三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります
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北条氏邦(ほうじょう・うじくに)
相模の人(1541~1597)
北条氏康の四男。
若い頃に調略工作として藤田家に婿入りし藤田氏邦を名乗った。逆に北条氏邦を名乗る記録は残されておらず、生涯を藤田姓で通した可能性も高い。
また養父が没すると家を乗っ取り、藤田一族を粛清している。
次兄の北条氏照(ほうじょう・うじてる)と同様に武勇や統治能力に優れ、氏照は主に東方面、氏邦は北方面を任された。
三増峠の戦い、御館の乱、本能寺の変後の上野侵攻など主要な戦では氏照とともに主力を率いて戦っている。
政治面では養蚕に特に力を注ぎ、上野での産業発展の立役者とされる。
1589年、真田家の名胡桃城を攻め落とし豊臣秀吉の発した惣無事令(戦闘禁止命令)に背いたため、北条家征伐の口実を与えてしまう。
翌年、秀吉率いる20万超の大軍が攻め寄せると、氏照は小田原城を頼みに籠城戦を主張したが、氏邦は全軍を率いての野戦を主張。
それを却下されると居城の鉢形城に籠城したが、前田利家に攻められ降伏した。
敗戦後、氏照や前当主の北条氏政(うじまさ)らは主戦派として切腹を命じられたが、氏邦は利家の助命嘆願や剃髪により許され、以降は前田家に仕えた。
1597年、加賀金沢で57歳で没する。妻の眠る武蔵正龍寺に遺骨を移され、法要の際には、参列客が山一つを越えるほどの長蛇の列をなし、北条家の往時の偉容をしのばせたという。
妻は鉢形城に残され正龍寺で出家したが1593年に病死か自害を遂げた。
末子は前田慶次の娘をめとったが孫の代に無嗣断絶し、甥(氏政の子)で養子に迎えた北条直定(なおさだ)は紀州徳川家に仕えるも数代後に系図から消えてしまっている。