秀(まつだ・のりひで)
相模の人(??~1590)
後北条家の重臣。
松田家は北条早雲の頃から代々家老を務め、憲秀は母が北条綱成(ほうじょう・つなしげ)の妹、娘が北条氏康の側室と一門衆に連なっていた。
内政・外交で辣腕を振るい、また伯父の綱成とともに籠城戦を行うなど軍事でも重きを置かれた。
広大な領地を持つ北条家の重臣として、文書発給に印章を用いるなど大名に等しい扱いを受けた。
しかし1590年、豊臣秀吉の小田原征伐において当初は徹底抗戦を主張するも、堀秀政(ほり・ひでまさ)の調略により、長男の笠原政晴(かさはら・まさはる)とともに寝返りを画策した。
だが次男の松田直秀(なおひで)の密告により露見し、政晴は処刑され憲秀は投獄。北条家の降伏後は秀吉によって不忠者として切腹を命じられた。
また筆頭家老の憲秀の裏切りを知り、北条氏政(うじまさ)ら主戦派は抗戦を諦めたとされる。
死の経緯については異説があり、勝ち目がないと悟った憲秀は、独断で秀吉に相模・伊豆を残し他の領地を割譲することで和睦交渉を進めたが、それを知った北条家は憲秀を幽閉した、とするものもある。
また長男の笠原政晴は生き長らえ、僧侶になったとする伝承も残る。
次男の直秀は許され、後に北条氏直(うじなお)の偏諱を受けた名を捨て松田憲定(のりさだ)と改名し、豊臣秀次(とよとみ・ひでつぐ)、次いで前田利長(まえだ・としなが)に仕え、血統は残った。
1. 松田憲秀は忠臣と思います
小田原北条氏を滅亡に追い込んだ張本人、謀反人、内応説等々で、松田憲秀を最悪の家臣と評する解説や小説が出回り、あたかもこれが真実と一般的に定着してしまっています。
三代にわたる北條氏に仕えた重臣、当初の強硬論は事実かとも思われますが、戦況を冷静に見つめる
なかでの、北條氏存続のための、交渉を密かに、独断で当たっていたと思います。
それが家来として、重臣としての忠臣思想であり、本来なら正当に行動について評価されてしかるべきです。 氏政、氏直にこそ先見性がなく、決断力もかけていたことが本来の分析評価と思います・
能力の無い主君の、犠牲になり、悪役として置き換えさせられてと、戦闘心を喪失して、降伏した重臣や一族もいるなか、松田憲秀に一切の悪役を着せるのは、面白可笑しく、興味をそそる、江戸時代の戦記物に影響されているのが要因と思います。憲秀内応説、裏切り者の根拠になる歴史書をご紹介ください。